踏切の向こう側
 祖父は、私とは違う視界を持っている。
 見える境界が違うのだと教えてくれた祖父は、しかし、自分が何を見ているのかまでは教えてくれなかった。ただ、私が見えていないものが見えて。逆に私が見えているものは見えないのだと。
 この世界には知らなくていいことがたくさんあるのだと祖父は言う。私もその通りだと思う。死者なんて、呪いなんて。そんなおぞましいものは知らなくてよかった。見えなくてよかったのに、と思う。それでも持って生まれてしまったものは仕方がないと生きていくしか道はない。いつまでも嘆いていたら食べられるぞ、と祖父が言う。
 だから、知った。知ることにした。
 私の世界で生きているものに、対抗する術を。
 木兎光太郎の呪いを解くことができたのも、その一環だった。
 特別詳しいわけでも、全てに対抗できるわけでもないけれど、それでも、少しだけでも生きる道を開くために。
 一度家に帰って制服から楽な恰好に着替える。もう日は落ちているけれど、完全な真っ暗でもなかった。
 キッチンにいる母親に声をかけて、サンダルに足を通す。鍵をしっかりかけて向かうは先ほど別れたばかりの祖父の家だった。
 私の家と祖父の家は徒歩数分で行ける距離にある。昔は一緒に住む話も出ていたそうだけれど、祖父が頑なに頷かなかったそうだ。母親から聞いた話で私が生まれる前のできごと。
「おじいちゃん」
 昔ながらの家だった。
 玄関の扉は磨りガラスでスライド式。鍵はよくわからない。壁紙は触れると尖っていて手のひらに刺さるし、二階へとあがるための階段はやけに急だ。そんな家に、祖父はずっと住み続けている。
 部屋に上がれば畳の香りが鼻をくすぐった。来るたびに消えない畳の香りはいったいいつまで保たれているのだろうか。
「おじいちゃん、」
 こちらに背中を向けている祖父に声をかける。振り返りはしなかった。
「今日の、あれ」
「沙羅は、あの男をどう見てる」
「……木兎光太郎のこと?」
「ああ」
「……能天気の、バカ。人間じゃない」
 目を閉じて思い出すのは、全身がぐるぐる巻きにされていた男の姿だった。手も足も、顔も、特徴的な髪でさえ巻き込まれるように絡みついた、黒い糸。そんな――おそらく普通の人間ならばとっくに死んでいてもおかしくはない――状態で、普通に生きていた人間。
 私はバレーに詳しくはないけれど、それがスポーツである限りある程度の激しさがあるはずだ。
 それでも、普通に息をして、笑ってた、人間。
 確かに存在としては人間であることに間違いはないのだろうけれど、少なくとも、黒い糸あれを見ている側からすれば正気の沙汰ではなかった。
 祖父が声を殺して笑った背中が震えている。足を擦れば畳特有の感覚がして、手持無沙汰のときはよく暇つぶしをしていたことを思い出した。
「確かになぁ。あれは、人間ではないかもな」
「……おじいちゃんもそう思うの?」
「ああ、あれは、ひどくまぶしいな」
 祖父の声はどこか優しいものだった。懐かしむような音をしていた。
「まぶしい?」
 確かに木兎光太郎の笑った顔は眩しいと言っても間違いではないと思うけれど、どうして祖父がそんなことを言うのかがわからない。手を口元へやって、人差し指で唇を撫でた。祖父の意図がわからない。
「沙羅」
「うん」
 祖父が座ったまま体をこちらに向けた。
 その顔は優しいようで、苦しんでいるようで、悲しんでいるようで。だけど、どこか喜んでもいるような複雑な顔をしていた。
 何も言えないまま時間が過ぎる。祖父が口を開くのを、私は立ったまま待っている。
「好きなようにすればいい」
「……おじいちゃん?」
「沙羅の、好きなようにすればいい」
「何の話をしてるの」
 ぽん、と祖父が自分の隣を軽く叩く。呼ばれる通りにそこへしゃがんで、膝をついた。フローリングの床で膝をつくときよりも鮮明に、布の擦れる音が聞こえる。
 祖父のしわくしゃな手が私の頬を撫でる。
 随分と、暖かい手だった。
「選択肢をやろう」
「おじいちゃん、私、聞きたいことがあって」
「そのための、選択肢だ」
「…………うん」
 たぶん、これは、聞いておいた方がいい話だ。そう判断して、耳を傾ける。もう聞き逃さない様に。きっと祖父は二度は言わないだろうから。
「……好きな方を、選べばいい」
 そう言って祖父は、私の視界では生きていないものの話を始めた。