永遠の夜を泳ぐ
お昼時。午後の予定に合わせて一度技局へ戻ってみれば……研究室の中には驚く程どんよりした空気が漂っていて。
「な、なん……なんなんだこの重苦しい空気は」
「ああ、おかえんなさい朝緋サン。……どうやら、実験に失敗してこれまでのデータが全部飛んでしまったみたいっスよ」
「あらら……ご愁傷さまです……!」
ピタッと両手を合わせて合掌。……窓辺に飾られている『名も無き花』は、きっとデータ損失を受けて落ち込んでいる彼らの“絶望”を反映してるのだろう、この場に相応しく真っ黒に染まっていた。うわぁ、ありゃ相当大変なことになってるんだろうな……。一歩足を踏み入れれば私の足からカビが生えてきそうな、とてつもなくジメジメとした暗い空気が漂っている。……いや、分かるよ。会議の直前まで頑張ってプレゼン資料作ってたら、狙ったように急にPCがフリーズしたり、うっかりバックアップごとデータ消しちゃったりね。分かる、分かるよその絶望は……。と、憐れみと同情の目を向けて研究室から立ち去ろうとすると——くい、っと袖を引かれる感覚。
「?」
「……『黒』」
「……?」
「黒は、なんの色っスか?」
……彼は椅子に座ったまま、後ろを通り過ぎようとした私の袖を左手で軽く掴んでいた。そして目線は前方にある『名も無き花』へ向けられたまま、色の意味を問いかけてくる。その様子そのものが、私には理解不能で意味不明だった。……そんなもの、私に聞かなくたってあなたなら簡単に分かるでしょうに。
「……まぁ、この状況的にも、見ての通り絶望だと思いますけど」
「……そっスか」
「……?」
彼は一言静かに呟くと、ゆっくりと視線を動かしてこちらを見上げる。……私を捉える灰緑の瞳は、いつにも増して哀愁が込められているような気がした。……けど、きっと気のせい。こうして目線を合わせて会話をするのが久しぶりだから、勝手にそう見えてるだけなんだろうな。
……今思えば、彼があの事件の顛末について私に話さなかったのも……ただ単に、互いに忙しかったからだけなんじゃないだろうか。顔を合わせてゆっくり話す機会なんてなかったよな、と。久しぶりに彼の顔を見てふとそう思ってしまった。
「……午後はどちらへ?」
「五番隊へ行って、まぁあれこれ色々してきます」
「……いやぁ〜ホント、朝緋サンは昔から働き者っスねぇ」
「まあ給料分くらいは働こうと思ってるだけで、私は別に労働そのものが好きなわけじゃないですよ。……んじゃ、失礼します」
「…………ええ。いってらっしゃい、朝緋サン」
……あれ。あの人って、あんな顔で話す人だったっけ? なんか、いつもと様子が違ったような気がするんだけど……まぁ、これも気のせいか。スタスタと廊下を歩きながら、懐から手帳を取り出して予定を確認する。……何度確認しても、そこには午後の予定は“五番隊隊舎へ”と書かれていて。……ああ、嫌だ。あそこはあまり近づきたくないのに。先程研究室に漂っていた空気とは別の、しかし重たくて暗い何かがずっしりと肩に乗っかっている気がする。
……はぁ、仕方ない。これも四席の仕事だ。頑張れ、朝緋! ——今まで散々避けてきた場所へ向かうため、両手で頬をばちんと叩いて気合を入れた。
***
「こんにちは〜! 十二番隊四席、翡葉朝緋です!」
「……」シーン
「(あれ、聞こえてなかったかな……)こ、こんにちは〜!」
意を決して乗り込んだ五番隊舎。四席になったことで以前よりも躊躇う事なく隊舎の中まで入れるようになったのをいいことに、廊下を歩きながらきょろきょろと人を探す。……が、しかし誰もいない。
ドライバーやらスパナやらがたくさん詰まった重たい工具箱が奏でるガチャガチャという音だけが、しんと静まり返った隊舎に響いている。……な、なぜ人っ子一人誰もいないんだ。てか、あのハゲも何してんだ。あんたが「蓄音機が調子悪なってしもたから直してくれへんか?」って言うから、わざわざはるばる、こんな重たい工具箱持ってきてやったのに……。ぶつくさ文句を垂れながら、真子さんには出張料金増し増しで請求してやろうかな、と思案しながら廊下を歩き進んでいた時。
——それは、唐突に訪れた。
「おや、見ない顔だね。お客さんかな?」
「——!」
バッ、と勢いよくその場から飛び退いて振り返る。
——っいま、なんで、どうやって……
「え、あ、……す、すみません」
「いいや、こちらこそすまなかったね。驚かせるつもりはなかったんだ」
……霊圧も、気配も、音も何も感じなかった。見上げた顔は、眉尻を下げて心配そうにこちらを見つめている。……それがより一層、不気味で仕方がない。
——私が会いたくなくて避けていた男。それが今、目の前にいる。しかもこの男は、完全に私の意識の外から背後へ現れた。突然背後を取られたことへの本能的恐怖から、体が勝手に飛び退いて距離を取ってしまい、後悔する。
(……っ、馬鹿、何してんだ……!)
「……ここは、今は使われていない旧隊舎なんだ。五番隊に来るのは初めてかい?」
「そ、そうだったんですね。すみません、他の隊舎に来る機会があまりなかったので」
「気にしなくていいさ。……それより、ここへは用があって来たのだろう? 誰かを探しているように見えたけど……僕で良かったら君の要件を聞くよ」
ニコリと優しそうな暖かい笑みを向ける男——藍染惣右介は、傍から見れば大層面倒見の良くて優秀な副隊長に見えているのだろう。……“だからこそ”、私が今感じているプレッシャーは凄まじく大きい。瞳の動きひとつで何かを見透かされてしまいそうで、息をすることすら躊躇ってしまう。
(……大丈夫、大丈夫だ。落ち着け、)
(いつも通りにすればいい、いつも通りに……)
「……ええと、真子さん——平子隊長のお気に入りの蓄音機が不調だそうで、修理を頼まれていまして。部屋からは持ち運べないということなので、私の方から伺った次第です」
「……生憎、平子隊長は今日一日任務で出かけてしまっていてね。一応、君の名前を伺っても?」
「も、申し遅れました。十二番隊第四席、翡葉朝緋と申します……!」
「! そうか、君が……」
「…………」
「……ああいや、すまない。——君とは確か一度、“流魂街で会っていた”ね」
「!!」
「……あれ。あの時茶屋で会った霊術院の女子生徒は……君じゃなかったかな」
「……いえ。まさかあの日の事を覚えていただけているとは思わなくて。恐縮です、藍染副隊長」
「平子隊長と随分親しそうにしていたのが印象に残っていてね。……あの時の女性が、まさか例の才女だったとは驚いた」
「もっと早く知っていたら、僕からも挨拶をしに行っていたよ」と言って差し出された右手を——躊躇いなく掴んで握手を交わした。
それはきっと、「改めてよろしく」という意味の、務めてごく普通の当たり前な挨拶だっただろう。実際、彼は「客人をこんなところで立ち話に誘う訳にもいかないからね」と言って、旧隊舎から応接室の方へ案内をしてくれた。そうして適当な世間話をしてから、本題である『資材調達管理部』としての仕事の話もして。……最後に、彼の立会いの下で隊主室へ入り、真子さんの蓄音機を修理して。……ごく普通の、副隊長と四席。周囲も、彼からも、なんの違和感も感じなかった。
——だけど。
“アレ”をただの杞憂だと思うことは、私にはどうしたって出来ない。
「なんや。オマエがこないなトコおるなんて珍しいやんけ」
「隊長のお知り合いですか?」
「ん、まぁそんなトコやなァ」
「……こ、こんにちは」
「こんにちは、霊術院の学生さん」
——数年前の、たった一度の邂逅。あの時私は、まだ霊術院の院生で。たしか、あの子の墓参りをした帰り道だったはずだ。通りかかった茶屋で休んでいた時、真子さんとすれ違って——その隣に、藍染はただ着いてきていただけ。挨拶を軽くした程度、ろくに会話も交わしちゃいない。名前だって真子さんが呼んでいただけで私が名乗ったわけじゃない。
……もしかしたら、あるいは。藍染惣右介という男が異常なまでに記憶力が良いだけだったかもしれない。その可能性だって別にゼロではない。……だけど、それでも。
——それでも、あの一瞬の出会いを覚えられていたという事実。そして完全に私の意識の外から背後を取られた不気味さが、まるで
「……っ、はあ、はあっ……!」
どこをどうやって歩いて来たのかなんて分からないまま。必死に十二番隊まで戻って来て、隊舎の門をくぐった途端——ガタガタと手も足も大きく震えて、崩れるようにして物陰に倒れ込んだ。
ずるずると力なくその場に蹲って、胸を掻き毟るようにぎゅっと抑え込んで。体全身が不安と恐怖に駆られて異常を訴えていた。破裂しそうなほど心臓は早鐘を打ち、いくら肩で息を吸い込んだって全然足りない。苦しくて苦しくて、ただ蹲ってじっと耐えることしか出来なかった。
「(だいじょうぶ、だい、じょぶ……きっと、まだ何も、気が付かれてなんかない)」
「(私は、私はただの、十二番隊四席。……なにも、ないから、)」
そう、まだ——きっとまだ、大丈夫だ。藍染だって、人の記憶を覗けるわけじゃない。私が何もしなければ、怪しまれたところで秘密に辿り着けることは絶対にない。
……背後を取られた時、まるで適性存在に対する反応のように飛び退いたのは悪手だった。けど、でも、しょうがないだろう。だってそうするように育てられたんだもん。死神として妥当だったと、そう思うしかない。何か言われたらそう言い返せばいい。
これ以上私が霊圧をガタつかせたら、もっと余計に面倒なことになる。次第に落ち着きを取り戻した心では新しい心配事を見つけていた。
(……なんで、肝心な時に限って居ないんだよ)
(いつもはあんなにお人好しお節介で厚かましいくせに、)
……いいや、ダメだ。
「——いってらっしゃい、朝緋サン」
誰にも頼っちゃ、ダメだ。
(……寂しい?)
(…………ううん。淋しい、)
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