春が近づいてきている。
そう思うのは、少し肌寒く、妙に暖かいそれを肌が感じているからだろう。
私にと用意された湯飲みの中を覗けば、自身の目が映る。
薄緑のお茶は品のある味だ。
此処で出されるお茶はいつも美味しいな、と向かい合うように座る縁切り様に視線を向ける。きっと縁切り様もこの美味しいお茶にホッと一息ついているに違いないと思ったのだが……なんか思っていた顔と違った。
控えていた縁切り様の神使様にも視線を向ければ、青ざめて下を向いている。
この和やかな昼下がり、私は早まったかもしれない。
「そなた、今なんと言った」
「その、坂田さんに別の気が入っているように思うので……確認方法と解決方法を教えていただけないでしょうか、と言いました」
先ほど言ったことをもう一度、ただ、先ほどとは違い、少し言葉に詰まりながら言えば、縁切り様が持っていた湯飲みにひびが入ったことに神使様が『ヒッ!』と小さく悲鳴を上げる。
ひび割れた湯飲みから微かに薄緑のお茶がぽたぽたと零れているが、縁切り様はそのことに見向きもしていない。
うん……早まった。これはマズイ、と考えながら、手提げの中からハンカチを取り出して未だお茶を零し続ける縁切り様から湯飲みを取る。
「縁切り様、神使様が怖がっています」
「…………坂田とはそなたの神使だったと記憶しておるのだが」
「ええ、残念ながら巻き込んでしまったお方ですね」
「その者に別の気だと?そなた以外の」
「確かではありませんが、昨日少々触れる事故がありまして、その時にほんの少し違和感があったので。なんてお伝えすればいいでしょう……緩やかな川に大きな石が置かれたような感じといいますか、ちょっと違うような気もしますが、そんな感じで」
お茶で濡れてしまった縁切り様の手をハンカチで包むように拭いていれば、縁切り様が拭かれている自身の手をぼんやりと見ている。
さっきは怒り狂ってくるかと思う雰囲気だったけれども、勘違いだったようだとホッとする。
縁切り様の御着物は濡れずに無事だったし大丈夫だろう。
いつもなら何より早く縁切り様に駆け寄ってくる神使様を見れば、何故か深々と頭を何度も下げられた。
きっと縁切り様の雰囲気に腰が抜けてしまったのかもしれない、大丈夫だろうか?と思えば、それが顔にでていたみたいだ。神使様が『いやいや!私は大丈夫ですので主様をお願いします!』というようなジェスチャーをされた。神使様のお顔は鹿のお面で隠されている為表情はわからないが、体を命一杯使ったジェスチャーに相変わらず元気な方だなと思う。
「そなたの神気に触れて怒りが収まってしまってではないか……まったく、ほわほわした神気を出しおって」
「地主神様の神気はほわほわしているのですね。お爺さん、いえ、地主様らしいです」
「……いや、ほわほわはそな……まぁ、よい。その石を投げ込まれたという感覚は間違いないであろう。そなたの神使を我が物にしようとしている者が居るようだ……とんだ阿呆もおったものよ」
お茶を拭いて濡れたハンカチを手提げに戻すわけにもいかず、縁切り様から見えない位置に置いておこうとさり気なく手を動かせば、そのハンカチを縁切り様がするりと取り、控えていた神使様に渡す。
慌てて『持って帰るので大丈夫です』と言おうとすれば、縁切り様が掌を前に出し、私の言葉を止める。
「そもそも、神の物に手を出すなど阿呆かよほどの世間知らず。まぁ、相手が誰であろうとそなた相手では勝ち目はない。放っておけ、その狐耳やらも一日二日で消える。報いを受ければ反省もしよう」
反省する間があれば、だが。そう、さらりと言い、神使様が新しく用意したお茶を啜った。その言葉に、ハンカチを洗う神使様を想像して落ち込んでいた顔を上げる。
「もしかしてと思い、聞きましたが……やはりあるんですね」
坂田さんが神使になってしまった時、縁切り様が他の神様に連れて行かれないようにする為と言っていた。もし連れて行かれた場合、それ相当の何かあるのではないか思っていたが、その勘は当たってしまったらしい。
「報いか?あるに決まっておろう。まぁ、これはしようと思って報いを受けさせているわけではないのだが、知っていて当たり前というやつだ」
「その報いが無い場合もありますか?」
「やる奴がそうそう居らぬのでな、詳しくは知らぬが、持ち主の許しがあれば多少楽にはなるらしい、と言っても実際に見たわけではないのでな、正確ではない」
その身が焼けるような痛みらしいぞ、と縁切り様の口元が動く。
その話が誠か否かは縁切り様にもわからないらしいが、それを心の底から望むのなら、その痛みに耐えきれ、ということらしい。
耐えた暁にはそれを手にすることができる、そういうことなのだろう。
「縁切り様」
「なんだ?」
「持ち主というのも烏滸がましいですし、あげる、あげないの話ではありません。それに坂田さんはこのことを知りません」
「まぁ、そうよな」
「私はそのお相手の方に答えられません」
「うむ」
その耐えなければならない痛みを楽にするには私の了承を得なくてはいけないようだが、坂田さんは物でもないし、私のでもない。坂田さんは坂田さんのものだ。
相手はわからないが、坂田さんに想う何かがあるはず。
坂田さんとその相手が話し合うべき間に私が居るのはいかがなものか、と思う。
「他に方法が、もしあるのなら教えていただきたいです」
「……鈴よ」
「はい」
「人の世にも、知らなかったでは済まないことはあるであろう」
つまり、いかなる理由でも報いは受けさせるべきだと縁切り様は言いたいのだろう。神様には神様の掟があるのもわかる。犯したことにはかわりはない。ここで許せば、許されると勘違いする者も出てくる。それは人の世でも同じこと。
「困らせてしまいすみません。ですが、理由を知ってからでも遅くはないと思いませんか」
地主神様の力を利用しようと坂田さんを狙ってきたのかもしれない。はたまた、ただ坂田さんに恋をしてしまったのかもしれない、お瀬戸さんや喜助さんのケースもある。考えられる理由は沢山ある。
邪な心であったのなら、神様の掟に沿えばいい。純な心であったのなら、どうにかしてあげたい。こんなやり方ではなく。
そう言った私の言葉、縁切り様の切れ長の眼がきょとんと間抜けな形になったことに微笑めば、呆れたと言いたげに眉を下げた。
「一つよいか鈴」
「はい、なんでしょう」
「言いたくはないが私より五穀の神のほうがそなたに甘い、そなたの願いならば叶えたであろう。それをわざわざ私に頼みにきたのは何故かと思うてな」
ハァ、と珍しく溜息を吐きながら、神使様に何かを頼んでいる縁切り様の横顔を見る。
頼まれたものは積み重ねられた冊子で、それを神使様から受け取り、お茶を飲みながらぺらぺらと捲りはじめた縁切り様に『そうですね』と返す。
「とても有難いことに五穀の神様は私に健やかであれ、と。怪我なんてしたら倒れてしまいそうな顔をされますし、毎回欲しい物を聞いてくださいます」
「実際、そなたがうちで転んだ時などあ奴が真っ先に気絶したであろう。あれは笑わせてもらった。うちの神使共は悲鳴をあげたがな」
ああ、あの時の、と私も思わず苦笑いを零す。
縁切り様のところへ、五穀のお爺さんとお邪魔した際に転んでしまい、ちょっと掌と頬に傷が出来ただけだったのだが、それを見たお爺さんが、ふっ、と気を失ってしまって私も慌てた。もう起こしたくない記憶だ。
だが、縁切り様には面白かったのか、思い出して、くつくつと笑っている。その縁切り様の顔を見て、私も口元を緩める。
「問いに対する答えですが……縁切り様は私の心を優先する方だと思っているからかもしれません」
今までにもいくつかあるが、最近では坂田さんとのことだろうか。
縁を切ろうとした私に縁を切るなと言ってくれた。そのことで私と周りとの縁が薄れて孤立し、私の心が弱るのを心配してくれていた。
人にとって大切なことを、人の心を敏感に感じ取ってくれる。
今回の件で何かしらあると思い、そしてそれを止めるにはそれ相当の何かが私にもあるかもしれないと考えていた。
縁切り様は多少の傷なら笑い飛ばしてくれるお方であるし、私の気持ちを汲み取ってくれる。これが五穀のお爺さんなら、放っておけと言われるだけだっただろう。掌をちょっと傷つけただけで卒倒してしまう優しいお方だ。良い返事はもらえなかったと思うし、心配をかけたくない。
これは勝手な考えだけれども。
「五穀の神様には体を、縁切り様には心を守ってもらっている。私はそう感じています」
だから縁切り様のところに来ました。そういう言えば、縁切り様が持っていた冊子をぽろりと落とし、それを神使様が慌てて元に戻す。
「……まったく、大変なものを代理にしおって。ほれ、あったぞ。この方法ならば多少効くであろう」
「その、色々と申し訳ありません。ありがとうございます」
縁切り様に近づき、開かれた冊子を覗き込むが、昔の言い回しの為難しい。一瞬ピタリと固まってしまった私に気付いたのだろう縁切り様の『私も手伝ってやろう。大丈夫だ』という優しい声が降ってきた。
「術を組むことは決まったが、やらかした相手を知らぬ限りできぬ。うむ、影を出すか」
「いえ、そこまでしていただくわけには……あの、お手を煩わせてしまうのですがこれは使えないでしょうか?」
影とは調べもの……いわば偵察のようなことをしてくれる神使様のことだろう。私も相手が誰だかわからないが、コレがあればいけるのでは?と持ってきたものを手提げから出す。包みのような形をしたハンカチを出した私に縁切り様が首を傾げる。
「縁を辿るのはお得意と言っていたので」
ハンカチを開けば、一本の毛。
私の着物に付いていた坂田さんの尻尾の毛だ。
それを見た縁切り様が口元を緩めた。
どうやらこの手は使えるらしい。
「そなたが来てから愉快が止まらぬ」
***
ヒュー、ヒュー、と口笛に似た鳴き声が聞こえ顔を上げる。
月夜に響くその鳴き声を気味が悪いという者もいるが、その姿が美しいという者もいる。
その鳴き声から『ヌエ』とも呼ばれているトラツグミが音を立てずに縁側に降りると、黒と黄色の虎のような模様をした羽を仕舞い、ててて、と座る私に近づいた。
小さな頭を人差し指で撫でれば、つぶらな瞳を閉じで気持ちよさげにする姿を眺める。少し遠出のお使いだったけれど、疲れてはいないようだ。
「おかえりなさい。届けていただいてありがとうございます。すみませんがもう一通いいですか?」
それに返事はないが、まるで『いいよ』と言うように、羽を一度広げてくれたことに微笑みで返す。
トラツグミが帰ってきたことで書き途中になっていた手紙に視線を落とす。送る相手は坂田さんだ。
月がのぼるこの時間帯に何故手紙かというと、今の私がそこに行けないからというのもあるが、いつまでも尻尾が生え困っている坂田さんを少しでも早く安心させてあげたいからだ。
手紙に、明日の朝には消えていると思います。大変申し訳ありませんが、神楽ちゃん達には自然に治った、とそうお伝えください。
なんて書こうかと散々悩んだ末がコレだ。
まぁ、簡潔でいいんじゃないかな、と開き直る。
坂田さんもソッチ関連と言うくらいだ。
それに深く聞いてくる人でもない。
柔らかな紙に書き終えたそれを細く折り、トラツグミの足に緩く結ぶと、トラツグミが手紙の付いた片足を上げた。その姿はまるで『行ってくる!』と言っているようで、何より可愛い。
「次は稲荷神様ではなく、坂田さんに届けていただきたいのですが、場所、わかりますか?」
そう聞けば、トラツグミが首を左右に傾げたことに『地主神様の神使様なのですが』と言い直せば、『あ!わかった!』と言うように羽をバッと広げてくれた。うん、可愛い。
配達先がわたったトラツグミが、ててて、と縁側に小走りし、そのまま夜空に飛んでいく姿を見送る。
視線を部屋に戻すが、そこに普段見慣れた私の部屋はない。
私が居るのは地主神社――地主神様の御家だ。
いくら今の地主神が私であっても、地主神様の御家に泊るなどしたことはない。それが泊まらなければいけない状況になったのは、私の背中が原因だ。
いや、原因があるとすれば、それは坂田さんを狐にしようとしたお相手だろう。
坂田さんの尻尾の毛から縁を辿り、その相手に報いが現れる前に手を打てたのは良かったのだが、如何せん、相手が悪い。
「稲荷様、大丈夫かな」
私からの手紙を受け取っただろう稲荷神様を想像して思わずぽつりと零してしまう程に心配してしまう。
相手は稲荷神様の娘様だった。
稲荷神様には色々と良くしていただいている。私に恩があるからと言うが、少々世話焼きなところもあるのだろう。坂田さんが彼岸側に入り込んでしまった時に助けてくれたのも稲荷神様だ。
一族をまとめる長であるのに、稲荷神様は人の形を取らず可愛らしい狐のままいつも商人風の装いを好んでしている。人の姿は厳つくて好みではないと。こっちの姿のほうが愛らしいでございましょう?なんてころころと表情を変える豊かな方だ。私はそんな稲荷神様の傍が心地良かったりする。
縁切り様のところでお相手が稲荷神様の娘様だとわかった時、稲荷神様には伝えず話し合うつもりだったのだが、縁切り様に止められた。
それほど軽い問題ではない、と言われてしまった。
瞼を閉じれば、意識しないようにしていた背中に、じわりと熱を持っているのを感じる。
今、私の背中には地主神様の紋が大きく刻まれている。今の私の紋でもある為、そう痛くも熱くもないが、本来これを受けるはずだった娘様に行っていたらと思うと気が重い。
私は直接目にすることはできないが、確認の為に私の背中を見た縁切り様と神使様が『なんとむごい』『これが報い?地獄の間違いでは?』とドン引きしていた。
あの縁切り様がドン引きするほどのモノだ。本当に早くに手が打てて良かった。
ただ、今はまだ肩代わりした私だけに刻まれているが、坂田さんから娘様の気を抜く際、この紋が微かにだけど娘様にも渡るだろう、というのが縁切り様の予想だ。
私の背中を確認した縁切り様が親である稲荷神様にも立ち会わせろと言った。それは地主神様の紋に娘様が耐えきれるかどうかわからないからだろうか?とゾッとしたのだが、そういうことではないらしい。神のものに手を出したということ、自身の娘に起こること、そして本来受けなくてもいい私の体に紋が刻まれていること。後で知るほうが余程酷だと言われた。確かにそうなのだろうけど、わざわざ苦しむかもしれない娘の姿を見せるのはどうも気が引ける。
思い返せば思い返すほど、もう逃げ出したいと溜息を零してしまう。
稲荷神様がどういう状態で来るかわからない為、とにかく熱いお茶でも用意しておこうと腰を上げれば、廊下が軋む音が聞こえたことに『え、もう来ちゃった!』とこれから起こるであろうことに心臓の動きが早くなる。
薄暗い廊下がぎしぎし、と鳴る。
歩く者の重さを表している音に視線を向ければ、トレードマークのような流水紋を纏っていない坂田さんが大広間に入って来た。
「こんばんは〜」
「……こ、んばんは」
着流しがない、黒い上下の洋服に黒い半纏を着た坂田さんの登場に思わずぽかん……と見上げてしまう。
思考が追いついていない私をそっちのけで、坂田さんが『ご苦労さん』と近くを飛んでいたトラツグミにお礼を言っている。
「坂田……さん、どうかされましたか?」
「鈴ちゃんこそ。こんな夜に着物きっちり着ちまって、今からパーチィでも行くの?」
その問いに言葉を詰まらせると、坂田さんが大広間の畳の上にどかりと胡坐をかいたのだが、自身のお尻で尻尾を踏んづけてしまい『痛っ!っとに邪魔くせぇな』とぺいっと半纏の裾から尻尾を出している。
急な展開についていけなかったが、此処に坂田さんが居る状況はできれば避けたいと『申し訳ないのですが、明日お伺いいたしますので今日のところは』と近づけば、坂田さんが私をじっ、と見てきた。
その目を見て、坂田さんがわかっていて此処に来たことがわかる。だから尚更駄目だ。相手が稲荷神様の娘様であっても妖で、坂田さんは神使といっても人。何かあった時に守れるほど、私は力を使いなれていない。
「あの」
「尻尾触る?」
「え?いえ、大丈夫です」
「邪魔くせェけど、もふもふしてんの、コレ」
「そのようですね」
「触る?」
「い……え、大丈夫です」
コレ、と指差された先で、畳をぱたん、ぱたんと叩く尻尾を目で追いながら逸れた話に返事をする。むしろ何故そこまで尻尾を差し出してくるのかわからないと困惑していれば『まぁ、座れば?』と座布団を引っ張り出しぽんぽんと叩かれた。用意してくれているのに座らないわけにはいかない、と言われたままに座ってしまう体というか、性格を直したい。
そう、座ってしまってから反省する。まぁ、座っていてもお話しはできる、と再度坂田さんに視線を向けた瞬間、大広間の空気がぐっと揺れた。
「地主神様!!申し訳ございません!!!!」
大広間に急に現れた稲荷神様が娘様なのだろう女性の頭を畳に押し付けて土下座していた。
確かに、地主神社の大広間にお越しくださいとは書きましたが、土下座しろとは書いてないです、と素晴らしい土下座に少し引いてしまった。そして、大広間の空気がおかしいと感じたと同時に、私を腕の中に納めていた坂田さんにも驚いた。
「あ?この間の狐じゃねェか……ビックリさせんじゃねェよ、ったく。鈴ちゃんも驚いたよなぁ?」
『な?』と聞かれ、稲荷神様の登場にも驚いたが、坂田さんの反応の速さにも驚いて思わず『はい』と零してしまえば、私の頭を一撫でし、体を離してくれた。
「ひー、ふー、みー、四つだな。茶ァ用意してくるわ」
「え、いえ、私が。稲荷様とにかく頭をお上げください、あの坂田さん待っ」
「お茶っぱってあの棚だったよな。おし、銀さんが特別うめェ茶作ってきてやっから」
「申し訳ありません地主神様!!こやつは一族の恥でございます!!」
「いっ、稲荷様おやめください」
謝りながら何度も畳に頭を叩きつける稲荷神様と、あービックリした、とこぼし頭を掻きながら台所へ消えて行った坂田さんに、ああ、どうしようと内心呟く。
四つって、それ、坂田さんも数に入ってしまっている。
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第20話終わり