踏切の向こう側
(…………だれ?)
 ニコニコと効果音がつきそうな顔をしてこちらを見ている男は、少なくとも同じクラスではないはずだった。さすがに四ヶ月ともなればクラスメイトの顔ぐらいは覚えている。見たことのない顔だから、他のクラスなのだろう。同学年であるかどうかも怪しいが、基本的に上の学年の人間がわざわざやってくる用事なんてないだろうし。しかも誰かを呼ぶでのはなく、クラスに入ってくるということは同学年である可能性が極めて高い。
 前の席を借りて座るのはまだいいが、面識がないはずなのにどうして体ごとこちらを向いているのか。
 家から持ち寄った本に視線は落としているが、前から送られてくる突き刺さるような視線に文字なんてちっとも追えやしない。ずっとこちらを見ているわけだから、私に用があるのだろうと思うのだけれど。
 少し視線を上にあげれば、前に座る男と目が合った。
「はじめまして、猿杙です」
「……はじめまして」
「普さんであってる?」
「あってる、けど、なんで名前……」
 名前が広がるようなことはしていない。
 ずれた度の入っていないメガネを元の位置に戻して、視線を横へずらした。ニコニコと笑っているはずの猿杙と名乗った男は、なんとなく苦手だった。笑っているようで笑っていないような、不思議な不気味さがある。
「最近木兎が普さんの話をしてて」
「……そう」
 名前を知られている原因は判明したけれど、だからと言って私の前に現れるのはどういうことなのだろうか。別に木兎光太郎だってクラスメイトの話ぐらいするだろう。いやしかし、木兎光太郎が私の話をしているだなんて、いったいどんな話を? あの日のことは誰にも言わない約束をしているし、木兎光太郎は律儀にも守っているはずだ。でなければ今頃私は変なレッテルを張られて後ろ指をさされていてもおかしくはない。
「………………なにかご用でしょうか」
「そんな硬くなんないでよ〜」
 ニコニコニコニコ。一切表情を崩さない猿杙の目的が分からなかった。腹の底が見えなくて困る。その点で言えば木兎光太郎のなんてわかりやすいことだろうか。関わる人間全てがあれだけわかりやすければもっと息がしやすくなるのに。
 猿杙は腹の底が見えないと思うけれど、胡散臭いとは思えなかった。顔立ちがどちらかと言えば可愛らしいからだろうか。それとも彼の醸し出す雰囲気が柔らかいからだろうか。
(どっちでもいいから早く帰ってほしいんだけど)
 視線を迷わせて定めることができない。
 隣の席の男はどこかへ行ったきり帰っては来ないし、それは前の席にも言えたことだった。どうしてか私の周りの席の人間は不在で教室の中に人はいてもこちらに注目なんてしていない。
(どうしようか)
 とりあえず一度、開いていた本を閉じる。既に何度も読んでいる本だから、栞は挟まなくても問題ない。
 逸らしていた視線を前に向けると、猿杙はやっぱりニコニコとして――
(……これ、デフォルトだな?)
 はた、と気が付く。
 口角が上がっているから笑っているように思えていたが、元々そういう形の、笑って見える口をしているのだろう。だから変に腹の底が見えないように思えただけで、きっと本人にその気は一切ないのではないだろうか。
 しかし、そこまで考えても、結局猿杙が私の前に座っている理由はわからなかった。
「あの、本当に何の用でしょうか……」
「同じ年だからタメでいいよ〜」
「はぁ」
 だからなんだって言うのだろうか。クラスが違うので関わることなんてないだろうし、そもそもできるだけ関わりたくはない。木葉秋紀の場合は仕方がなかったとは言え、警戒され続けていていい気はしないので。関わっているうちに木兎光太郎ないし木葉秋紀がついうっかり口を滑らせてしまう可能性だってある。それは、できるだけ避けたい。
「普さんさぁ、知ってる?」
「……何を」
「踏切の話ー」
「踏切?」
「そう。商店街抜けたところに踏切あるのは知ってる?」
「……知ってる、けど」
 知ってるもなにも通学路である。週に五日、一日二度は通っている踏切だけれど、初対面の人間を相手に出すような話題だろうか。首を傾げて話の続きを待っている自分に気が付いて、別に待つ必要もなかったのだと考え直す。
「出るんだって」
「はぁ、」
「お化け!」
「…………え?」
「あそこの踏切お化け出るんだよな〜」
 所詮噂は噂。それをなぜ私に伝えたのかはわからないけれど、本当のお化け≠見たことがないから話せるのだろう。
 もし見たのだとしたら誰にも言わないはずだ。いや、面白おかしく話すことはあるかもしれないけれど。だけど、だって。
「……出ないよ」
(だって私、見たことないし)
 毎日使っている踏切だ。もし本当にお化けがいるのだとしたら、私が見ていないのはおかしい。こんな目なんて何も誇ることがないけれど、流れる噂の真偽はわかるようになっているのだ。
 それなのに猿杙は驚きもしなかった。
「いるよ。いたよ」
 ――今、なんて?
「俺いるの見ちゃったんだよねぇ」
 表情を変えない猿杙の言葉に耳を疑った。
「……何を」
「え、お化け」
「へぇ……」
 会話が途切れた。
 わざわざ私にその話をしに来た理由はなんだろうか。どう考えたって初対面の相手に振る話題ではないだろう。あまり人付き合いが得意でない私でさえそう思うのに、私よりも人付き合いが得意なように見える猿杙が、どうして。
(この人の人となりなんて知らないけど)
 そもそも毎日のように通っている私は見たことがないのだ。もしかしたら猿杙の作り話という可能性もある。むしろ、そちらの方が高い。
「普さんって見える・・・でしょ?」
 なんてことないように、猿杙は言った。
 疑問符はついているように聞こえるけれどそれは疑問でもなんでもなかった。確認ですらない。それは、猿杙の中で決定事項となっているように、なんの疑いもなく言ってのけた。
「なんのことかさっぱりなんだけど」
「誤魔化さなくていいよ〜。俺も見える人だから」
「見える、って」
 なんで、と聞くのはおかしい。猿杙が知っている理由に心当たりなんて浮かぶ顔はたったの二つだけだ。木兎光太郎は秘密が出来ないように見えて、あれで案外思慮深く、本当に言われたくないことには口が堅い。だとれば木葉秋紀か。――あの警戒具合を考えたら、十分ありえる。
(やっぱり人に言うんじゃなかった……)
 もっと考えて動くべきであったと反省する。いやしかし、木兎光太郎のあの状況を見れていて、余程心の無い人間でなければ手を貸してしまうだろう。自分を正当化することには慣れている。
「先月の木兎に纏わりついてたあれをどうにかしたのって普さんでしょ?」
「…………見えてて、放置してたの」
 いつだったか、自分にかけられた言葉を人に言う時が来るとは思ってもいなかった。今になってあの時の木葉秋紀の感情を、僅かであれ理解することになるとは。
 猿杙の目が微かに細くなる。口角が常時上がっているように見えるからわかりずらいかもしれないが、瞳の奥に見えるのは少しの怒り。
「したくてしてたんじゃないよ、勘違いしないでね」
「……そう」
「ただ見てることしかできなくてさぁ、どうしようかなって悩んでたらある日綺麗さっぱりしてんだもん、びっくりした」
「よかったね」
「その日からなんだよね、木兎の口から普さん≠フ名前を聞くようになったの」
 なるほど、と理解する。
 木兎光太郎や木葉秋紀が口にしたのではなく、ただ猿杙が私と同じ世界を共有していて、かつ思考する人間だったから気が付いたということか。だからって普通は初対面の相手に死者の話題なんて持ってこないのだけれど。
「あなたが見えたとして、でもあの踏切は出ないはずだよ」
「なんで?」
「……毎日通ってるけど見たこと、ない」
「え、うそだぁ」
「嘘をついて何の得になるの」
「そうだけどさ〜」
 見えることに何かしらの条件があったとするならば、私と猿杙では前提も何もかもが違いすぎて見当もつかない。それに害がないのであれば放っておけばいい。どうせ死者は溢れかえっていて、生者にはどうすることもできないのだから。
 自分の身を守るので精一杯だから、人に手を貸している余裕なんて無い。先月の一件が特別だっただけ。
「そのお化けがさ、どんな見た目か知ってる?」
「見たことないから知らない」
「――茶色のボブ」
 やけに静かに聞こえたのはどうしてだろうか。猿杙があえてそう声を発したのか。それとも私がその特徴に嫌な思い出があるからか。
(いや、いやいやいやいや。そんなわけないでしょう。そんな特徴の子なんてたくさんいるんだから)
「…………ふつうのこだね」
梟谷学園うちの制服だった」
 七月に入って届いた悲しい報せ。茶髪で、ボブ。髪型からして恐らく女子。すっかり見慣れた制服姿。
(ああ、嫌な予感が、する)
 カンカンカン――頭の中で踏切が下がる警告音が響く。どこか錆びついたその音が、こびりついて離れない。
 いつの間にか口の中に溜まっていた唾液を飲み込んで、一つ息を吐き出した。
 心臓が口から出てきそうなほど大袈裟に脈打っているのがわかる。背筋が震えて、とっくに衣替えが終わって見えている腕に手を添えた。
「……呪いのこと、どこまで知ってる?」