繰り返す過ちの中で問おう
突如聞こえたその声に、ピンと張った糸のように空気が張り詰める。マユリさんは途中で言葉を止め、声のした方を向いて驚いて目を丸めていた。
「……ダメじゃないっスか、命令破っちゃ。ボク、言いましたよね? 彼女に関して“一切の干渉を許すつもりはない”と。……一体、こんな所で何してるんスか?」
「何も? ただ、重要な文献が揃う書庫へ何処の馬の骨とも知れぬこの女が立ち入ってきたものだから、副局長として要件を伺ったまでだヨ」
「……そうですか。なら、ボクが変わりに彼女へ要件を聞いておきますから、涅サンはご自分の作業に戻ってもらって大丈夫っスよ」
視界いっぱいに広がる「十二」と刻まれた背中。亜麻色の髪先が揺れ、大きな手がごく自然に、けれど明確に私を庇うように差し出される。……まるで、彼の下劣な視線から私を隠すように。
……どうして、大切な部下であるはずの彼と向かい合っているの。どうして、私を庇うように立っているの。……顔が見えないから分からない。
「……聡明な涅サンなら、これ以上説明しなくてもご理解頂けますよね」
「…………チッ」
何の感情も宿っていないような冷たい声が、しんと静まり返った室内に響く。「……全く。不愉快な男だヨ、君は」と吐き捨てた彼は、嘲るような視線を私に残して去っていった。
——まるで最後の最後まで、「お前の居場所はここじゃない」と言われているみたいで、きゅっと喉奥がつかえる。カタカタと震える手を力いっぱい握りしめて、下唇を噛んだ。
(……そんなの、私が一番よく分かってるよ)
足音が遠ざかり、物音が完全に消えても、私の胸のざわめきは消えなかった。なんで、どうして……という問いが頭の中で繰り返される。そんな中、くるりと振り返った彼は先程までの鋭さが嘘のように、いつもの困った笑みを浮かべていて——その表情に、思わず胸が詰まる。
「……いやァ、どうもスイマセン。ボクの不注意で巻き込んじゃったっスね」
「い、いえ。全然、私は別に平気ですよ」
「……」
「むしろ、誤解されるようなことをしたのは私の方なのに。助けて頂いて、ありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる。……だが、口では感謝の言葉を並べていても、頭の中では必死に彼があの会話をどこから聞いていたのか考えていた。……一体何を思って、私を背に隠したのか。今こうしてる間にも、問い詰められる覚悟をしていたのに。……彼から向けられているのはただただ優しい眼差しで、その暖かさが余計に怖くなる。
「はは、そんな他人行儀な礼はよして下さい。ボク達はもう、みんな仲間じゃないっスか!」
「……っ、」
「……彼は涅マユリサンと言って、ここの副局長を任せられるぐらいには有能なヒトなんスけど……。ただちょっと、人を人として扱えない部分があるというか……根は悪いヒトじゃないんですが、見た目もああだし吃驚したっスよね」
「……誰もいない部屋だと思って電気をつけたら、既にそこにいたんです。吃驚しすぎて本気で叫びそうになりました」
「うわぁ……想像しただけでもゾッとしますね」
「……でも、信頼してる部下なんですよね。あの人も」
「……ええ。まぁ、そうっスね。腕は買ってます」
……だったら、どうして。
そんな彼ではなく、私の方を庇ったのか。……喉まで出かかった疑問を誤魔化すように、曖昧な笑みを張り付ける。
「朝緋サンはその本を戻すために、ここへ来たんスよね?」
「はい。倉庫の整理をしていたら出て来たので、戻した方が良いかと思って。……すみません、入らない方がいい書庫だったとは気が付きませんでした」
「ああいえ、いいんスよ。アナタに入って欲しくない場所だったら、ボクが先に伝えてますから」
「……そう、ですか。……でも、すみません。ご迷惑おかけしました」
「……」
「……」
「……」
「……浦原隊長?」
「…………どうして、逃げなかったんスか?」
「……!」
「無視をするなり、走り去るなり……抵抗する方法は、いくらでもあったでしょう」
——けれど。まるで、そんなのはお見通しだとでも言うように。彼は意を決したように、言い淀んでいた言葉を口にした。
……ああ、やっぱり彼はさっきの会話を途中から聞いていたんだ。私の様子を伺うような……何かを確かめようとする彼の目線とばちりと目が合う。
「君は瀞霊廷に侵入した“異物”であり“敵”だ。私は真っ先に君を処分するべきだと言ったんだがネ」
「違います、」
「今なお君がここにいられるのは、あの男が研究対象として君に興味を持ち、好奇心を満たすために“あえて生かしている”からだヨ」
「……、」
「まぁ、仮に君が本当に敵だったとしても、君のような弱々しい生命体を殺すなど、あの男には造作もない事だがネ」
先ほど言われた言葉が耳にこびりついて離れない。頭の中で何度も、あの下劣な目線と蔑む言葉が流れている。……それは、あの冷たい雨の夜を思い出させるには十分で。私にとってはまだ真新しい記憶、今でも足が竦んで背筋が凍るほど。……だけど、それでも。
(……私が逃げなかったのは、)
「…………だって、私は、」
「……?」
「……私は、技術開発局の一員ですから。涅さんから逃げる理由なんて無いですよ」
「!」
今度はきちんと、ニコリと笑って見せた。
……あの男がどこまで本気であんな事を言ったのかは分からない。けれど、あの場で逃げ出したいとは思わなかった。ただ、目先の恐怖に屈してしまったら後悔すると——彼らの敵であると疑われたままになる方が、よっぽど怖かった。……だから、なんとしても私自身の言葉で否定したくて。とにかく必死で、逃げようとは一切思わなかった。
しかし、そうは言っても。一部始終を聞いていたであろう彼には、今の私が何を言ったって強がりにしか聞こえないのだろう。……彼の表情は先ほどの優しい顔つきから、またいつもの眉を下げた笑みに変わっていた。
——ああ、ダメだ。これ以上この人に心配をかけたくない。……というか、同情されたくない。余計な詮索もされたくないし、早く一人になろう。
そう思うや否や、私の中にこの場から立ち去りたい衝動が一気に湧いてくる。一刻も早く実行するため、自分に出来るありったけの明るい声を作り、先程よりも更に何てことのないようにへらりと笑った。
「だからもう大丈夫です!」
「……」
「お見苦しいところお見せしてすいませんでした。では、失礼しま——」
「朝緋サン」
「、はい?」
このまま立ち去ろうと一歩踏み出した瞬間、急に呼び止められ思わず前につんのめりそうになる。そんな私を他所に、彼はいつもより落ち着いた声色で「これはボクの独り言なんスけど、」と前置きをしてから、再び私に背を向けた。
「……どんなに立派な理屈を並べたって、恐怖を感じる瞬間は必ずあるんスよ。そこで逃げずに立ち向かうことは、誰にでも出来る事じゃない」
「……」
「そんな立派な勇気を持った人が仲間になってくれて、心強いっスね」
「……さて。それじゃあ戻りましょっか」と。彼は明るく声をかけて、しかし私の事は待たずにそのまま資料室から出ていった。
……そんな、あまりにも不器用で分かりやすい優しさに、どうしようもなく胸がいっぱいになる。……いいや、違う。違うよ。私は彼に優しくしてもらえるような、本来そんな立場の人間じゃない。あれはきっと、たぶん、彼なりの償いだ。『ボクの不注意で』と謝っていた、あれに対しての。隊長として私への配慮が欠けていたとか、きっとそんな小さな罪の意識から出た行動に過ぎない。——そう思えば、一連の不自然な優しさにも腑に落ちる。……けれど。そうは分かっていても、先程からずっと堪えて我慢していた想いは込み上げてくる。
(——あなたの、そういうところが、)
いとも簡単に私の世界を変えてしまうあの人が、大好きで、愛おしくて。
……だからこそ、彼にただ守られているだけの無力な自分が悔しくて悔しくてたまらなかった。
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