懐かしい歌が青春を連れ戻す
「涅三席〜、手伝いに来ましたよー」
「……早いヨ。ここに来るのは十分前でいいと言ったはずなんだがネ」
「別にいいじゃないですか。遅れて来るよりはマシでしょう」
ひやりと冷たい空気が漂う研究室。ゴポゴポと何かが泡立つ水音と、一定のリズムを刻んでいる電子音。他の研究室と変わらないはずだけど、妙にソワソワするのは――ここが他人の出入りすることがない、マユリさん個人の研究室だからか。見たこともない実験装置がいくつもあって、壁際に置かれた棚には派手な色の薬液瓶がずらりと並んでいた。……さすが、技術開発局の“副局長”。そりゃこんなご立派な個人研究室があるわけだ。
壁にかかった質素な時計は、予定時刻の十五分前を指している。……よし。我ながら完璧な十五分前行動だ。
「これ、頼まれてた資料と――あと素材のサンプルです。いくつか用意したので、あなたが良いと思うものを選んで使って下さい」
「……ホウ、ずぶの素人にしては中々いい働きじゃないか。まぁ私ならもっとマシなものを用意するがネ」
……口ではそう言いつつも、白い化粧の施された異様な指先は、試験管のひとつを選び取っていた。目元と同じ高さに試験管を掲げて、中にあるサンプルを舐めるようにじっとりと見つめている。……どこからどう見ても興味ありありって顔してますけど。相変わらず捻くれてるなぁ。
「それと、予備の実験器具と、万が一に備えての応急処置セットをいくつか。まあ涅三席には必要ないと思いますけど、止血剤とか解毒薬とか用意してあるんで、事故が起きても私のことはお気になさらず」
「私がいつそんなものを用意しろと言ったかネ? 全く、何故凡人どもは無駄を好む思考にあるのか理解に苦しむヨ」
「え、じゃあ私が怪我しても助けてくれる気があったってことですか!?」
「馬鹿かね君は! 殺されたいなら先にそう言い給えヨ!」
「嘘です嘘ですごめんなさいー!! そんな得体の知れない注射をこっちに向けないでええ!!」
カッと瞳孔の開いた不気味な眼がこっちを向いて、さすがに本能的な恐怖心が煽られる。か、顔が怖いって!! しかも、片手に構えられている注射は先端から毒々しい色の中身が一滴垂れていて、投薬されたらタダじゃ済まないとひと目で分かる。倫理観なんて欠片も残っていない彼の傍にいたらこうなることは覚悟していたけど、早すぎる! シャレにならん!!
「だ、だって! 素材の融合に失敗したら爆発するかもしれないし、そうなったら手なんて簡単に吹き飛んじゃうじゃないですか! あなたは自分の体くらい自分で縫えるでしょうけど、私は回道も使えないしそうはいかないんですよ! この研究室に私の血溜まりが出来てもいいんですか!?」
「うるさい、キーキー喚くんじゃないヨ! そもそも融合に失敗する確率なんて……――いや、待て。何故貴様がそんなことを知っているんだネ」
「っ、え? そんなこと?」
首と手を激しくブンブン横に振って必死に抵抗。それでも迫りくる脅威にじわじわと後ずさりをしていた途端――急に空気が変わる。私に向けられた脅威のうち殺気だけがピタっと消えて、真顔のまま問い掛けられた質問に思わず拍子抜けしてしまった。一体何の話だ?
「私は貴様へ融合が失敗した場合のリスクなど説明していないはずだヨ。その方が都合がいいからネ」
「な、なんでですか」
「何故って、決まっているじゃないか。貴様の役目が爆発から身を守るための“盾”に過ぎないからだヨ」
「ひ、酷い!! 私は少しでも役に立てるようにと思って必死に調べたりして準備してきたのに!!」
「……調べた? 一体何をだネ?」
「だから、今からする実験についてですよ! 過去の論文とか読んだり素材の成分調べたり! 実験方法とかおおよその結果とか予想して、何が起きてるか理解出来るように準備してきたんですぅ!」
「……何故わざわざそんな無駄なことをするんだネ? 君の凡庸な頭脳では私の実験理論など理解出来るはずないだろう」
さもそれが当然だと言わんばかりに、『何を言っているのか理解出来ない』と珍妙なものを見る目を向けてくる目の前の男。本当に不思議そうに聞いてくるあたり、彼は私が今からする実験について本気で“何ひとつ理解していない”と信じきってるんだろう。……随分舐められたものだ。
「失礼ですね、理解出来ないものを知ろうとするのが無駄だと思ってるなら大間違いですよ。少なくとも私は“何も知らないままの愚図”でいるつもりはこれっぽっちもないんで」
「……ホウ? たかが十七席風情が随分舐めた口をきいてくれるじゃないか」
「はっ、そうやって私を罵れるのも今のうちですよ。確かに、あなたに頭脳で敵う日は死ぬまで来ないでしょうけど、それでも科学者に近づく為の努力は入隊してから一日も怠ったことはない。今に文句のつけようのない完璧な助手になってやりますから。十七席舐めんなよ」
「ピーピーとよく喚く女だネ。貴様がどうしようと私には興味のない事だヨ」
「んな寂しいこと言わないで下さいよ。同じ十二番隊なんですから」
ムッとしてつい感情のままに言い返してしまったけれど、彼は本当に終始どうでもよさそうだった。しまいには「邪魔だ。退き給え」と言ってそそくさと実験準備に手を付け始める始末。――良くも悪くも、マユリさんは本当に私には興味がないんだろう。私にはっていうか、科学以外には。以前書庫で問い詰められた時に向けられた、
悍ましいものを見つけたような下劣な視線はちっとも感じなかった。
……私の事を“敵”だとは、さすがにもう思ってないのかもしれないけど。それでも、少なくともマユリさんは私が“普通ではない”ことには気が付いてるはずだ。だからまだ、もしかしたら。私を疑っていたり、隙あらば正体を暴いてやろうと思ってるかもしれない――と考えていたけど。どうやら今はもう、そこに対しての興味は無いようだった。彼にとって私はただの、有象無象の中の一人というわけだ。……正体を暴かれる可能性が無くなったのは気が楽で助かる。これで余計なことは気にせず仕事に励めるというもの。
腕をまくって、手袋をして。ブツブツと独り言を呟いて実験に取り掛かっている背中に向かって「私に出来ることがあればなんでも言ってくださいね。準備万端です!」と声を掛ければ「うるさいヨ。お前は指示があるまで黙って待つことも出来んのかネ」と冷ややかな答えが返ってきた。
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