永遠の夜を泳ぐ
——丑三つ時。論文を書き終えて背を伸ばせば、とっくに日付なんて超えていた。あれ、たしか書き始めた頃はまだ……日が昇っていたはずなんだけどな。
でも別に珍しいことじゃない。むしろ時間を忘れて作業に没頭するのはいつものこと。部下の呼びかけにもろくに応えられずに後回しにしてばかりで、怒られてしまうのも……いつものこと。
……ええと、なんだったかな。確か、今日はデータの紛失で実験が打ち止めになったから、皆早く帰ってしまったんだっけ。……それで、残っているならと戸締りを……確か、頼まれていたはずだ。
もう一度背筋を伸ばして、ゆっくり息を吐く。……どうも最近肩が凝って仕方ないな。昔はそんな事なかったはずなんだけど……あまり動いてないからかもしれない。なんでだっけ。ああ、そういえば……実戦を伴う任務はほとんど部下任せだったんだ。そうだ、きっとそのせいもあるだろうな。
集中して論文を書いた後の脳みそは、ろくに働かない。どうでもいいことをつらつらと思い浮かべながら、隊舎内の重要設備の戸締りをしていく。……この作業もいい加減手間がかかって仕方ないから、今度から自動施錠出来るシステムを造ろうかな。いやでも、そうするとまた資金が……と適当に思考しながら中央研究室を通りかかった時。
——誰もいないはずの室内に明かりが灯っていた。
……一体誰だ、明かりをつけっぱなしにしたのは。いっそのこと照明にも、人体感知で自動消灯するシステムを組み込んでしまおうか。なんて思いながら扉を開けて中へ。
……するとそこには、見覚えのある後ろ姿。
「……朝緋サン?」
「……」
しかし、呼び掛けに返事はない。
不思議に思って彼女の傍まで近づいてみれば——
「……すぅ、すぅ……」
「(……ね、寝てる……)」
中央研究室に残されている彼女の席。資材調達管理部が出来てからはここへ座る機会はぐんと減っていたけれど……机上には様々な資料や書類が散らばったまま。おそらく何か仕事をしていたのだろう。その上に上半身を突っ伏して、彼女は眠っていた。
「…………」
ゆっくりと、規則正しく上下する肩。ボクが近づいても、もう一度名前を呼んでも。彼女は起きないし、それどころかピクリとも反応しない。……それだけ深く眠ってしまっている、ということなんだろう。
……けれど、ボクは知っている。彼女がこんな風に、人目につくような場所で寝落ちするような子ではないと。周囲に対する警戒心、というよりは……律儀で礼儀正しい彼女のことだから。職場で寝落ちすることを快くは思っていないんだろう。……朝緋サン、そういうところ真面目だもんなぁ。
だから。ボクがすることは決まっている。
彼女を起こして、帰らせなきゃならない。……きっと彼女だって寝落ちしたのは本意ではないだろうし、風邪を引かれても困るし。……何より、眠っている女性を置いてボクが先に帰るというのも……それはそれでどうなんだろう、という紳士としての躊躇いがある。
——もう一度。今度はしっかり起こそう。声をかけようとして彼女の肩へ手を伸ばした時——……
「…………」
「(……いや、)」
閉ざされた瞼。長い睫毛。そして……透き通った肌に、薄く開いた唇。
普段の彼女からは想像もつかないほど……涎を垂らして無防備に眠っているその寝顔を前に、伸ばした手は宙で動きを止めた。そして心の中の、さらに内側から込み上げてくるのは……どうしようもなく『このまま寝かせてやりたい』という欲求だった。
「いつもお疲れっス、朝緋サン」
「……」
「……黙ってて、スイマセン」
目の下にうっすらと出来ている隈に……決して、疲労だけが原因ではないのだろうなと自意識過剰にも思ってしまう。……普段自分がよく徹夜をするから。一晩眠らなかった人の反応は分かりやすく、気が付きやすい。
……そもそも、誰とでも一定の距離を保って壁を作っている彼女が、こんなところで無防備に寝ていること自体がまずおかしいのだ。普段だったらきっと、気配では起きないにしろ一、二回声をかけたなら目を覚ましただろう。……そうだ、朝緋サンならきっと、起きたはずだ。
その確信があるからこそ。こうして未だに深い眠りについている彼女が、よほど疲れているのだろうというのは察するに余りある。……おそらく昨夜、夜一サンからあの事件の顛末を聞いたのだろう。彼女が一人で心を痛めているだろうことは、もう日中の様子で予想がついていた。
——いずれ、あの二人が殺されたことを知ることにはなる。けれど、それはボクの口から伝えることじゃない。そのうち、きっといつか然るべきタイミングで知ることになるだろう。……それが昨夜だったと言うだけの話。
……それでもやはり、実際に眠れない夜を過ごすほどの傷を抱えただろう彼女の姿を目の当たりにすると……どうしても隠していた事へ良心が傷んだ。
「(……さて。朝緋サンが起きるまで、帰るわけにもいかないですし……)」
「……」
「……朝緋サン。これ、借りますね」
彼女の机の上をざっと見回した時。ふいに視界に入ったのは、彼女の机の上、という場所においては不釣り合いなもの。——数冊の恋愛小説が積み上げられて放置されていた。
表紙を見て、作品名を読んで、作者を確認して。……なるほど、これが彼女の趣味ではなく彼女を育てたあの男——とある霊術院講師に贈られたものだと一目で察した。……如何せん、自分も同じ行為を何度も受けているからだ。
彼女の机のすぐ近く。仮眠用に置かれた硬いソファに腰掛けて、真新しい小説の表紙をめくる。……文学作品に興味を持った頃もあったけれど、こうした作り話を読むのはあまり好みではなかった。自分が知りたいのは正しい知識であり、その正しさとは事実が元になっていなければならない。他人が書いた絵空事など読む価値を感じていなかったのだが…………。同期のあの男がこうして他者へ恋愛小説を配っている“本当の理由”に察しがついているからか。どうしてもこれだけは邪険にすることは出来なかった。
……そうしていつしか、夢中になって文字を目で追っているうちに——意識は微睡みの中へと落ちていた。
「(……あれ、なんか……あったかい)」
意識が浮上して、ぼんやりとしたまま……掛けられている布団か何かを引っ張って被り直そうとして——はたと気がつく。
あれ、あれれ。ここで何してたんだっけ。……そもそもここはどこだ? 寝ぼけ眼を擦りながら薄く目を開くと……明らかに自室ではない景色。二、三度きょろきょろと辺りを見回して——ようやっとそこが研究室である事に気がつく。そこから脳は一気に覚醒して、自分がソファの上で本を読みながら眠ってしまったことを思い出したのだった。
「(……、そうだ。朝緋サンは……)」
そもそもここに居座ると決めた経緯。彼女の存在を思い出して慌てて体を起こす。……彼女が起きるまで待っていようと思っていたはずなのに、放ったらかしてボクまで寝てしまったらまるで意味がないじゃないか。
——しかし。彼女がいるはずの机にはもう、人影は無い。僅かな霊圧の痕跡はまだ残っているが……もう、外は明るくなり始めていた。夜明けまであの子が寝落ちしたままとは考えにくい。……きっともう、とっくに起きて帰ったんだろう。それに気が付かないぐらい熟睡してしまっていたようだ。
……まるで泡沫のように消えてしまった彼女に、もしかしてあの寝顔も自分の夢だったんじゃないかと錯覚する。そう思うと何となく力が抜けて、がっくりと肩を落としてため息を吐いた。
……けれど、そうして落とした目線の先。手元を見れば、無意識に握ったままにしていた——自分が布団だと思っていもの。それはどこからどうても、布団などではなく。寝ぼけて肩まで掛け直そうと掴んでいた、暖かみを感じていたものの正体は——……
「……朝緋サンの、だ」
見覚えのある布。手触りが良くて暖かい、これは。
——寒がりな彼女が愛用していた膝掛けに、とてもよく似ている。これが無いと寒くて仕事なんかする気にならないと、机に向かって書類整理をしている時はいつもいつも使っていた、気がする。なんとなく視界に入っていたものと、自分の体に掛けられているこれは……とてもよく似ていた。
「…………」
……どうしてだろう。何故か無性に、頭を抱えたくなった。深く長く息を吐いて肩を落とし、四肢も指先も、先程よりもがっくりと全身から力が抜けていく。例えようもないこの気持ちは、なんと呼ぶのだろう。知りたいような、知りたくないような。モヤモヤとしたまま、目線は自然と明かりを差し込み始めた窓辺に向かう。——そこにある花は、やっぱり、相も変わらず『絶望』を宿して漆黒に染まったままだった。
「……べつに、いいっスよね」
明け方。こんな時間に研修室まで来る局員はいない。ここの局員はみんな揃いも揃って夜型だ。こんな朝一から出勤してくる人なんて……それこそ、あの子ぐらいだろう。
——なら別に、いいだろうか。このままもう少し、もう一度寝たって構わないだろう。隊長である自分がこんな場所で眠っていたって、咎められる相手は誰もいない。……いいや、嘘。ひよ里サンなら飛び蹴りで起こして来そうなのが容易に想像つく。……けど、まぁ、あと一、二時間は眠ったって平気だろう。自分勝手にそう言い訳をして、もはや申し訳なさすらどこかへ置いたまま、彼女の膝掛けを当然のように肩まで被り直して横になった。
——が、当然。たちまち鼻腔へ辿り着いて離れない彼女の匂いに反射的に眉を顰める。……いや、いやいや。何考えてるんだ。気にする方が失礼だろう。頭ではそう分かっているのに、膝掛けから漂ってくる彼女の陽だまりのような匂いになんとも言えない気持ちが消えてくれない。——それでも必死に眠りにこうと、ぎゅっと目を瞑って無心になろうとした瞬間だった。
——ガチャ
「!」
「…………あぁ、起きたんですね。おはようございます、浦原隊長。もう朝ですよ」
「(……っえ、あれ、帰ったんじゃ——)」
突然扉が開いて、入ってきたのは——今しがた必死になって忘れようとしていた、朝緋サン本人だった。思わず自分の思考に後ろめたさを感じで、バクバクと心臓が嫌な鳴り方をする。——いや、別に、やましいとかそんなんじゃない。断じて、そうじゃない、けど。
「……なんですかそんな、まるで幽霊でも見るような目で。……いやまぁ、死神だから幽霊よりもタチ悪いかもしれないですけど」
「……い、いえ。ボクはてっきり、朝緋サンはもう帰ったのかと思ってたんで、」
「ああ、そういうこと」
寝起きの自分とは違って、彼女は声も立ち姿もハキハキとしている。もうとっくに前から目が覚めていたんだろうと思った。……そうして改めて状況を整理して——途端にいたたまれない気持ちになる。
「あの、朝緋サン。これ、」
「ん? あぁ、その辺に適当に置いといて下さい」
「……お気遣いありがとうございました」
「ん、どういたしましてー」
返ってくるのは素っ気ない返事ばかり。……流石に呆れられただろうか。そう思って彼女の方へもう一度目線を向ければ……何やら、書類を片手にそれらを熟読しているようだった。……あぁ、やっぱりアナタは、ここでずっと仕事してたんスね。おそらくは、ボクが寝ている間もずっと。
——そこでふと漂ってくる、磯の香りのような、いい匂い。……寝起きで空腹だからか、思わずそのまま「……なんか、いい匂いがする」と呟けば——彼女はおもむろに何かを手にして振り返った。
「たべます? 塩むすび」
「——え、」
「らいじょうぶでふよ、私がいま作ってきた、出来たてでふから(もぐもぐ)」
「……」
「……、あ、もしかして人が握ったおにぎりとか食べれない派?」
「…………いや、そんなことないっス」
「? なら、どうぞ。お腹減ってるからって作りすぎちゃったから、気にしないでいいよ」
もぐもぐと口を動かして塩むすびを頬張りながら、彼女はじっとボクを見つめてお皿を差し出している。……けれど、予想もしていなかった彼女の行動に驚いて、柄にもなく戸惑っていて。中々すぐに返事をすることが出来ない。
……なんだ。もしかして研究室に居なかったのは、帰ったんじゃなくてそれを作りに行っていただけ、とでも言うのだろうか。……いや、まあ、そうなんだろう。朝緋サンなら、きっと。寝落ちしていて、慌てて作業を進めて、お腹が減ったから朝食を用意した。……多分、たったそれだけのことなんだろう。
『いるのか、いらないのか。どっちなんだ』と。無言のまま皿を見つめるボクへ、返事を催促しているような視線を感じる。やがて一通り逡巡したのちに、最後は自身の空腹に負けて「……じゃあ、お言葉に甘えて」と皿の上に置かれた塩むすびへ手を伸ばす。……ボクが黙って考えているうちに、彼女は黙々と食べていて、最初に見た時よりも塩むすびがふたつほど皿から消えていた。……よく食べるんだな。
「……手は洗った方がいいと思いますけど」
「……え、あ、……そっスね」
伸ばした手が塩むすびに触れる前。ぼそっと彼女が呟いた一言に、すんでのところで手が止まる。……彼女の言う通りなので、特に反論もすることなく黙って手を洗いに向かった。
その間にも彼女は、いつの間にか用意したボクの湯呑へお茶を淹れて「お茶、ここに置いときますね」とさも当然と言った様子で声を掛けてきて。——その姿に思わず、これじゃあどっちが隊長か分からないな、と。彼女に世話を焼かれっぱなしの自分が情けなくて、乾いた笑みが零れる。
改めて自分の席へ座り直せば、机の上には海苔の巻かれた美味しそうな塩むすびがふたつと、湯気の立つ湯のみがひとつ。あまりにも穏やかな朝に、情けなさなど忘れて自然と頬が緩んだ。……普段よりも丁寧に両手を合わせて「いただきます」と言ってから、塩むすびを頬張る。——けれど彼女には聞こえてなかったようで、ただひたすらに書類を熟読している後ろ姿をぼんやり見つめた。
程よい塩加減に、硬くも柔らかくもない白米。おそらく炊きたのご飯で作ったのだろう塩むすびには、時間が経って少ししなびた焼き海苔が巻かれている。……なんてことのない、ごく普通の塩むすびだ。それなのに、妙に美味しく感じるのは——……きっと、普段は意地っ張りなのに涎を垂らして眠っていた、あの無防備な寝顔を見たあとだから、なんだろう。——まぁこんなこと、口が裂けても本人には……いや、誰にも言わないけど。
そうしてる間にあっという間に塩むすびを平らげて、今度は彼女にも伝わるように「ごちそうさまでした」と言えば、彼女はくるりと振り返った。それから、一瞬だけ。——返事はなく、ただあの自信満々な、得意げな笑みを浮かべてボクを見つめた。
「……浦原隊長、これ」
「はい?」
「あの人たちが吹き飛ばした研究データ、辛うじて昔の記録が残ってたので復元しときました」
「!」
「抜けてるところとか、足りないデータもあるんですけど。……ま、もう一段階前から実験やり直せば済むと思うんで」
「…………もしかして、一晩中これを……」
「いやー、徹夜するつもりは更々なかったんですけどね〜。がっつり寝落ちしてたので朝までかかっちゃいました、あはは」
「……」
「……って、そうだ。浦原隊長、私に何か用ありました?」
「え?」
「……え? 用があったからそこで寝てたんじゃないんですか?」
「…………」
「……?」
「……スイマセン、何を伝えたかったのか忘れちゃいました」
「……えぇ……」
「(……まぁ、言わなくていいでしょう)」
「……まぁ、大事なことじゃないならいいんですけど……私、今日はもう帰りますからね。久しぶりの非番なんで」
「え、ああ、はい。……どうぞ、帰ってゆっくり寝てください」
「はは、そりゃもちろん。心行くまで寝るつもりですよ」
彼女はそう言って大きなあくびをしながら、「んじゃ、お疲れ様でした〜」と言って研究室から出て行った。……徹夜明けに、さらにまた、寝落ちこそすれほぼ徹夜。相当疲れているのだろう、立ち去る彼女の後ろ姿はとてもフラフラとしていて頼りない。……どこかに躓いたりしないといいんだけど、と思った瞬間。遠くの方がドスンっと音がして「いっったぁ…………!」と言う悲痛な叫びが聞こえてきた。……無事に部屋まで帰れるか、やや心配になる。
やがて、彼女の霊圧が完全に隊舎から遠退いたあと。すっかり目が覚めたボクは、読みかけだった恋愛小説のしおりを開いて朝方の時間を潰した。そうしていつしか、徐々に局員たちが出勤してくる。早朝から研究室にいるボクのことは、みんな当たり前のように徹夜したんだろうと思っていて「お疲れ様です」と何の気なしに声をかけてくる。そして、例の件で落ち込むところまで落ち込んでいた彼らに、朝緋サンが残存していた昔の記録からデータを復旧してくれたと伝えれば——たちまち研究室内はお祭り騒ぎの祝福に包まれた。声を上げて喜び、感動し、安心して抱き合う彼ら。これで今までの努力が無駄にならなかったと、まだ実験を続けられるのだと、そういった感情で彼らの表情は満ち溢れていて。
……そんな彼らを、窓辺から見守っていたあの花は。いつの間にか姿を変えていた。全てを飲み込むような漆黒から、輝かしい『黄色』へ。
——絶望から『希望』へ、花弁の色を変えていたのだった。
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