時計の針は天辺に

どうにも眠れない夜だった。
夜更けというにも、まだ日付が変わる前で、窓から見える月を眺めていた。
大きくて、手が届きそうで、魅入られて、
気がついた時には、窓から身を乗り出していた。
浮遊感と自分の間の抜けた声。

「賢者様!」

誰かが私を呼ぶ声、その後に紡がれる呪文。
ふわりと体が浮いて、足が地面に着く。
目を瞬かせていると、私の両肩をしっかりと掴んで、
焦った表情をするヒースクリフがそこにいた。

「なんで窓から身を乗り出したんですか!」

綺麗なサファイアのような瞳に射抜かれながら、
珍しく眉を吊り上げて怒る整った顔の彼に驚いてしまった。
「えっと、月に手を伸ばしていたら、落ちていたと言いますか…」
そう答える私に、ヒースクリフはしゃがみ込んで、
小さな声でよかった……と呟いていた。
私も一緒になってしゃがんで声をかける。

「心配させてごめんなさい、助けてくれてありがとうございます。
 ヒースクリフ」

そう声を掛けて、俯く彼の旋毛を見つめていた。
はぁと大きなため息をついた彼は、パッと顔を上げて私を見つめる。
青い瞳に映る自分の顔はどこか間抜けで、
彼に見られるのが少し恥ずかしかった。

「本当に、俺がたまたまここに居たから良かったものの……
 誰もいなかったら賢者様はどうしたんですか……
 当分、窓を開けて月を見るのは禁止です。
 ファウスト先生にも伝えておくのでしっかり怒られてくださいね」

真剣で、少し怒りの滲む表情。
自分がしてしまった事の罪深さを痛感した。
無意識とはいえ、もしかしたら死んでいたかもしれないという可能性を
考えたとき、背筋に冷たいものが走った。
ヒースクリフが居てくれて良かったと、心の底から思った。

「ファウストには伝えないで欲しいですが、
 私が悪いのでヒースクリフとファウストの心配を
 受け止めて反省しますね……
 ぼーっとしてしまうのは私の悪い癖ですね、
 月を見る時は誰かと一緒に居るようにしたいと思います。
 そういえばヒースクリフはどうしてここに?」

この魔法舎で散歩をするなら中庭が一番適していると思って居たため、
この辺りの道に何かあったか思考を巡らせる。
ただ、ぐるりと回るのであれば、
魔法舎の外周を歩くこともあるかと自分の中で結論を出したが、
ヒースクリフの予想外の言葉に驚いてしまった。

「えっと、一目でいいから賢者様のお顔が見たいな、と思って……
 あ、気持ち悪いですよね!でも、本当に、賢者様がいたら良いなくらいで、
 期待していた訳では……!」

自分の言葉をしどろもどろになりながら訂正しては、
どんどん顔を真っ赤にしていく彼が、可愛らしくて。
さっきまで怒り心頭、みたいな表情をした彼はもう居なかった。

「ふふ、落ち着いてください、ヒースクリフ。
 部屋を訪ねて来てくれれば良かったのに。いつでも歓迎しますよ私は」
年下の可愛らしい男の子の頼みならば、
いくらでも叶えてあげたいと思うのは、
少し背伸びした大人心、というものだろう。
金糸のように透き通る髪に触れて頭を撫でる。
恥ずかしくなったのか、もう一度俯いた彼は、小さな声で私にお願いをする。

「賢者様、日付が変わるまで一緒に居て貰えませんか」
「いいですけど、シノに怒られませんか?」
「どうしてですか?」
「日付が変われば、ヒースクリフの大切な日が始まるでしょう?」
そう伝えれば、彼は目を丸くして、
「賢者様、知ってたんですか」と驚いていた。
「私の大切な魔法使いですから」
そういえば、敵わないなぁと花が綻ぶような笑顔。
「シノには内緒にしてください。
 俺の我儘ですけど、賢者様に1番に言って欲しいから」
「ヒースクリフも悪い人ですね、私の部屋に来ますか?
 何も無いですけど、嗚呼でも、シノにバレてしまいそうですね……
 このまま中庭の方までお散歩しましょうか」

そう提案をすれば、はい!と嬉しそうな表情。
立ち上がってふたりで並んで歩く。
ほんの少しだけゆったりと歩いている彼のスピードに合わせて歩く。
浮かぶ大きな月を背景に、照らされた彼の横顔は、儚い王子様のようで、
いつか月に帰ってしまうかぐや姫のような気さえした。
そんなことを考えていると、ヒースクリフは自分の時計をみて声を漏らした。
きっと、日付が変わったのだろう。
彼に向き合って、少し高い位置にある彼の瞳を見つめる。
「お誕生日おめでとうございます、ヒースクリフ。
 貴方の過ごす日が幸せに満ちていますように」
何の力もない私からの形だけの祝福と祈りの言葉。
彼にとって気休めでも伝わればいいと思った。
「ありがとうございます、賢者様」
「いいえ、こちらこそありがとうございます。
 さぁ、バレないうちにシノに会いに行ってください。
 きっと、今日一番楽しみにしていたのは、きっとシノですから」
「そうですね、あの、賢者様、今夜も一緒に居て貰えますか」

意外な言葉にぱちぱちと瞬きをして固まってしまった。
噛み砕いて、自分の中でゆっくり消化している私に、
無理にとは言いません!今だって一緒に居て貰えたので!
と焦ったように言うヒースクリフに気づけば、
良いですよ晩酌でもしましょうかと少し悪い提案。
ネロに美味しい夜食でも作って貰って、中庭でのんびりしましょうと笑えば、
嬉しそうにはい!という元気な返事と、
それじゃあ、また今夜!と魔法舎のほうに向かっていく彼の背中を見送る。
彼が幸せな日を過ごせますようにと願いながら、
中庭まで夜の散歩を楽しむことにした。

ヒースクリフお誕生日おめでとう!