40字の群青起草



下駄箱の中に入っていた一通の真っ白な封筒。透かしてみると危険物ではなさそうだ。単純な話、中身を開けるまでもなくそれはごみ箱に捨て去った。

「いい加減にしなさいよ!」

手紙が届くようになってから早一週間経過した頃。痺れをきらした送り主が強硬手段を実行したおかげで私は部活中のジャージ姿で4人組の女子に囲まれていた。

―――遂にこの時が来てしまったようだな

よくある傾向を脳内リサーチした結果、そろそろ行動に移す頃合いだろうと想定していたがフラグに成功すると達成感があるな。憤慨している女子生徒はさておき充実感を顕わにしていた。

「(なんだあの充実した瞳は)あたしがどれだけの想いで書いたと思ったんのよ」
『それは失礼な事をした。きみの想いを無下にしてしまい申し訳ない』
「あ、いやそんなたいしたことは書いてないんで……って何であたしがフられたみたいになってんだよ」
『告白じゃないの?』
「告白じゃないわ!呼び出しって言ったら集団リンチだろうが!ちっとは漫画でも読め」

柄の悪いリアル女子に漫画でも読めとか言われてしまった……だが、それしか読んでない。とは中々言いづらい。
しかし、彼女の周囲にいる友人と思わしき人物たちは私に近寄るなりポッキーを取り出して差し出された。

「食べる?」
『…どうも』
「ごめんね弓波さん、部活で忙しい時に呼び出したりして」
『まあ、今は乾くんがやってくれていると思うから大丈夫かな』
「やっぱ大変だよね。あたしなんてマネとか頼まれても断るよ。好きな人への奉仕は理解できるけど」
『ほぼボランティアだからね』
「こういう風に呼び出されたりするの?」
『いえ、あまり。誘われても行かないようにしてるし。万が一のときはその好きな人に密告するから』
「だよね。付き合ってらんないよね、こういう呼び出し」
「呼び出すなら好きな人でも呼びだして告白しろよって思うわ」
「あたしも」
「だから弓波さん適当な頃合いで帰ってもいいよ」
「敵かお前ら――!あたしの敵か!」

どうやらこの呼び出し、実行犯も私に用があるのも一人だけのようで。残りの子たちは観戦者だった。何だろうか、この「あんた調子のってるよね?」的な展開を少し期待していたんだが、乙女ゲームのように人生上手くはいかないようですな。
あと、あの子不憫すぎてもう少しここに居てもいいと思えた。今はいじけてしゃがみ込み地面にのの字を書いている。

『えっと…どちらの殿方をお慕いしているのかな?』

隣にしゃがみ込み声をかけると涙目な顔で私の両手を取って感動していた。

「え、っと……ふ、不二くんなの。その1年の頃同じクラスで。消しゴムを貸してくれたのがきっかけなの」
『(純情乙女や)そうなんだ』
「うん。テスト期間なのに、あたしに消しゴムちぎってくれて……凄く嬉しかった」
『ポイント高いわ。そら好きになっちゃうわ』
「でしょ!そうでしょ!……あたし見た目が結構派手だし、不二くんの対象から外れてることわかってるんだけど、でもこれがあたしだから変えられないし。だから…無条件で隣に居られる女がムカついて」
『逆恨みだな』
「ごめん……でもそれだけじゃないよ。弓波って結構不二くんに構われてるじゃん。あんなの珍しいからってか初めて見た」
『かまわれ……ど、どうだろう(あんま嬉しくない表現だな)』
「好意的には思われてるってくそ羨ましい」
『そ、そうかな…あんまりそういう風には感じられないんだけど。寧ろ玩具にされてる感半端ないんだけど』

思い出すだけで胸やけしてきた。胸のあたりの服を掴み思い出していると震えた。

「隣にいるってどんな気分なん」

膝を抱えて綾子ちゃん(名前を教えてくれた)は、金髪の髪と化粧顔には似つかわしくないくらい乙女心が全開だった。年頃の少女のようなそのあどけない横顔を見ながら懐かしい気持ちになった。

『私は綾子ちゃん見たいに恋愛感情は抱いてないからさっきの質問には答えられないけど。でも楽しいかな。一緒にいると笑いたくなってしまう感じ』
「……そっか」

綾子ちゃんは笑顔を浮かべて立ち上がり背を向けて歩いていく。友人たちが集まる輪の中へ行き、地面に落ちている水色の長い管を持ち上げ。くるりと振り返った顔は笑顔、手には水やり用のホースが握られていた。
無言で立ち上がりゆっくりと腰を落としながら一歩後退したら、水が放射された。

『ひょえ゛え゛?!!』

変な声を出しながらもギリギリのところで避けて、一定の距離を空けた。

「好きじゃないならそのポジション変われよ!」
『えええ――!』
「好きなら好きでそれはムカつくけど…恋愛感情もないのにへらへら傍に居られるのもムカつくんだよ!」
『乙女心は複雑骨折!』

水鉄砲のように噴射されるのを避けながら逃げ惑う。すると水飲み場をみつけ、調度よくバケツもあり水もはってあったのを拝借。ある程度接近するが遠心力を利用して隙をついて綾子ちゃんの顔面目掛けてバケツにはってあった水をぶちまけた。
その間、私もホースのジェット噴射が顔にかかる。お互い醜い声をあげながら咳込んで地面に膝をついた。

「よ…よくもやってくれたな」
『せい、とうぼうえい、だし』
「少しは恋する女の気持ちに気を遣いなさいよ吐血女」
『自分の価値観を人に押し付けんなミーハー女』
「ちょっとふたりとも大丈夫?!」
「弓波さんこのタオルつかって」
『ありがとう』
「気にしないで。これ弓波さん用に持ってきたものだから」
「あたしの分は?」
「ねえよ」
「少しは反省しろ」
「そうだ。告白して玉砕しろ」
「おい、こら最後言った奴どいつだ!」
『まあまあ、これでも良ければ』
「ありがとう……って使用済みじゃねえか!」

この場にいた女子たちで笑い声をあげた。どうなることかと思ったけど、まさかこんなに和やかな雰囲気で終わってしまうのかと少し安心してしまった。少しゲームと少女漫画の読みすぎだったか。と一頻笑っていた時、綾子ちゃんが声を上げた。確か「危ない」だった気がする。周囲の子が上を見上げているのに倣い私も頭上を見上げたら水槽が落下してきた。しかも私の頭上を。『え』と声を漏らすと同時に身体を横から勢いよく押された。まるで突進されたかのような衝撃が横腹を刺激され私は地面に滑り倒れ込む。身体の上に重みを感じるが視界に映った青と白のコントラスト、白い帽子が宙を舞う。そして……3階窓から覗いた手とリボンが翻る。

――――あ……逆鱗に触れてしまった

地面とは言え水槽が重力に従って落下したのだから破片が盛大に飛び散る。ガラスの破片が頬を掠め、僅かに痛みが走るが頭を強い腕で抱えられ視界が覆われる。暫くすると落ち着いたのか周囲では「一体何なの」という声が聞こえて来た。

「先輩、大丈夫?」

声をかけられゆっくりと瞼を持ち上げると視界には越前くんの顔が映り込んだ。ああ、やっぱり私に突進したのは越前くんだったのか。彼のトレードマークともいえる帽子は地面に落ちている。綾子ちゃんたちもこちらへ近づき心配してくれているけれど、越前くんに頬を触れられ親指が傷口を掠める。

『いっ……たくない』
「何強がってんの。他に怪我はなさそうだね」
『綾子ちゃんたちは?』
「あたしらも大丈夫」
『そっか』
「絆創膏あるから使う?」

ひとりの子が絆創膏を差し出すと越前くんは無言でそれを受け取りフィルムを剥がして問答無用で傷口に貼り付けた。いつにもまして手際がいい。

「いっこ質問していい?アンタたちに。……これ仕組んでやったことじゃないよね?」

どんな表情をしているのか私からでは伺えないが、綾子ちゃん達の目の色は恐怖浸食されていた。雰囲気的に怒っていることはわかるが、そんなに越前くん自身が怒るようなことではないような気がするんだが……。綾子ちゃんは言葉にできないのか首を必死に左右に振って否定すると、越前くんは「そう」と目線を下げこちらに向き直った。そのときの顔は普段通りの生意気そうな中学一年生の顔だった。

「もしかするとさっきの奴不二くんの熱狂的なファンかもしんない」
「不二先輩の?」

ひとりの子が溢した言葉に察するとやっぱり一筋縄ではいかないようだ。というか水槽を落とすって……下手したら死んでるよ私。

「居るんだよ。一人だけ……あんまり表立った奴じゃないからわからないかもしれないけど、あいつに目をつけられた子たちはみんな転校したり、登校拒否になったりしてるから……弓波さんも気をつけた方がいいよ」
『忠告ありがとう』

御礼を言うと「またね」と去っていく彼女たち。結局最後に爆弾を投下されるといった前代未聞の展開を見せられた後味だ。
いや、相当頭がイカレてる女がいるもんだな……恋は狂気というけど、中学生でそこまで到達しますか。恐ろしすぎるは……あ、なんか恐怖で震える。
死ぬことに今更恐怖とかはないけど“誰かに狙われる”という恐ろしさは生きてきた中で初めて向けられた感情だった。鋭利な刃物で刺されるより効果抜群な精神ダメージな気がする。息をゆっくりと吐き出しながら水槽が無残に散らばる場所を見つめた。すると隣にずっと居た越前くんは立ち上がる。

「部活行くよ」
『うん……』

ぼんやりとしながらも足に力を入れて立ち上がろうとすれば目の前に差し出される手に目を丸くさせた。

「早くしてよ。手、疲れる」
『あ、はい。ごめんなさい』

素直に何を謝ってるんだ私は。気迫に負けて差し延ばされた手に重ねて勢いよく引っ張られると思ったよりも強く身体が支えられるずに傾く身体を、抱きしめるように支えたのは越前くんだった。腰と背中に回される手が酷くリアルすぎて気が動転する。

「…はあ……無事でよかった」

酷く焦ったような声で髪に息がかかる。そういえばなんであんなベストタイミングで助けられたのか、今更のように不思議に思った。

「アンタが何処か行くのが見えたから後を着けてみれば囲まれてるし。でもなんか楽しそうだったから戻ろうとしたら水槽がアンタの場所に落ちてきてるの見て……っ」
『……』

目の前で知り合いが死ぬかもしれない現場を目の当たりにした心境を私は知らない。でもあんなに落ち着いている越前くんがここまで動揺している姿を見てしまうと、何だか申し訳ない気持ちに苛まれた。温かな体温が伝達するように血流に流れていく。硬直していた指が解けるように動くと遠慮気味に彼の背中に手を添えた。
すると、私はどうしたことか……喉の奥が痛くなってしまったんだ。

『……ッ、ごめ、っ』

悌涙頬が濡れていく。一度溢してしまうとそれはまるで浸透するように滂沱する涙。
そんな私を見て吃驚している様子で、でも息を溢しながら越前くんはそのままの態勢でいてくれた。
恐怖の感情に反応して流れた涙は、この世界に来て流した初めての悌涙だった。



◆ ◆ ◆




「弓波さん遅かったじゃないか…あれ?越前?」

大石くんに頭を下げて謝る私の後ろから越前くんが現れたから驚いたようだ。そんなこと気にせずにコートに入っていく彼の小さな背中を大石くんと見つめた。

「越前と何かあった?」
『いやなにも。たまたまそこで出くわしたの。それより長時間空けてしまってごめんなさい』
「いいんだよ。君はサボるような子じゃないってわかってるから…ただもの凄く心配してる奴がひとりいるから声かけてあげて」

大石くんが指す先には不二くんがいて思わず『うそやろ』と呟いた。それを拾ったのは小休憩に入った菊丸くんだった。

「それがウソでもないんだな〜さっきからミス連発して乾汁飲まされまくってるし」
「不二は平気だからな、あの飲み物を前にしても」
「だけど。流石に5杯も飲むのは態ととは言い難いんじゃないかにゃ〜」
『胃痛がしてきた』
「わかる、オレもだよ〜」

菊丸くんと共にお腹に手をやった。乾汁の脅威は体験済みだった身の上でそれを5杯も飲むなんて流石にこちらにまで気分の悪さが伝染してきそうだ。
表情を見る限りは普段と変わらないように窺えるんだが、心配をかけてしまったのなら声くらいはかけないと失礼だよね。『ちょっと行ってきていい?』と声をかけると大石くんは承諾してくれたのでタオルを手にコート内へ入り、送球に気をつけながら不二くんの傍まで行き声をかけると不二くんはゆっくりと振り返り、平静な態度で「やあ」とこちらまで歩み寄った。ラリー相手の乾くんに手を上げると頷いて休憩となる。

『おつかれさま』
「ありがとう」

タオルを手渡すと受け取り汗を拭っている。普段通りだな。

「長い休憩だったみたいだけど、どこ行ってたの?」

思わず口を閉じた。“どこ行ってた”って私が今まで何処で何をしていたのかお見通しみたいな言葉のセレクト具合なんだけど。不二くんを瞳に映せば彼はとてもじゃないが、嘘を言えば一発で見抜かれると危惧するくらいに隙がなかった。観念するように私は言葉を濁して出来るだけ事実を混ぜた。

『女子トークを少々』
「校舎裏で、なんて随分と人に知られたくない内容だったのかな」
『……乙女の秘密なので』
「髪、濡れてる」

彼の綺麗な指が私の顔の横から伸びる髪をひと房手にして撫でる。スマートにそういうことをしないでもらいたいと目を閉じながら羞恥に耐えた。

「この時期はあまりおすすめしないんだけど」
『楽しかったけど水遊び』
「風邪ひいたらお見舞いに行くよ」
『……』
「素直に言う気になった?」

鼻歌交じりに遊ばれている。勝てそうにないし誤魔化せそうにもない。言い訳なんてひとつも思いつかないし、巧い言葉も出てこない。相変わらず髪を指先に絡ませてくるりと巻き付ける不二くんは強かな顔をしている。美の女神だってそんな顔して微笑まないよ。

『わかってるなら聞くな』

口を尖らせてぷいっと余所を向いた。すると不二くんは笑い声を漏らして「ごめん」とからかっていたことを謝る。何がしたいんだこの男は。そもそも何処に心配していた要素ありましたかね?菊丸くんに念を飛ばしていると頬に貼られた絆創膏をつつかれた。

「これは……どうしたの?」
『これは知らないの?』
「全てを把握している訳じゃないからね。血が滲んでるけど」

絆創膏の上から彼の親指が撫でる。その微弱な刺激がやんわりと傷口に痛みをピリリと走らせた。思わず眉を潜めてくぐもる。すると撫でていた手を下した。

「教えてくれる?」
『扱けた』
「ん?」
『扱けて擦りむいた、はい以上。解散』

くるりと身を翻し私は何か言われる前に走り出した。途中コートに入れ違いで入った越前くんとすれ違ったが今は追いかけられても逃げ切れる距離だけを考えていた。



◆ ◆ ◆




「あ、越前。なにか知ってる?」

頬をノックする不二の動作で何を言いたいのか理解した越前は暫くの沈黙後に帽子を被りなおした。

「知らない」
「そう…」
「不二先輩って、モテるんだね」

突拍子もなく越前からその手の話題を振られた不二は言葉を詰まらせた。

「越前もそういう話に興味があるのかい」
「そうだね……アンタの事はそれほどでもないけど、ね」

帽子のつばから垣間見える越前の鋭い眼光を不二は静かに見つめ返していた。



◆ ◆ ◆




「夜鷹の様子がおかしい」

放課後、誰も居ない教室内で窓辺からテニスコートを一望しながら呟いたあたしの声は前の席で沈んでいる江口にしか届いていなかった。

「そうだな…おかしいよな……周囲がさ……なんであんな盛り上がってるんだよ」
「あ、そっちは興味ない」
「手厳しい」

再び項垂れた江口。涙で濡らす机は水たまりを作っては床に零れていく。
昨日までは普段通りの日常だった、はず……だというのに今日は少し違ってみえた。この微妙な差異に気づけるのってあたしくらいよね。それだけ夜鷹への愛が膨大ってことの証明だわ。

「今日、不二を避けてたよね夜鷹」
「え?そうだった?それなら……少し元気出た」

立ち直りが早いというか単純というか、そういう意味で言った訳ではないのに江口は急に起き上がりやる気に満ちた目をしていた。正直どうでもいい。

「優しい子だから誰かを無視するなんてしなかったのに…不二だけを避けてた。何か思いつく?」
「嫌われたんじゃないでしょうか」
「それはお前だよ」
「ひどい!!」

江口に聴いたあたしが馬鹿だった。肘をたてて江口を最初から居ないことにして整理をしてみた。今日は不思議なことが起こった日だった。朝練がなかったから夜鷹の家のまで待っていたら出てきた夜鷹の瞼は僅かに赤くなっていた。『寝不足だよ』と言っていた。特別仲が良かった訳じゃない不二を好きなギャルたちが夜鷹に声をかけていた。夜鷹の頬に小さな絆創膏がひとつ。昼休みには一年の越前リョーマが教室までやってきて共に図書室へ出かけていた。それから……あたしが注視していたあの女が夜鷹の周りをうろついていた。そんな動きを見せなかったのに何故今日に限って活発になったのか。何故不思議なことが起こる今日という日に………。
江口がまた涙にくれているのを見下ろしていると、廊下から奇妙な会話が耳に届いた。

「生物室の水槽が一個なくなったの知ってる?」
「知ってる。あれ落として割っちゃったらしいよ」
「そうなの?」
「なんか噂によるとさ、誰かに目がけて落としたって聞いた」
「え!?生物室って3階だよね?そこから人に向かって投げたってこと?それじゃあもし当たってたら事件じゃん」
「事件もそうだけど、下手したら死んでたかもしれないよね。その子」
「うわ……恐いね、それが本当だったら」

その会話が通り過ぎていく。そしてあたしと江口は顔を見合わせた。

「もしかして今のと関係があるのか……?ってどこ行くんだよ姐さん」
「決まってるだろ。あのスカした男のところ!」

江口の声に振り返りもせずあたしは教室を飛び出していた。今日、夜鷹は委員会で乾と共に席を外している。あいつの携帯に急いでメッセージを流してついでに質問も投げかけた。すると数秒後、了承の言葉と、そして確証を得られた解答をくれた。確認を終え上着にしまう。テニスコートまで駆け抜けると調度目当ての背中が視界に映ったからその背中目がけて手を伸ばして掴んだ。

「っと、乙藤さん?どうしたんだい、そんな慌てて」

服を掴んだのに余裕そうな顔をする不二に苛立ちは募るが隣にいた手塚に親指を後ろへ向けて。

「こいつ借りる」

その勢いに手塚も首を縦に振った。服を掴んだまま引っ張り連れて行く姿を目撃する一、二年は唖然としていた。そんな事など気にもせずあたしは少し離れた場所まで連れて行き手を離して向かい合った。

「それで、僕に何の用かな」
「わかってんでしょ。あんたに声をかけるってことは夜鷹のことだって」
「彼女がどうしたの」

急に空気が変わった。不二も何か気がついているってこと?江口よりはマシだと思ってしまった。

「生物室の水槽、それからあの女について知ってる?」
「彼女のことは注視しているけど。水槽って……まさか」
「生物室の水槽が昨日落として割れたらいし。さっき確認したらその女が昨日生物室で教師に頼まれて雑務を行っていた……もう意味くらいわかんでしょ。あんたが全て悪い訳じゃないことは理解してるつもりだけど、それでも夜鷹が傷つくことは間違ってる。平手受けて、呼び出されて、水かけられて、おまけに水槽を頭上に落とされる?……あんたが行かないならあたしがっ」

言い終える前にあの男は真っ直ぐに駆け抜けて行った。

「最後まで言わせろよ、あたしだって……」

見えなくなる背中を追い続ける。少なからず2年前よりは変わった様子を見ればわかった。何が足りなかったのか、そんなのたったひとつしかない。人間の恥ずべき感情。

「つ―か、あんな顔も出来んじゃん」

やれやれと首を左右に振って背伸びをすれば物陰から臆面もなく現れた期待のルーキーが何か言いたげな顔をしてこちらを見つめて来た。睨まれていることを実感しつつも悪戯な笑みを浮かべて言ってやる。

「逃げんなよ」

面食らった顔をして帽子を深く被り直しながらおチビちゃんは背中を向けて逆方向へ歩き始めた。
校舎へ戻る際あいつとすれ違った女子生徒たちが騒いだ。

「なんか不二くんが勢いよく校内に入っていったけど」
「見間違いじゃな、いよね?」
「凄い怖い顔してた」

これであの女も年貢の納め時かな――――。


他人事のように報復される女の事を想像しながら教室に戻って帰り支度をまとめた。江口はまだ居て「今日は一緒に帰る日だろ」と無粋なことを訊かれたから鞄で後頭部を殴っておいた。

「あんたもちんたらしてたら獲られるよ、細めの王子に」
「ファァッッ?!!!」



◆ ◆ ◆




『頼まれたから何事かと思えば……乾汁の研究かよ!』

バシっと乾くんの腰を叩きながらエプロンをつけて地獄の釜みたいな色をした液体を混ぜていた。顔にガスマスクをつけて。隣にいる乾くんもガスマスクをつけて別の鍋に別の液体を煮込んでいた。

「製作に煮詰まっていたところだったんだ。君のおかげで新しい乾汁が完成しそうだ」
『最も危険な製作に携わってしまったよ』

早めに委員会が終えて部活へ行くとか支度をしていたら乾くんが真剣な顔をして「すまない。少し付き合ってくれ」と言うものだから何事かと思って付き添ったら家庭科室。エプロンとガスマスクを手渡され、最後におたまを持たされたら乾汁製作工場で働いていた。

『部活大丈夫かな』
「それについては心配ない。手塚には伝えているから」
『根回し早いな』
「そろそろ携帯を買ったらどうだ?不便だろ」
『不便で仕方ないけど、持ったらエスカレートしそうだからさ』

おたまですくってみるとバブル●ライムみたいな物体でも錬成できそうで青ざめる。人間がこれを飲むのかと思うととんでもない。ああ、胃酸が逆流してきた。喉で押しとどめながら犠牲者を考えると手を合わせて祈りを奉げる。

『安らかに眠れ』
「それで人は死なない」

キッパリと断言され乾くんに視線を投げているとキープアウトしていた扉が開閉された。
勢いよく空いた音に驚いて肩を跳ねあがらせ、後ろへ振り返るとそこには汗だくになっている不二くんがいて―――……。

「あ、ああ……ここに居たんだ」
「不二、少し来るのが早かったな」
「それはよかった……ねえ、ちょっと彼女を借りてもいいよね」
「構わない。そのために留まらせていただけだからな」
「そっか、じゃあ遠慮なく」

一体何の会話をしているんだ。頭上で飛び交う言語に右往左往していると手首を掴まれる。

「一緒に来て」
『え、え?』

返事を訊く前に不二くんに引っ張られ私はガスマスクをつけたまま家庭科室を飛び出していた。せめてガスマスクを外してからが――――っという私の心の叫び声は虚しくも届くことはなかった。

「……大丈夫?」

息も絶え絶えになりながらガスマスクを外した。呼吸を制限されているというのに己の速度で走られたために、私のペースは崩れまくり無呼吸で死ぬかと思った。汗だくの顔をハンカチで拭きながら用件はなんだと目で訴えると不二くんは珍しく目を開けていた。滅多にみられないその碧眼の瞳に見惚れていると座り込んでいる私の目線に合わせて膝をついた。空いている手を取られその手を柔らかく包まれる。疑問に思う行動に首を傾げる私を余所に不二くんは少し長めの息をついてから唇を動かした。

「夜鷹ちゃん」
『名前呼びはちょっと……』
「もう気にしなくていいよ」
『ん?』
「だから、もう避けないで」

彼は私が避けている理由までわかっているようだった。知ったら嫌な気持ちになると思ったから届かないようにしていたのに、不二くんには届いてしまったか。

『特に何もされてないよ。傷ついてないし、だから、うん、気にしないで』
「そういう素直じゃない言葉を聞きたい訳じゃないんだけど」

もう片方の手で頬を抓られて頬肉を伸ばされる。乙女の顔になにするんだ。

「もう何も起こらないから。だから安心して話して」
『話してって……』
「君と話せないと僕は、淋しいみたいだから」

――――それって………からかい相手がいなくてつまらないってことですか


一気に青ざめていく私の顔を見つめながら不二くんは「くすっ」と笑っていた。

「これからも話しかけるからちゃんと相手してね」

わかってて言ってるのかと思う回答に唇を赤く濡らした。何をそんなに彼が私に構うのかわからないけど、不二くんの笑った顔を見るのはなんだか安心するな。



1万越えてしまった…。不二くんならそういう事を未然に防ぎそうなんだけど。今回はちょっと言わせたい台詞を思いついたので言わせたかっただけ。もうこれ不二くん落ちちゃうんとか私も思います。不二くん好きなんです。脳内で言われているのだと思うと興奮しますね← 何気ない言葉でもドキってするから凄いと思う。楽しんでくれると嬉しいです