12


誰にも話していないことがある。きっと、これから先も話すことはないだろう。これはどうしようもないくらい情けなくて、自分勝手な話だ。
幼い頃のことだ……俺がなまえちゃんを避けてから、しばらく経った。あの日からもなまえちゃんは俺のもとに来ると、何もなかったように笑って遊びに誘ってくる。だけど俺はそれに答えず、逃げるように彼女から離れた。
そのうちなまえちゃんは遊びに誘わなくなってきた。俺を見かければ笑いかけてくれたが、その笑顔はどこか遠慮がちだった。他人行儀ななまえちゃんに言いようのない苛立ちが湧いて、俺はそれすら無視した。
やがて日が経つにつれて、なまえちゃんは来なくなった。そのことを寂しいと身勝手にも思ったが、それでも俺はどうするつもりもなかった。素直になるのが恥ずかしいような、悔しいような微妙な気持ちがあったんだ。そしてこの馬鹿な意地は、ずっと俺に付いてまわり、気付けばこの状態のまま数年経つという最悪の状況になっていた。
俺が小学校の最上級生になると、なまえちゃんは中学校へと進学した。校内になまえちゃんがいないというのは、思っていたよりも気が楽だった。ばったり鉢合わせになることはないし、そんなときの複雑な感情とも付き合わなくていい。その頃から、このままでいいのかという自問を繰り返していたが、今更なんて言えばいいのか分からなかった。それなのになまえちゃんはこの状態がいつも通りとでもいうように笑うから、俺は苛立ちながらも混乱した。とっくにこれが当たり前の日常になっていたのに、まだ俺は一緒に遊んでいたあの頃に戻れるのではないかと期待していた。
そうして悶々と過ごしていたある日。ふと、俺を呼び止める声が聞こえた。どこかで聞いたことがあるようで、だけど少し違う。呼び止めたその人は制服を着ていた。中学生だ。少し長めのスカートが、大人しそうな印象を作っていた。誰だろう。考えたのは一瞬だった。
なまえちゃんだ。一瞬でも分からなかったことに驚いた。そして怖くなった。なまえちゃんが知らない人になった気がした。俺が知っているなまえちゃんは、俺の知らないところでどんどん変わっていってしまう。
制服姿を見たのは初めてだったが、似合っているようには見えなかった。そのスカートでは一緒に走れないだろう。元気ななまえちゃんには不釣り合いだと、へそ曲がりな感想を持った。俺が同じ学校の制服を着られるようになるのは、あと少し時間がかかる。1年もない時間だが、今ではない。今まで強く感じることのなかった距離が、決して縮まることはないのだと見せつけてくるようだった。俺がもたついている間に、なまえちゃんはまた変わってしまうのだろうか。
後ずさりする俺に、なまえちゃんはもう一度呼び止めた。記憶の中のなまえちゃんと違うことが上手く理解出来ず、混乱して息が出来ない。俺は堪えられずに駆け出した。今であれば、もう少し冷静でいられたと思う。事実この時ほど混乱はしなかった。俺は突然突き付けられた現実から目を背けたんだ。少しでいいから落ち着く時間が欲しかった。俺はこうして、最後のチャンスを棒に振った。
全てに気付いたのは、翌日の母の一言からだった。


「鋼……本当に良かったの?」


こちらを伺うような言葉だった。何のことか分からずに首を傾げる。珍しく悲痛な面持ちの母に、言いようのない不安が押し寄せた。


「なまえちゃん、行っちゃったよ」


要領を得ない言葉にそうなんだ、とそっけなく返した。どうしてなまえちゃんの名前が出てきたのだろう。どこに行ったというのか。なぜ母がわざわざ自分に伝えるのか。瞬時に様々な疑問が浮かんだが、それらを考えると嫌な予感は更に増した。


「……どこに?」


あくまで興味がないという体を装う。一瞬の間のあと、母が俺の名前を呼んだ。それは今まであまり聞いたことのない真面目な声色だったから、俺は自然と背筋を伸ばした。そして母が告げる内容に、俺は驚愕した。
なまえちゃん家、お引越ししたんだよ。
どんな理由でどこに行ってしまったのか。そんなものは全部耳に入らなかった。思考は回らず、母の言った意味が分かるのに少し掛かったはずだ。
気付けば家を飛び出していた。出て、すぐに隣の家を見上げる。なまえちゃんの家は真っ暗だった。いつも明かりが点いて暖かく見えたのに、中に入ったことだってあるその場所に、今は誰もいない。まるで知らない家のように見えてしまい怖くなった。なまえちゃんが、いなくなってしまう。
無我夢中で走った。何かを追いかけていた気がする。たどり着いた先は公園だった。なまえちゃんと、小さい頃から一緒に遊んでいた場所だった。途端に懐かしさがこみ上げてきて、すぐにそれを上回る後悔が襲った。


「……待って」


呟いたそれは、誰に聞かれることもなく消える。待って、行かないで、置いてかないで。喉の奥から出てこなかったのは、泣くのを我慢していたからだった。それもすぐに決壊してしまう。歯を食いしばっても涙を止めることは出来ず、釣られて今まで溜め込んでいた感情が溢れ出した。


「やだよ、なまえちゃん……。ごめん、ごめんなさい」


伝える相手がここに居ないというのが、一層後悔を強めた。ごめんなさい。口を開いても嗚咽ばかりで言葉にすらならない。堪えきれず、俺はうずくまって泣いた。
いつの日だったか、こうして泣いた過去がある。そんなときに声をかけてくれるのは、決まってなまえちゃんだった。なんでもないように笑いかけてくれる優しさが、頭を撫でて慰めてくれるこそばゆさが、手を繋いで一緒にいてくれる暖かさが、かけがえのないものだったことに気付いた。
本当にもう二度と戻れない。戻れなくなった。他でもない自分が選んだ道が、こんなにも寂しくて苦しいものだとは思わなかった。何も考えていなかった。気付いたときには全てが終わっていた。
服を掴んで泣きじゃくっていた俺の手が、誰かと繋がることはなかった。