ハサミを入れた



教室は、しとしとという雨の音とシャーペンを走らせる音を除いて、とても静かだった。突然この教室だけが世界から切り離されて、私達以外は誰もいなくなってしまったかのように、恐ろしく穏やかでさびしい空間だった。
実際、思い返してみれば、この夏は鉢屋と二人きりの世界に放り出されたみたいだった。夏が始まってからずっと、鉢屋だけが私の隣にいて、美しい景色の中には必ず鉢屋の姿があって、私は鉢屋の話だけを聞いていた。
それはやっぱり、普通の思考回路をもって考えれば絶対におかしいことだった。変だ。奇妙だ。違和感しかないことだ。ただのクラスメイトと、二人きりの世界で平気で息をするなんて。どうして、"こんなのおかしい"と引き返したりしなかったのだろう?どうして、気まずさを感じたりしなかったのだろう。どころか、私は鉢屋とならどこへだって行けると思っていた。
鈍感でありたいと思い、そのように振る舞うことはたまにある。しかし、こんなに長い間そうしたことは今までなかった。おかしさに気付かないふりをするのが、少しも苦痛じゃなかった。鉢屋の隣は、まるで家族と一緒に居るみたいに当たり前に感じた。今この瞬間だってそう。
そのことに気づいた今では、その馴染み深い感覚こそがなにより違和感で、なんだか気持ちが悪いというか、薄気味が悪い……。

それに加えて、今日の鉢屋は変だった。しきりに外を気にしているのに、私が「帰ろう」と言うと、何かと理由をつけて引き留めようとするのだ。


「ねぇ鉢屋、そろそろ帰ろうよ」

「雨降ってるだろ」

「このくらいの雨絶対平気だよ」


もう何度目かになる提案を、鉢屋はこちらを見ずに一蹴する。雨は、鉢屋が言った通り降ったりやんだり、弱まったり強まったりを繰り返していて、帰れそうだと思うタイミングは提案の回数だけあった。英語のワークはとても捗ったが、もうほとんど終わってしまっている。私は、やっぱりこの状態に飽きていた。それから、鉢屋三郎という不思議な存在に対する不信感もすこし。
しかし、引きとめる鉢屋を振り切って雨の中無理して帰る理由もそれはそれで見つからなくて、ふたりきりの時間だけが過ぎていった。


そんな状態のまま、どれくらいたっただろうか。
ゴロゴロ……と唸るような低い音が聞こえて、はっと窓の外に目を移せば、先ほどよりももっとどす黒く、分厚い雲が空を覆っていた。木が風に煽られ不穏に揺れている。今にも嵐が来そうだ。
鉢屋を見れば、鉢屋も同じように窓の外を食い入るように見つめていた。私は立ち上がり、机の上の教材を片しながら、懲りずに鉢屋に言ってみた。


「なんかいよいよ本当のが降ってきそうじゃん?もう早く帰…」

「だめだ」


ピシャリと鉢屋が私の言葉を遮る。今まででいちばん強い口調だった。ようやくこちらを見た鉢屋と視線が絡み合う―――強く、鬼気迫るその瞳から、ピリピリとした緊張感が伝わってきて、私は思わず言葉を呑み込んだ。
さっきからなんなんだ。何でそんなに頑ななんだ。わけもわからないまま、それでも私は彼の言い方や態度にムッとして、わざとらしく音をたて椅子を引いて、どすんと座った。それから、机の上に腕を放り出して顔を埋める。


「雷でも怖いのかよ…」

「ああ、怖いね」


くぐもった声で、尚且つ小さく呟いたつもりの皮肉だったが、彼にはしっかり届いたらしい。届くにしてもまさか肯定の言葉が帰ってくるなんて微塵も思っていなかったので、驚いて顔を上げる。彼は口元をニヤつかせていた。巫山戯ているのだ。
それを見てしゅるしゅると萎んだ好奇心と、再びふつふつと浮かんでくる苛立ちに、もう一度バタンと机に倒れ込んでため息を吐く。そんな私に、おどけた調子で彼は続けた。


「ほんとうだぞ、本当に怖いんだ。……だから、ここにいてくれ」


はいはい。
そう心の中で投げやりに呟いた私は、彼がその時どんな顔をしていたか、知る由もない。

190209
prev next
back