目を瞑れば不幸なんて映らない(2)
「……ねぇ、朝緋サン」
「……はい」
頑固な女だった。昔から、出会った時から。いつだって、自分が決めたことは他人から何を言われても決して揺らがない。わがままで、減らず口で、ちっとも言うことを聞いてくれない。どうしようもない女だと、何度も思ったことはある。……それでも、そんなどうしようもなく強がりなこの女を守ってやりたいと、確かにそう思っていたのは自分だったはずなのに。
——彼女は誰かを傷付けるようなことはしない。そう信じていたのに、正体が掴めないからと疑いを捨てきれず、彼女の優しさを利用した過去の自分をぶん殴ってやりたい。ほれ見た事か、と。お前が信じきれなかった女は、疑われてることも知らぬまま、仲間を守るためならどんな痛みにも恐怖にも立ち向かい乗り越える女だったんだ。目の前で部下を亡くして動揺してしまう、普通の女なのに。それでもひよ里サンだけは守りたかったと、傷付いた自分を奮い立たせて戦える女だったんだ。——そんな女の、一体何が、どこが怪しいと言うんだ。朝緋サンがどれだけ周囲の人達を、仲間を、ボクたちを大切にしてきたのか。それを一番近くで見てきたのは他ならないボクだったはずなのに。彼女が謂れのない罪を着せられた時、誰よりもそれを強く否定したのは自分だったはずなのに。彼女が瀞霊廷に侵入した敵だったなんて、そんなことありえるはずがない。そんな簡単なことに、大馬鹿者のボクは朝緋サンが片腕を捨てるまで結局信じることが出来なかった。最後の最後まで、疑いを捨て切ることが出来なかった。朝緋サンは最初から、ボクたちを信じてずっとその身を挺して守ってくれていたのに。——それなのに、誰よりも守りたかったはずの彼女の顔を感情に任せて叩いてしまった。その全てが許せなくて、後悔なんて一言じゃ片付けられそうになくて。
「……頬、痛かったですよね。腫れてしまったでしょう」
気がついたら、彼女と目線を合わせるようにしゃがみ込んで、俯いている彼女の頬へ手を伸ばしていた。まるで壊れ物でも扱うように触れた頬は、ほんの少し冷たい。そこにはもう、ボクが叩いた痕なんてこれっぽっちも残っちゃいなかった。……そんなこと、触れて確かめなくたって分かっていたのに。ハッとしたように顔を上げた彼女は、驚いたように目を丸めた。
「……そんな顔しないでよ」
「……」
「すごい情けない顔してるよ」
「……スイマセン」
「——……大丈夫。確かに痛かったけど、もし逆の立場だったら私も同じことしてるから」
「!」
叩かれたのは彼女のはずなのに。痛みを感じたのは、彼女のはずなのに。
……それでも朝緋サンは、罪悪感に塗れたボクを心配する。ああ、そうだ。そういう女なんだ、朝緋サンは。たとえ自分が叩かれようと、叩いた人だって痛みを感じてると、当たり前の顔で心配する女なんだ。……心の底から、そんな顔をしないで欲しいと——この期に及んで、励まされたのはボクの方だった。
「……叩いてもいいですよ、ボクのこと」
「え。じゃあ、遠慮なく」
「!」
「……ふっ、はは! 嘘ですよ、冗談です」
「……」
「……私を叩いて自分を責めてる人のことなんて叩けないよ」
「……」
「それであなたの気が済むっていうなら、まぁ、考えるけど」
「……」
「……」
「……」
「……浦原隊長?」
「……叩いてもいいから、」
「?」
「ボクを気が済むまで叩いてもいいから、片腕のまま生きてくれって言ったら、」
「!」
「許してくれますか、アナタは」
「……っ」
「……」
「馬鹿じゃないの、」
「……」
「そんな顔で言われたって納得出来ないよ」
「……、」
「私が片腕のまま生きる事を許したって、それじゃあ、浦原隊長がずっと自分のことを許せなくなる」
「……っ」
「そっちの方が嫌だ」
——薄々分かっていた事だった。理解したくないだけだった。どれだけボクが立場を利用したって、あらゆる事態に備えたって……きっとボクは、朝緋サンのことを守れない。守らせてもらないんだって、薄々気がついていた。
強さを授けても、立場を与えても。朝緋サンが『守られることを受け入れない』限り、いくら手を伸ばしたって届かない。守ろうとすればするほど、彼女は霧のようにすり抜けていく。だからと言って彼女を縛って閉じ込めることは、彼女の尊厳も生き方も全て否定することになる。……そんなことは決してボクには出来ないということも含めて——ボクは朝緋サンを守れないのだ。
「……朝緋サン」
「はい」
「——弱者が敵地へ向かうこと、それは自殺と同じです」
「——!」
「アナタが本気でその生き方を貫きたいのなら、今よりも力を身に付けて、もっと強くなって下さい」
「……」
「“誰よりも強くて格好いい女”になって下さい」
「——……」
だから。守らせてもらえないなら、手を伸ばしても届かないなら。——せめて、味方で居続けたい。
頬を叩かれても、叩いたボクを心配してしまう心優しい彼女が。『みんなの願いが叶いますように』なんて、自分の為ではなくみんなの為にしか短冊へ願い事を書けない彼女が。これ以上自分を犠牲にして傷付かなくても済むように。無理して笑わなくてもいいように。——もう、頑張りすぎなくてもいいように。ただ、仲間と笑い合って、甘いものを食べて幸せを感じ続けられるようになればいい。隊長じゃなくなっても、師でなくなっても。ボクがずっと、今度こそ、味方で居続けたい。
「……」
「……じゃあ、」
「?」
「恨みっこ無しだからね」
「……」
「私の方が強くなったって、その時は恨みっこ無しだからね」
「——……」
彼女は、笑った。
片腕を失い、痩せ細り、血色の悪い顔で。
あの自信満々で得意げな笑みを浮かべて、ボクを挑発するように悪戯っぽく笑っていた。
——その瞬間、ボクの中で何かが弾けるように熱を持つ。
「……っ、」
「……浦原隊長?」
「(……いま、何を……)」
彼女の自分を呼ぶ声にハッとする。
——ボクは今、何をしようとしたんだ。
不自然に浮いた右手を誤魔化すように、頭の後ろへ当てる。わけのわからない状況に困惑しているのを悟られないように、ただ、それだけを考える。
……今、朝緋サンへ腕を伸ばして、何をするつもりだったんだ。
「……」
「……アナタが、ボクより強くなったその時は、」
「ん?」
「……きっと、人生で一番寂しい日になるでしょうね」
「……え、?」
「でも、楽しみです。もし本当にそんな日が来るなら、この隊長羽織をアナタにも譲る可能性が増えるってことっスから!」
「——……」
「ボクも、うかうかしてる場合じゃないっスね。研究ばっかりにのめり込まないで、たまには実戦にも向かわないと……本当に朝緋サンに追い越されそうだ」
「……」
力を身につけてもっと強くなれと、その言葉に対して彼女はただ頷くでもなく、自分の非を詫びるわけでもなく。——自分の方が強くなっても文句を言うなと、そう言って笑った。散々自分の判断が間違っていたとボクに否定されたのに、やっぱり彼女は、それでも最後は自分の足で立ち上がる。
……敵わないなと思った。
その歩みを止めない逞しさが、彼女の芯がどれほど強いのか、改めて突き付けられた気がした。このままじゃ本当に、ボクよりもうんと強くなってどんどん届かない場所へ行ってしまうんじゃないか。頑張りすぎて、いつか本当に自分の身を犠牲にして消えてしまうんじゃないかと。本当にそう思った。——そう思ったら、自然と手が伸びていた。彼女をこの腕に閉じ込めて、どこにも行かないでくれと縋り付きたくなった。どうしてかは分からない。分からないけど、身体の内側からはその衝動が強く湧き出た。咄嗟だった。
残った僅かな理性が働いて、すんでのところで腕を止める。黙り込んだボクを見上げる彼女を見て、抱きしめなくてよかったと、心底安堵した。……けれど、それでも、頭の中では驚くほど自然に、彼女を抱きしめるという行為がなんの違和感もなく思い浮かんだまま。
(……冷静に、話を続けなきゃ)
「——朝緋サン」
「はい」
「……左腕の再生手術は、分かってると思いますけど、かなりリスクを伴う施術です」
「——!」
「必ずまた腕が動く保証はありません。動いたとしても、元通りに腕を使えるようになるまで、どれだけ時間がかかるかも分かりません」
「……はい」
「だけど、ボクが必ず成功させますから」
「……」
「……だから、約束して下さい」
「……約束?」
「——もう二度と、生きることを絶対に諦めないと」
「!」
「……約束出来ますか」
「……、はい」
「……よかった」
「……」
「……」
「…………さい、」
「ん?」
「ごめんなさい。……裏切るようなことして、本当にごめんなさい」
「いいんスよ。ボクも、アナタを傷付けるようなことたくさん言っちゃいましたし。それでおあいこって事にしましょ。ね?」
「……っ」
「これからも、頼りにしてますよ。……アナタはボクが選んだんですから」
少し前から朝緋サンが必死に我慢していた涙は、ボクが懐から飴玉を取り出したことでついに堪えきれなくなってしまった。それでも彼女は意地を張って、これは左腕を取り戻せることに安堵した涙だと言って、飴玉を口の中へ放り込んだ。
頬には涙が
——いつまでも、守ってやりたいと思った。
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