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相も変わらず模試はA判定。前世では中の上くらいをずっと横這いだったため、今世で勉強を頑張ってきた甲斐があるというものだ。勉強が楽しいなんて、今世ではじめて知った。勉強とは所詮「わかる」の積み重ねであり、わからないからつまらないのであって、「わかる」喜びを味わうと勝手にどんどん勉強をしたくなるものなのだ。ガリ勉で結構。M大合格までもうすぐだ。

「ふふ、宇佐見先生に早く報告しなきゃ――― ってあれ」

少年のような笑顔で褒めてくれる宇佐見先生の顔が、浮かんで消えた。
模試の結果を一番最初に知らせるのはずっと兄だった。報告する度に私が大好きな笑顔になって、「やったなむつみ!さすが俺の妹!」と頭を撫でてくれた。兄の喜ぶ顔が受験へのモチベーションで、兄の期待に応えたい一心で今まで頑張ってきた。別にブラコンだと揶揄されたって痛くも痒くもない。今日も兄が大好きだ。
しかし、今日はどうだろう。一番最初に頭に浮かんだのは、宇佐見先生だった。

「(これは……本格的にヤバイかもしれない……)」

宇佐見先生の報われない恋を(勝手に)悲しんでおきながら、私も報われない恋に片足を突っ込もうとしている。

「そこに突っ立って何してるんだ」
「ハッ…」

勉強以外の小難しいことは相変わらず上手く扱えないらしい。うんうんと悩んでいたら、いつの間にか歩みを止めてしまっていた。宇佐見先生が不審そうな顔でこちらを見つめている。

「う、宇佐見先生!おはようございます!」
「今の時間帯はどう考えてもこんばんはが妥当だが…… 現代文以前に基本的な部分で躓いているが大丈夫か」

宇佐見先生に呆れられてしまった。微かに芽生えた恋心を自覚し始めた直後のこの仕打ち、中々にくるものがある。

「ちょうどいい、一緒に帰ろう。今日孝浩の誕生日だろうが。」

ケーキ買ってきた、と顔の目の前にケーキの入った箱を突き出した。今日は兄の誕生日だということは知っていたが、不意打ちすぎて「う」だの「あ…」だの言葉に詰まっていると、「“忘れてた”って顔だな」とからかわれてしまった。カチンときたので、「忘れてないです!びっくりして言葉に詰まっただけです!」と反論する。
こんなやりとり、数ヶ月前には考えられなかった。この繋がりは「お兄ちゃん(孝浩)を喜ばせるため」という同じ目標のためだけのものだけど、今はほんの少しだけ、私への情が湧いたのではないかと期待している。それが「出来の良い生徒」でも、「好きな人の妹」でも、どんな名前でも構わない。

「う、宇佐見先生、あの、今日これ返ってきたんですけど…」

模試の結果を受け取った宇佐見先生は、内容に一通り目を通した上で、ふっと笑った。それは「当然」とでも言いた気な、余裕から零れる笑みだった。

「よくやった」

宇佐見先生は、ぽん、と優しく頭を撫でたあと、少しだけ髪をくしゃっとした。顔が見れない。
これは多分、恋だ。

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兄が帰ってくる前にケーキやいつもよりも豪勢な食事をセッティングした。兄を想って用意を手伝ってくれていた宇佐見先生は、ずっと嬉しそうにしていた。兄に渡すために用意した高級時計が入った箱をちらちら見ながら、兄の帰りを二人で待つ。
暫くして、玄関の方から「ただいま〜」という声がした。兄だ。
リビングのドアの裏で待ち伏せして、ドアを潜る瞬間に宇佐見さんが渡してきたクラッカーで兄を出迎えた。

「孝浩誕生日おめでと〜っ!!」
「すごいご馳走じゃないか!ありがとうな!」

続けてむつみが作ったのか?と聞いてきたので頷くと、いつもより2割り増しでニコニコしながら頭を撫でてきた。やっぱりいくつになっても誕生日を祝ってもらうのは嬉しいんだな、といつもより上機嫌で浮かれている兄を見ながら思った。
宇佐見さんは私と兄がやりとりをしている間に時計を手配し、なんてことない顔でプレゼントだと言って差し出した。「えっ?!でもこれメチャクチャ高くて」「いーのいーの、一年に一回ゴージャスなもの貰ったってバチは当たらん」……貰った兄よりも嬉しそうな顔をしている。彼は相変わらず兄の幸せが大好物らしい。

「お兄ちゃん、ちゃんと鍵閉めてって言って…………?」

目に入ったのは女性のしなやかな脚。そうだった、今日は兄が婚約者を紹介する日だった。―――宇佐見さんの失恋が決定打となる、運命の日だった。

「ゴメンゴメン、そうそう大事なこと言わないと」
「お、お兄ちゃん、あの」
「ウサギも来てて良かったよ」

言わないで。その一言が思わず声に出そうになって、喉の奥で揉み消した。

「―――梶原真奈美さん、僕たち結婚することにしたんだ」

この流れは全て知っていた。何度も読み返した1巻冒頭の出来事だ。宇佐見先生はとても傷つく。大好きでずっと見守ってきた兄を、顔も大して知らない女に横から掻っ攫われる。でも彼にとっての幸せは、兄が幸せになることなのだ。彼は原作と寸分違わぬ行動をとるだろう。

「そうか!ついにやったな孝浩!何だメチャ可愛い娘じゃないか!」

―――そうやって、また自分を殺すのだろうか。兄の幸せだけを考えるために、自分の痛みを蔑ろにして。
ここに居るのが高橋美咲であったなら、彼が心に負った大きな傷は美咲の単純で無垢な心と言葉で癒えていくことだろう。しかし私は高橋美咲ではない。高橋むつみだ。
目の前の傷ついた彼を抱きしめてあげるのは誰だろう。涙を受け入れてあげるのは誰だろう。
この人は愛し方は知っていても、愛され方は知らないのだ。

「ウサギに、一番に紹介したかったんだ!」

やめてよお兄ちゃん、その一言が言えない。幸せそうな兄の姿と、内心ではボロボロなのに、そんな兄の姿を見て満足気に笑っている宇佐見先生を否定することができない。でも、これ以上彼を傷つけないで欲しいという気持ちも確かだった。
堪え切れない思いが、涙となって頬を伝う。一筋、二筋と途切れることなく流れていく。

「むつみ、どうした!?腹が痛いのか?何かあったのか?」

兄が心配して駆け寄ってくる。背中を摩る温かい手が、今は疎ましくてしょうがない。

「ごめ、真奈美さんが好きな漫画に出てた好きなキャラにそっくりで、そのキャラ死んじゃったから色々思い出しちゃって――― ごめんなさい!頭、冷やしてくるね!」

見苦しい言い訳を捲し立て、兄が何か言う前に駆け出した。玄関を突き破って外に出る。暦でいえば春なのだが、まだまだ寒さが続く2月下旬の冷たい空気は、つんと鼻に沁みた。
とにかく、兄から少し離れたかった。宇佐見先生から逃げたかった。美咲のように宇佐見先生を連れ出す勇気など、私にはない。

「ひっ、く……お兄ちゃんのばか……」

兄は何も悪くないのだ。少し鈍感なだけで、その毒気のない笑顔と優しさに私は何度も救われてきた。きっと宇佐見先生だってそう。
でも、あまりにも無神経すぎると思ってしまう自分もいた。
あんなに大切に大切にされてきて、何故気付かないのだろう。あんなに兄の幸せを想う人は、いないのに。

「ここにいたのか」

後ろから声が降ってきた。え、いや、何でここに居るの。

「宇佐見先生!?……あの、兄たちは、大丈夫でしたか……」
「妹が心配ですぐに追いかけようとした兄を止めて、代わりに俺がお前を迎えにきた」
「め、迷惑をかけてしまって、ごめんなさい……」

宇佐見先生は、いつもの気怠そうな顔で淡々と告げた。私の涙に一切触れてこないのは、興味がないのか、それとも。

「………何でお前が泣くんだよ」

――――――そんなの決まってる。

「だって、あんなの酷い……宇佐見先生はずっとお兄ちゃんが好きで、大切にしてきたのに、どうして……どうして「一番最初に紹介したい」だなんて、そんな無神経なこと言えるんだろうって……!」

口を開いたら、溢れ出して止まらなかった。彼の方が痛いことは分かっているのに、私も痛くて堪らなかった。

「お兄ちゃんのこと、はじめて嫌いになりました……っ」

この一言で、一度収まりかけた涙がぶり返した。止めたくても止められない。きっと目の前に立っている彼は、汚い泣きっ面にドン引きしていることだろう。私だって淡い恋心を抱いている人に対して、こんな顔を見せたくはない。しかし、どんなに頑張っても、次から次へと溢れ出てくる。

「ひっ、……く、ふ、うぅ〜……」
「泣くな」
「お兄ちゃんと宇佐見先生のせいですから……っ!!いったん泣くと、止めたくても止めらないんですからね……!!」
「そうだな」

これ以上汚い顔を見られたくなくて、必死に目を擦る。彼が笑う気配がした。
そっと頬に手が添えられる。優しい瞳をして微笑む宇佐見先生の顔が、近い。状況が掴めずぼんやりと見つめていると、新たに溢れ出た涙で視界が滲んだ。
その瞬間、唇にやわらかくてあたたかいものが触れた。
その感触に目を見開くと、涙が頬を伝って、次第に視界がクリアになる。これは、まさか、キスというやつでは。

「ふ、ぁ……」

無防備に開いた口に熱い舌が捻じ込まれ、舌先で上顎を撫でられる。熱い。気持ちいい。好き。原始的な感覚が私の思考を支配する。
涙はいつの間にか、止まっていた。

「止まった」

吐息がかかる距離で、彼は笑った。突然のキスに吃驚して声も出ない私は、顔を真っ赤にして固まっていた。
そんな私を他所に、宇佐見先生はズルズルとしゃがみ込み、肩口に顔を埋める。「スマン、少しだけ」少し震えた声で呟く彼が愛おしい。

「宇佐見先生、泣きたかったら泣いてもいいですよ」

耳元で「アホか」と一蹴された。「ガキが一丁前に生意気を言うんじゃねーーー」とも加えられた。それは拒絶ではなく、ちっぽけなプライドと強がりだった。

「―――言っとくけどな、俺は生まれた時以外他人の前で一度も泣いたことがないんだぜ。……お前だけだ。」

その一言が、「好き」という言葉よりも確かな響きを持って私に届いた。
肩口に雫を感じながら、小さく蕾をつけていた恋心が今この瞬間から開きはじめているのを悟った。この人とずっと一緒にいられればいいのに、この人の特別になれたらいいのに、そんなことを考えながら、彼の広い背中に手を回して、暫く抱き合っていた。

明るく優しい終焉