軽井沢から戻りポアロに復帰してから一度も彼女を見かけない。喫茶店に訪れる女性客の顔に罰印がつくが誰も彼もがモノクロで、機械的に仕事をこなす日々。色彩などあまり気にしたことはないし、たいした事でもないが、ふと会話が聞こえてしまうと平均台から落ちるくらいはする。
「何か最近付き合い悪いわね夜子」
「そうだね。新しく出来たクレープ屋には付き合ってくれたけど」
「ポアロだと知られると即座に逃げ出されるのよね。何なの」
「何かあったのかな。やっぱり」
「何かあったんですか、安室さん」
梓さんの棘の含む言葉は笑みに亀裂が走る。
「さぁ……僕は特に何もしてませんよ」
「本当ですか?私の大切なお客様兼お友達なので傷つけたら怒りますよ。この前一緒に買い物に行ったときは普通だったのに」
「やっぱりポアロに行きたくない原因があるのかもね」
「だとするとやっぱり……」
女性三人からの視線が突き刺さる。配膳をしながら「いえ、僕は何も」と言いながらも自分に原因があることは重々承知していた。
「安室さん。実は彼女がいたとか」
「いませんよ」
「元カノから嫌がらせを受けたとか」
「結婚式を上げたようなのでないと思います」
「じゃあ安室さん目当てに来ているお客様に私同様誹謗中傷の嵐にあったとか」
「そのサイトは閉鎖させたのでもうありませんよ」
配膳した食器類を洗っていると三人声を揃えてとどめを刺しにきた。
「「「 じゃあ安室さんが嫌いなのね 」」」
その言葉の直後手にとった皿が滑り床に落としてしまった。粉々に砕けた陶器の残骸を見下ろしながらゆっくりとしゃがみ込み拾う。
「大丈夫ですか安室さん」
「すみません」
「ここは私がやっておきますから、安室さんは注文をお願いします」
梓さんが箒とちりとりを持って片付けてくれる代わりに注文を聞きにテーブルまで向う最中でも。彼女の親しい友人たちの会話は続く。
「最近まで上手くいってるように見えたけど気の所為だったのかな」
「あの子がフリーなら紹介してくれって男がいるから紹介しちゃおうかしら」
「それって三年のテニス部の」
「そうそう。テニス部の主将でイケメンの先輩なんだけど」
「ん―でもわたしはやっぱり一期さんがいいんじゃないかな」
「あ、やっぱり蘭もそう思う?お似合いっていうか一期さんは夜子のことよく見てくれてるし。なにより将来いい旦那になりそう」
「わかる。誠実だし、女性にあまり慣れてない所とか好感が持てるよね」
大変な盛り上がりを見せている女子高生たちの会話。此方を見上げて来るお嬢さんたちの注文を取り下がり、カウンターで片付けを終えた梓さんにオーダー表を手渡す。手分けして注文品を作っていく最中障害物の少ない室内だというのに、食器棚に思いきり額をぶつけてしまった。
「安室さん…大丈夫ですか」
「あ、はい。大丈夫です」
その様子を近くで見ていた蘭さんと園子さんは口を開け物珍しそうに注視された。
「安室さんってアレで全然気がついてない訳?」
「認めないのよ」
「はがゆいわね。あんなの完全に」
「でももしかすると初恋の子と重ねてるだけかもしれない」
「ああ、確か似てるんだっけ」
「うん」
「……はあ。にしたってドラマでも見せられてる気分だわ」
「だね」
小声で話されているため聞こえないが、多分内容は自分の事だろうと察しはつく。額を押さえながら擦り傷が出来ているのを指で触れる。傷か、もう軽井沢でつけられた刀傷は癒え、跡さえ残ってはいない。それでも彼女は気にしているのだろうか、今も尚。消えた傷さえも………。
「安室さん。珈琲をお願いしてもいいですか」
「わかりました」
カップに注いでいると蘭さんが僕の方を指して。
「熱くないんですか安室さん。手にかかってますよ」
確かに熱した液体が左手にかかっていた。
「安室さん。もう早退していいですよ」
梓さんの呆れた眼差しに若干傷つくがお言葉に甘えさせて貰った。
「安室さんはもう少し向き合った方がいいですよ。夜子ちゃんは無闇に人を傷つけるような行動をとる子じゃないですから」
「梓さん」
「安室さんと違って」
やはり梓さんはいいお嫁さんになりそうだ、と心の底から思った。
降谷零。彼が警視庁へ訪れるのは珍しいことである。しかも今日は安室透として任務に当たっている筈なのに、現在彼はデスクに座り溜まっている報告書の処理を行っていた。その姿を遠巻きにどう扱っていいかわからない上司なんとなく醸し出ている落ち込んでいる空気。殺伐と迅速にミスのない仕事ぶりを披露している完璧な上司が何となく普段より覇気がないその様子に、部下たちは困り果てていた。そこへ降谷さんに声をかけるくじを作成し誰が声をかけるか一思いに引いた割り箸の先に赤いペンで「おめでとう」と書いてあったのは。
「降谷。なにかあったのか」
「膝丸。別に何もないが」
「そうか…何もない割には気の沈み様が日を増す事に明瞭なんだが」
「お前の気の所為じゃないか蛇男」
「……彼女を監視するように頼んだのはお前じゃないか」
膝丸の言葉に手を止めキーボードから離し顔を上げると掌を差出言い放つ。
「カメラを寄越せ」
「お前が撮れと言っただろう」
「隠し撮りでローアングルで撮れるとかお前、一度務所に厄介になるべきじゃないか。ロリコン」
「そのままそっくり返すぞロリコン」
室内では飛び交う疑問。ローアングルってなに?!俺達の膝丸さんが女子高生をローアングルで撮影したっていうのか、そんな嘘だろ……っ。二次被害が続出した職場内。彼ら以上の上の者がいない無法地帯で風見はひとりどうするべきか悩んでいた。止めるべきだろうか……。
「彼女の柔軟剤が変わっただと?!前までレ●アハピ●スのプ●●セスオ●ールだったのに!」
「どうやら一緒に住む男が間違えてク●シッ●ロー●を購入してしまった所為だろう」
「ボディーソープとシャンプーボトルは変わってないだろうな」
「無論。それはそのままだ。偶に同居人が使っているようだが」
「あの男……彼女と同じ柔軟剤では飽き足らずついに体臭まで……遠慮しろ沖矢昴」
「お前も使えばいいじゃないか。家にあるのだろ」
「あれは観賞用だ」
「かんしょうよう……?」
膝丸は理解出来なかった。
「いや、もしも彼女が家に泊まりに来た時ように……いや待てよ。俺が使ってる奴を使用させれば彼女は俺と同じ香り……」
「同じ香りになりたくば使えばいいんじゃないか。俺は止めない」
いや、止めて。膝丸さん、止めてください。やだよあんな上司が上司とか。ほんまっ勘弁して下さい。と心の中で阿鼻叫喚地獄に遭遇し始める公安の皆さんの図が広がっていた。
「風見さん…オレ、あんな降谷さんもう見たくないです」
「オレたちにとって降谷さんは憧れの対象なんです、なのに…なのにっ。女子高生のスカートの襞ばっかり追いかけてあの人普段なにしてんですかッ!」
「しまいには高校の校門前で待ち伏せしてんですよ!逮捕した方がいいんじゃないですかね!!」
後輩にそう言われ風見は「確かに」と目を伏せた。
「俺たちの膝丸兄貴を引きこまないで」
「お願いします。あの人は純真無垢よ」
「わかった。少し仮眠をとってきていい」
寝不足に寄る脳内麻痺により情緒不安定な職場の人間が増幅していた。風見は立ち上がろうとしたとき、彼の肩を掴んだのは髭切だった。よりにもよって。
「髭切さん……!」
「ここは僕に任せて。風見はここへ」
「あのここにはなにが」
「降谷のためになるものがある(風見が行った方が楽しいことが起こりそうだ…に福沢諭吉を賭けよう)」
「髭切さん……。少し出掛けて来ます」
勘違いをして遊ばれに行った風見の背中をにこやかな笑顔で見送る髭切。そして膝丸が髭切の存在に気がつき傍へ寄る。
「兄者。戻ったのか」
「うん。どうしてもお前に頼みたい事があってね」
「なんでも言ってくれ兄者」
「粟田口一期の尾行を頼みたいんだ」
「任せろ。必ずや兄者の期待に応えてみせよう!」
張り切る弟を見送り、髭切は周囲で崩れゆく同士たちを持ち場に戻しいい上司の風を吹かせてから、降谷の隣に立つと腕を掲げて大きく振り被り、殴った、かのように思えたがそれは容易くバインダーで防御した降谷。周囲は唖然となり静寂が訪れた。
「ありゃ防がれてしまったよ」
「お前は何がしたいんだ」
バインダーが真っ二つに折れ、備品がと降谷はゴミ箱に投げ入れる。隣の椅子を引き寄せて座る髭切。各自持ち場に戻りそれ以上彼らの周囲には寄りつかないように包囲網を作成した。
「あのね降谷。僕は人間の我慢には美徳を感じているんだ。僕には真似が出来ない。欲しいならどんな手を遣っても手に入れるのが、僕らの習性だから。生まれる前の古来より神は横暴だ。人間と交わることさえ厭わない。それでも日本の神は少ない方だけど。古より立ち切れないその願望欲を人間は自制することが出来る。それはどうやったら出来るのかな」
「脈絡がないなお前の話はいつも」
「きみは夜子ちゃんを大切に思っているから彼女を傷つける行為を避けた。だけど、それって彼女のためになっているのかな?」
髭切は懐から一枚の写真を取り出す。そこに写しだされている夜子は傷だらけだった。降谷は思わずその写真を手にすると眉を顰める。そんな彼の様子を横目に髭切は尚も続けた。
「彼女は自分を悔いている。きみに怪我をさせたこと、きみを巻き込んだこと……彼女はね。僕らが想像するよりも柵に囚われていると思うんだ。たったひとりの非力な少女が抱え込むには重すぎるその重荷をきみは傷つけたくないという一心で背負わせる気なのかな」
髭切の鋭い眼光が降谷を刺す。珍しい程に髭切は己の感情をやや剥き出しにしていた。
「それを彼女が望んでいたとしても、僕が知る限りの降谷零って男は譬え悪役になろうとも守るべきものを見失うような男じゃないんだけどな」
「髭切……お前にそんなこと言われるとは思わなった」
髭切の叱咤激励に降谷は鼻を鳴らし口元に笑みを携えた。雰囲気が変わり始める降谷の様子に周囲は穏やかになっていく。
「ええ?僕はきみのトモダチだからね。なんなら彼女をきみとシェアしても文句言わないよ」
「歯を食いしばれ。特別に友情の餞別をやるから」
「仕方ないな。じゃあ彼女のパジャマ姿とエプロン姿の写真をあげよう」
「太平洋と大西洋ならどっちに沈みたいか希望を聞くが」
「どっちも沈められちゃうね」
降谷の憤怒に物ともしない猛者は髭切と膝丸くらいだ。だが呼び起こすのは髭切以外いない。
「ふふ、ほら。行きなよ。きみの仕事はそれで終わりだろう」
「あとでその写真のデータは俺へ転送してからデータは焼却炉な」
「燃やされちゃうのか」
立ち上がり降谷は背広を片手に駆けだした。仕事は既に終わっているのは彼の傍らにそびえ立つ報告書の済みを見ればわかる。髭切は降谷の背に手を振りながら鼻歌を唄う。
「楽しみだな……どんな修羅場が展開されるかな」
友情さえも遊びに還る男、源髭切。泣かせた女は数え切れず、泣かせた男も数え切れず……彼に関わると「あ、胃痛がすると思ったら胃に穴空いてた」という末路が待っている。
―――譬えきみが僕を遠ざけようとも、僕はきっと馬鹿の一つ憶えみたいにきみを求めてしまう。あの小さな背中に手を伸ばしてしまうんだ………悪いな