夏休みの掃除を初めて、一週間が経った。
初日はプール、2日目は体育館、3日目以降は理科室や家庭科室のある特別棟の一階を、廊下を含めて掃除した。会話は、やっぱりあんまりない。
2週目初日の今日は、特別棟の二階にある美術室から掃除を始めたのだが……ここまでやってみた感想を言おう。率直にいえば、夏休み全部使っても二人きりじゃあ学校中をピカピカにするなんて到底無理だ。絶対に、無理だ。
そう鉢屋に言ってみると、鉢屋は不思議そうに首をかしげた。
「?終わるだろう。特別棟は4階までで、この階を含めてもあと3階分。夏休みはあと4週もある」
「生徒棟は?」
「やらなくていいって言ってた。……聞いてなかったんだな」
「たぶん、ぼうっとしてしまうことがありまして」
鉢屋は私のこの悪癖に慣れてしまったのか、はたまた私の言い訳が聞こえなかったのか、ため息もつかなかった。私はため息に関してはつかれ慣れているが、つかれないほうが気分はいいに決まってるので、よかったなぁと思う。
鉢屋によると「この夏休み中に私物を置きっぱなしにしてるアホな生徒が万一にもいて、トラブルになったら困る。」というのが先生のお考えらしかった。そういえば、私も持ち帰るのが面倒でロッカーにいろんなものを入れっぱなしにしている。アホな生徒か。我ながらため息が出るな。
「それにしても、美術室がいちばん掃除のしがいがあるな。絵の具やなんかが飛び散ってて」
鉢屋は美術室を見渡して、ふとそう言った。
私は思う。机にこびり付く絵の具は、たしかに綺麗とは言い難いけれど……果たしてこの部屋を使う者にとって汚れなのだろうか。
「どこからが汚れなんだろう……」
ぽつりと呟いた私に、鉢屋は振り返った。それから少し考える素振りをして、「それは人によりけりだろうな。」と言った。
それはきっと、その通りだろう。そう考えると、ここは個人の空間ではないし、できる限り綺麗にしてしまっていいのかもしれない。
そう思いながらも、私は一番隅の机のしつこい青の絵の具汚れだけは、見ない振りをした。
「どこからが汚れ、か」
今度は鉢屋が、独り言のようにぽつりとつぶやく。私が顔を上げると、視線の合わない彼は「変なことを聞くが」と前置きをして言った。
「忘れたい思い出は、汚れだと思うか?」
「────」
鉢屋はこちらを見ない。2週間もベッタリすごした割に、あんまり会話のない私たちだ。突然投げられた自分自身の核心に迫るようなその問いに、少し驚きはしたが、しかし不思議と不快には思わなかった。
考えてみる。そりゃあ、それも人によりけりだろうが、きっと鉢屋はそんなことはわかっていて"私にとって"汚れなのかどうかを聞いているのだろう。忘れたい思い出は私にもそれなりにあるが、私はそれとどう向き合ってきただろうか。
「そうだな……私は、嫌な事とかはきれいなものを見て忘れるようにしてるんだけど。そういうふうにしてたら、何一つ思い出せない期間ができちゃったんだよね」
その頃、たしかに嫌なことがあった気がするが、詳細は全く思い出せない。どころか、その時期にあったことをまるっと思い出せない。そんな闇の期間がある。その時にあったことは全て、楽しかったことさえも忘れてしまっていた。
「今私が生きてるってことは、その時だって救いもあったはずだから、今思うとなんで全部忘れちゃったんだろうって思うけどね」
忘れなきゃ、きっとその頃の私は生きて行けなかったんだろう。辛くて、かなしくて、生きていけないくらいなら、忘れてしまっていいと思う。忘却は罪ではない。忘却は、神様からのプレゼント。でも、それでも、忘れすぎて空っぽになっちゃわないようにしてあげなきゃ未来の自分はきっとさみしくて、かわいそうだ。
黙って私の話を聞く鉢屋に、私は聞いてみた。
「その時の、楽しい思い出はなかったの」
「……沢山あったさ」
愛しいから、今が辛いんだ。
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟かれたその言葉は、私の耳に深く刺さった気がした。
190121
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