影たる苦悩




ベルモットから連絡を貰った際、五条夜子が消えた事を教えられた。一人で何処へ行ったのか、ベルモットの緊張の声に「わかってます」と早口にそれだけ述べて通話を切って駆けだした。そう遠くへは行っていないと思うが、一体何処へ行ったんだ。彼女を狙うストーカーも近くに潜んでいるというのに。コロンボにいた時から彼女の後をつけている男がいた。まさかそいつに呼びだされて……。有り得る話だ。今日の彼女は会った当初から何処か様子がおかしかった。普段通りに見えただろうが、流暢に回る口、ぎこちなく笑う顔。探偵事務所で事件が起こった直後はもっと酷かった。怯え、震えていた。恐怖に身体を硬直さえ、震える身体をひとりで抱えた彼女の手を握った時。彼女は今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていた。
思わず手を引いてしまったが、病室で泣いていた時より心臓が締め付けられる思いだった。一層の事泣いて欲しかったさ。何を考え、何を想い、彼女はひとりで闇の中へ飛び出したのか俺には見当もつかない。

それは五条夜子だからなのか?
それともあの少女に似ているだけだからか?

名前が同じだけの赤の他人という可能性の方が強い。だが、どうしても。どうしても……それだけじゃない繋がりが欲しいと思った。

阿呆らしい。たかだか小娘に振り回されるなど。彼女はただの対象者。利用できるなら利用するだけの存在。近づくのもそれだけの理由で、それ以上の意味合いは含まれていない。

人の声が聴こえる。何か、嘔吐しているようなその声に導かれるように向うと人気のない公園に辿り着く。そこには暗闇の中一人の少女が、地面に蹲り微動だにしていない。顔が視えない上に、暗がりで服の色さえ判別出来ない。かろうじで髪が長くそれが白銀であることが解ればその少女は五条夜子で相違ない。名を呼び近寄ると身体が反応し、少女は状態を起し顔を上げ、俺の方へ振り向く。呆然としているようだ。気分でも悪くなったのかと土砂物を横目に彼女の傍に立ったとき。彼女の状態に漠然とした。

なんだ……コレは。

肌には無数の切傷があり、服も至る所裂かれている。右腕は何か鋭い刃物で刺されたのか血が流れ、一悶着でもあったのかと見間違う程の傷を負った彼女の姿に、膝をつき肌が視える肩と二の腕付近に触れると、彼女は大きく瞳を見開きそして、何か紡ぎたそうに戦慄く唇を僅かに動かす。だがそれは音にはなったが言葉にはならなかった。次第に瞳に波紋が広がり、次第に栓をきった幼子のように泣きだした。

突然泣きだされ驚きのあまり後ずさりそうになりながらも、俺は初めて彼女が感情を露わにした姿を見つめた。
膨らんだ水風船が張りつめていた。いつ割れるかもわからない。触れてしまったら粉々に破裂してしまうんじゃないか、そんな危うさを兼ね揃えていた五条夜子が今、感情をむき出しに年齢相応に泣いていた。

名前を呼び、ハンカチで涙を拭くがとてもじゃないがこれでは止まりそうにない。
鼻水も出ていて本当にこれでは小娘ではなく、ガキだ。面倒臭いと思うところだというのに、今日の俺はおかしいらしい。

「ははは…かわいい」

今、この涙を止められるものは俺自身を含めて誰もいないのだと言われているみたいで勘に障ったから、後で盛大に慌てふためき困らせてやれと嫌がらせのつもりで、彼女の小さな身体を抱きしめた。
両親を殺され、自身も拳銃で殺されかけ、命かながら逃げおおせたと思ったらこんな悪い男に掴まって情報を訊きだすまで解放されない人生をこれからも送り続ける彼女の人生はなんて……なんて可愛い(かわいそう)なんだろうか。

「夜子…っ」

お前の笑った顔がいい。困った顔もいいけど、でも、本当は心から笑った顔がみてみたい。


暫くそのままに彼女が泣きやむまでいた。次第に音が止んでいき、静かになると咳払いをしながら安室へと戻る。

「夜子さん。大丈夫ですか……って、寝てる」

あれだけ盛大に泣けば疲れて眠くもなるだろうけれど……深い関係でもない男の前で寝るんじゃない。危機感が足りないにも程があるんじゃないのか……いや、情報を訊きだす側としては好都合なんだが。

「ああ、くそ」

前髪をかきあげ息つく。寝てしまったのなら仕方ない。せめて彼女の家まで送るか。この傷も治療してやりたいしな。
彼女の荷物を持ってから横抱きにし、立ち上がると意外に軽くて驚いた。なんだこの軽さは……もっと食べさせた方がいいな。小食なのかポアロでもあまり食べないからな、彼女。
公園を一瞥し暴れ回った形跡を見渡してから、公園を後にした。

彼女の家は特定出来ている。あれだけ頑なに拒否をされると暴きたくなるのが好奇心というもの。迷うことのない足取りで工藤と書かれた表札を前に、呼鈴を鳴らそうとする前に玄関口が開いた。中から出て来たのは成人男性。しかも眼鏡をかけた色白の頭の良さそうな男に、神経がぴくりと反応を示す。

「こんばんは」
「こんばんは」
「ここは江戸川夜子さんが住まわせて頂いてるご自宅でしょうか」
「ええ、そうですが……あなたは?」
「ああ、名乗る程の者ではありませんよ。ただ彼女が道端に倒れていたので此処まで送らせて頂きました。スマホに住所が載っていたので」
「そうでしたか。ありがとうございます」

彼女を受け取ろうと伸ばす男の手から数歩後退し、彼女を遠ざけた。

「彼女とはどういったご関係なんです?」
「遊びに来ていたただの親戚ですよ。見たところ彼女の怪我が酷いようなので早く手当てをしたいのですが」
「そうですね、すみません。彼女を宜しくお願いします」
「いいえ、家族ですから」

彼女を引き渡すと軽々と持ち上げ、彼女の持ち物も片手で受け取られる。その際、男から彼女と同じ香りがした。その僅かな情報に眉が反応する。そして勝ち誇った笑みを浮かべられている気がして嫌な男だ。

「彼女をここまで送って頂きまして、ありがとうございました。夜道には充分気をつけてください」
「ええ、ご忠告ありがとうございます」

颯爽と眠る彼女と共にドアの中へ消える男の背を、何故だか無性に蹴り飛ばしたくて仕方がなかった。勘に障る男だな。拍子抜けるという意味合いも含むが。
端末機を取り出してベルモットへ連絡を入れる。無事に彼女を保護して送り届けたことを。彼女がどんな状態だったかは以下省略したが。これで今夜は此れ以上の連絡はこないだろう。早めにあの公園を調べる必要があるな。そう思い公衆電話の場所まで歩いていると後ろからついてくる男に前方を見つめたまま声をかけた。

「出てきたらどうです?あなたもそろそろケリをつけたいのでしょう」

声に反応して男は観念して電柱の影から姿を現した。対面すると男の右手にはナイフが握られている。眉を顰め垂らした腕に力が籠り、拳を握りしめた。

「彼女と同じ病院に入院していた三波さん。彼女をこれ以上着け狙うのはやめて頂けませんかね。ストーカーも大概にしないと、嫌われてしまいますよ。ああ、もっともあなたの事なんて彼女は何とも思っていないと思いますけどね」
「いつからオレが着けている事を知ったんだ」
「彼女が毛利探偵事務所にいらした日からですよ」
「言っておくが、オレは別にあんな小娘に好意はないからな。だいたいあの小娘気色悪いんだよ。一人で公園に来たと思ったら何もない処で扱けたりしてバット振り回したりと、頭がおかしいにも程がある。あんな女を好きになる訳ないだろ。あんたもそうだろう。好意なんてねえくせに甘い言葉を囁いて、苦労するなお互いッ――!!」

男が云い終える前に拳が勝手に右頬を捉えて殴り飛ばしていた。吹き飛ぶ男の場所まで歩み襟首を持ち上げる。

「あなたが何処の誰に頼まれて探りを入れているのかきっちり吐いて頂きましょうか」
「な、なんのことだよっ」
「あなたが自分の物と偽って彼女の部屋にあったぬいぐるみを病院から持ち出した事をこちらが知らないのとでも?」

今も盗聴器が作動し、布の擦れる音が聴こえる。上着のポケットの中か、と手を突っ込みぬいぐるみを回収した。これは公安が仕掛けたものだ。組織の連中にこの機材を露見される訳にはいかない。俺を同業者と思っている処からして組織から送りこまれた奴ではないことは明白。では一体こいつは誰の手先のものだ。

「お、オレは別に…あの小娘の同行を観察しては報告しろとだけしか言われてない」
「何のために」
「知らねえよ!少女趣味なんじゃねえか?何を食べたとかどの服を着たとか、体調や仕草、誰とどうした、どこ行ったなんかを逐一報告しなきゃならなかったからな」
「……ほぉ」
「ちょっ!まて!オレじゃない!」

問答無用で二発殴り飛ばし、依頼した相手の事を訊く。

「八つ当たりで殴るんじゃねえよ…くそ」
「……」
「(馬鹿なんですかって顔してるな。まさかこいつ無自覚か…はっ?!あれで?!!)」
「なにか?」
「ナンデモナイデス……依頼して来た奴とは直接会った事はないが。お前みたいに優男だと思うぜ。口調も丁寧だったしな。公務員みたいなお堅い職業っぽい感じがしたが……」
「そうですか。もう行ってもらって構いませんよ。あなたに興味がなくなりましたので」

掌についた砂やらを叩き男が逃げ帰るように去っていく。下っ端の口を封じるまでには至らないだろう。あの男に、そこ迄施す価値はない。
だが、彼女が五条夜子だと気づいての差し金だということは解る。でなければ同じ名前というだけの江戸川夜子を監視対象にする訳がない。説明がつかないからだ。

「第三勢力の介入、か……こいつは骨が入るな」

長期戦を余儀なくされ前髪をかきあげると鼻で笑ってしまう。
公衆電話に辿り着くと慣れた手つきでボタンを押しコール音に耳を傾ける。今更のように、思い出し。月を見上げた。

ああ、そうか。今夜は彼女の声が聞けないのか。







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「や、やめてくれ……お、オレはっ!」
「あなたが彼に気がつかれ声をかけられた時点で、あなたの死は決行されたのですよ」

闇夜に光紅い瞳が三波を上段から斬りつけ、地面に倒れる身体を横目に斬った者を下がらせた男。片手に端末機が握られ耳元に充てている。

「ええ。あなたの読み通り、あの男に嗅ぎつけられましたので。執行しました」
《 ほぉ―優秀な奴だな。その優男。きみと似ていると聞いているが 》
「似てはいないと思いますが」
《 いいじゃないか。彼女はきみを容姿から気に入っている。昔から親しくしているのを見ていたからな俺は 》
「今、嫉妬している場合ではないのでは」
《 俺は今、欠乏症なんだ。早く摂取したい 》
「気色悪いですね」
《 はっきり言うなきみは。さて、遊びはここまでだ。そろそろきみにも働いてもらおうかね 》

色素の薄い水色が風に靡き、青年風の若い男性が月下に姿を曝け出す。異様な武者を引きつれて。