どうかこの指をほどいて
「……今日はあったかいなぁ」
技術開発局で一番高い建物の上。お気に入りのおひとり様スポット。――いわゆるサボり場で、ごろんと寝転がり、降り注ぐ太陽から瞳を守るように空へ手をかざす。
ひよ里さんのおかげで隊舎まで帰ってこれたものの、隊員や局員たちから向けられる「おかえりなさい、翡葉十七席!」「怪我はもう平気なんですか?」「入院したって聞いたから心配しましたよ!」――という気遣いが、ありがたいのだけど心苦しくて。適度に愛想笑いで返して、そそくさと逃げてきてしまった。
……いやまあ、怪我をしてるのは本当なんだけど。死覇装で見えてないだけで、包帯はそこら中に巻いてあるのだけど。でも、卯ノ花隊長が直々に治療してくれたおかげで、もう傷はとっくに塞がってるし痛みもほとんど無い。だから、あんなふうに一身に心配を向けられるほどじゃないのだ。「実は冤罪で投獄されてました」なんてのが広まらないように、予め“そういうことにしておいてくれた”のは、十分分かってるんだけど……。それでも、どうしてもいつも通りに過ごす気分にはなれなかった。
「……あ、いたいた」
「!」
……それなのに。
「――……へぇ、こんなところがあったんスね。自分で作った施設なのに全然知らなかった」
「……浦原、隊長」
カン、カン、と。鉄製の梯子と下駄のかち合う音が高く響いて。――風に靡く亜麻色の髪を手で押えながら、その人は真っ直ぐに、寝転がったままの私を見下ろした。
「……ここは定員一名って決まってるんですよ」
「はは、なんスかそれ。たしかにちょっと狭いですけど」
「ええ、そうなんです。狭いんです。浦原隊長が座ったらもうそれだけでいっぱいいっぱいですよ。だから、」
「いいっスよ、アナタはそこで寝転がってて。ボクはこのまま梯子に立ってますから」
「は、え、ちょ、な、なんでそうなるんですか。そ、その梯子建て付けが悪いから、き、急に崩れるかもしれませんよ!?」
「ありゃ、そりゃ大変だ。近いうちにきちんと補修しておきますね」
「い、いや、そうじゃなくて……。……あーもう、分かりましたよ! どうぞ座ってください、私帰ります」
「いやいや帰れないでしょ、その位置じゃ。ボクのこと踏み越えでもしないと梯子降りれないじゃないっスか」
「っ、知らん! 飛び降りるから別にいいで、」
――ぐうぅぅぅ。
「……」
「……はは。ほら、どら焼き持ってきたんスよ。食べるしょ?」
差し出された、甘い香りのする包み。それに私は、俯いたままコクコクと頷くことしか出来なかった。
私にどら焼きを渡した彼は、当然のように残りの梯子を登ってくる。……どうやらここに居座りたいらしい。仕方ないので、ぎゅっと端に寄って彼が座る分のスペースを作ってあげた。
「ここ、結構見晴らし良いんスね」
「ふぁい、ほーなんれふ。ひれいでひょ」
「……いいですよ、ゆっくり食べてからで」
「ゴックン。はい、そうなんです。綺麗でしょ」
「(なるほど……)」
「この建物が技局の中で一番高いんですよ。梯子の距離もうんと長いし、誰も来なくてサボるにはうってつけです」
「……サボってたんスか、ここで」
「た、たまーに……」
「はは、別に怒ったりなんてしないっスよ。ただでさえうちの席官は、十二番隊のことも技術開発局のこともやらなきゃで忙しいのに。たまにサボるくらい構わないっス」
「れもほれは、うらはあたいひょーもおなひふぁないれふか?」
「……“でもそれは、浦原隊長も同じじゃないですか”、?」
「おおー、正解。よく分かりましたね」
「ボクはいいんスよ、研究に関することは趣味みたいなもんですし。それに、のんびりしてるとひよ里サンに『空気が腑抜ける!!』ってどつかれちゃいますしね」
「それはただ単にひよ里さんがせっかちなだけでしょう。……はあ、美味しかった。ごちそうさまです」
「あ、もう一個ありますよ。食べます?」
「え、いいんですかやったー!」
「っふ。はい、どうぞ」
「わーい。いただきまーす」
まさかのワンモア。気が利くというか気前がいいというか。嬉しいサプライズである。食欲がなくてろくに食べていなかったけれど、甘いものはいつだって別腹だ。……彼が私のために持ってきてくれたというのなら、尚更。
少し動けば、肩と肩が触れ合いそうな距離。この人とこんな風に並んで何かを食べるなんて、三年前には想像もつかなかったなぁ。口に広がる上品な甘さが至高の幸せを運んで来てくれて、思わず頬が緩んだ。ああ、美味しい。
「……っふ、」
「?」
「ふ、はは……は、ははっ……!」
「な、なんですかいきなり」
「やっぱり、朝緋サンは朝緋サンだ」
「はい……?」
「……ぷ、くくっ……はは……!」
「ちょっとー。笑い過ぎなんですけどー」
「……ふふ、あーー、こんなに笑ったの久々っス」
「そうですかい」
「おかえんなさい、朝緋サン」
「……!」
「戻ってきてくれてよかった」
柔らかい声だった。眉尻を下げ、目を細めて。隣に座っているこの男は、まるで心底安心でもしたようにそう言って微笑んだ。お腹を抱えて笑っていた時の「可笑しくて仕方ない」という笑いとはまるで違い、優しくて暖かくて、嬉しそうに。
「……ひよ里さんから聞きましたよ。浦原隊長が冤罪を晴らすために尽力してくれた、って。……助けていただいて、ありがとうございました」
「いいんスよ。そんなの当たり前じゃないっスか」
「……」
「それに、ボクだけじゃないです。それこそひよ里サンだって、殺気立った霊圧で実験器具が壊れるくらいには、朝緋サンを助けようと必死になってたんスから」
「あ、はは……なんかすいません。私が弁償しときます」
「……朝緋サン」
「はい、?」
「……色々と、すいませんでした」
「……? どうしてあなたが謝るんですか。謝るべきなのは私の方でしょう」
「ずっと謝りたかったんです。あの時言ったこと、」
「?」
「……盗み聞きして、余計なこと言って、アナタのことを傷付けてしまった」
「……」
「……本当に、すいませんでした」
「……はは、やだなぁ。私は別に、あれぐらいで傷付いたりなんてしないよ」
「……」
「あなたが謝る必要はないよ」
「……」
「ほら、私ってすんごく頑固じゃないですか。だから、望みが無くても諦めきれないんですよね。あはは、本当、自分でも未練がましいよなぁって分かってるんですけど」
「……」
「だから別に、気にしないで下さい」
「……」
「……それに、私の方こそ『一人で全部片付けてやる』なんて言ったくせに、すごい迷惑かけちゃいましたし。本当に、すみませんでした」
「……」
「功績を残すどころか、技術開発局の顔に泥を塗るところだった。ごめんなさい」
「……」
「……あの、どうしたんですか。さっきからずっと黙って、」
「……」
「……浦原隊長?」
「……どうして、」
「?」
「どうして、査問の日程を早めたんスか」
ようやっと絞り出されたその言葉は、まるで分からないことが許せないとでも言うように、彼にしては珍しく素直な言い方だった。いつもの飄々とした雰囲気なんてどこにもなくて、少しだけ掠れた声で、ぽつりと。
ある一点を見ているだけだった彼がゆっくりとこちらを向き、視線が交わる。――その灰緑の瞳は、心の底から心配そうな目で私を見つめていた。いつも一手二手先を見据えている彼が、まるで必死に何かに追い付こうとするみたいに。不安を飲み込みきれない、そんな表情だった。……それに、私の方が身動きを取れなくなってしまう。
――どすん、と胸に杭を打たれたような衝撃だった。きっと、いや、間違いない。彼は、信じてくれていたのだと思う。私が、仲間の助けを切り捨てたわけじゃないのだと。朝緋サンはそんな風に仲間を扱う人じゃない。きっと査問を早めたのには何か、“そうせざるを得ない理由があった”んじゃないか。……私の身に、仲間を信じて待てなくなるような、ただならぬ出来事が起こったんじゃないかと、心配してくれているのだ。目の前のこの人は、私と言葉を交わしたこのわずかな時間で、その可能性に気が付いてこんなにも辛そうな顔をしている。私のために、私のせいで。
“――まったく、随分“上手く”取り入ったじゃないか。君の清純そうな見た目に騙された彼も、所詮はただの男だったって訳だ”
「……面子を潰されたから」
「!」
「大人しく待ってるなんて許せなかった。一秒でも早く、取り返したかった」
「……」
「すいません。ほんと、どうしようもない負けず嫌いで」
「……誰も、アナタを責めてなんていないっスよ」
「……っ」
「…………朝緋サン?」
いま、ハッキリと分かった。どうして私がこんなにもあの男の言葉が許せなかったのか。私は、あなたが色目で人を評価するような男だと侮辱されたことよりも、あなたの存在が誰かにとって都合のいいように扱われることの方が許せなかったんだ。あの夜、
藍染がしたように、間違った評価をされることが何が何でも許せなかった。――だから、私が今一番許せない相手は、自分自身なのだ。大罪人として追放され、虚として扱われてしまう彼らを私は助けることが出来ないのに。そんな彼らに冤罪から助けられてしまったことが、私は自分の中で許すことが出来ない。どうして、部外者の私が救われて、私なんかの為に辛そうな顔をしている彼が救われないんだろう。ねえ、どうして。なんでよ。こんなのどうやって受け止めればいいの。――ごめん、ごめんね。ごめんなさい、ひよ里さん、浦原隊長。
「……っ、」
「!」
息を止め、嗚咽を殺し、力いっぱい拳を握りしめる。食い千切らんばかりに唇を噛んで、必死に耐えた。ぐらぐらと揺れる視界の中で、間違ってもこれは落としちゃダメだと。心も頭も一心に指令を出していた。けれど、手にひらに食い込んだ爪の痛みも、嚙み切った下唇の痛みも、限界を迎えた視界の揺らぎを妨げるにはあまりにも頼りなかった。
ぽたん、と私の目元に集まった熱が落ちたのと、すぐ傍にいる彼がハッと息を飲んだのは同時だった。俯いたまま、抑えきれなかった感情がぼたぼたと流れ落ちていくのを止められず、死覇装がじんわりと生暖かく湿っていく。けれど、いくら涙を流そうとも、胸に広がる痛みは決して消えない。
「……朝緋サン」
「っ、」
ああ、どうして私は、この人に何もしてあげられないんだろう。どうして、何も出来ない私が救われて、不器用ながらも周りに手を差し伸べることを辞めないこの人が救われないのだろう。一人で突っ走り、面倒ごとに巻き込まれ、あまつさえまた一人で立ち向かおうとした私を、この人は一度も責めなかった。それどころか、私に知られないように画策し、戻ってきてくれてよかったと安心したように笑い、何があったのかと辛そうに心配までしてくれた。先を見据えすぎるあまりに他人から理解されにくく、自身もそれを諦めつつある孤独な彼に。私は、何をしてあげたかったんだっけ? あなたは一人じゃないんだよって、支えたかったはずだ。それなのに、私はいつもいつもこの人に助けられてばかりで、何も、何一つ、この人のためにしてあげられたことがない。私はただ無責任に、自分勝手にこの人を愛すばかりで、彼を支えられるようなひと柱には到底、届きもしていなかった。
全身を襲う罪悪感が、何度も何度も「ごめんなさい」という謝罪を吐き出そうとする。けれど、もはや謝る事すら罪に思えて、間違っても謝罪を口にしないように歯を食いしばった。――助けられぬ人を前に、助けられなくてごめんなさいなんて。そんなの、私が謝って楽になりたいだけだ。
「(……謝るよりも、やることがある、だろ)」
自らこうなることを選んだ私が、楽になるなんて許されない。受け止めきれない事実も、吐き出しそうになる謝罪も、すべて私が背負わなくてはならない。だから、瞳に溜まった熱がこれ以上落ちないように、勢いよく顔を上げた。最後の一粒が流れるのを頬で感じながら、それを拭わずに立ち上がる。――立って、まっすぐに前を見た。
「……私、もっと強くなりたい、です。……いや、なります。強く、なります」
「……」
「だから、見てて下さいよ、浦原隊長。もっと強くなって、絶対に、誰よりも強くて格好いい女になって見せますから」
笑った。笑顔を作った。すごく不格好な作り笑いだと思うけど、それでも笑った。けじめだった。もう二度と泣かない、自分のための涙は流さない。現実に打ちのめされることと、諦めることは違うから。悔しい思いなんてしないで済むように、もっともっと強くなる。――それを、この人の前で私は自分に誓おう。
「……ハハ。欲張りだなぁ、朝緋サンは」
「あはは。でも、浦原隊長ほどじゃないですよ」
「いやいや。ボクよりもよっぽど欲張りっスよ」
彼はそう言ってゆっくり立ち上がった。狭い場所にいるせいで互いの距離は近く、自然と彼を見上げる角度もいつもより高い。陽の光に照らされた亜麻色の髪が普段よりも眩しく感じるのも、きっとそのせいなんだろう。
「……でも、無茶は程々にして下さいね」
「?」
「アナタは、一人じゃないんだから」
――想う力は鉄より強い。あなたがそう言ってくれたから、私は頑張れる。戦える。愛を、貫いて生きていける。だからどうか、私があなたを見捨てる時、あなたの心が傷付かなくて済むように。これ以上、私に構わないで欲しい。眉を下げて心配するような相手には、しないで欲しい。
ぽん、と右肩へ添えられた大きくて優しい手の温もりが、私を余計に苦しめた。
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