どうか永遠に憎んで、そして忘れないで
その夜。静まり返った自室の窓辺に腰を下ろし、ぼんやりと夜空を仰いでいた。夜の帳に滲む月は十五夜にはまだ遠く、不完全な形で空に浮かんでいる。冷たい光が障子越しに差し込み、部屋の中をうっすらと照らしていた。
――俺はただ黙ってその月を眺めながら、過ぎ去ったあの日を静かに思い返す。
残暑の気配が滲む蒸し暑さと、嫌になるほど肌にまとわりつく湿度の高い空気。日中の日差しはまだ強くとも、夜になれば雲が空を覆い、ついには大粒の雨まで降ってくる。
この日は珍しく残務処理をしていて、帰路に着く頃には大きな水溜りが出来るほどの大雨が降っていた。さっさと帰って寝たかったと悪態をつきながら、隊舎に置いたままにしていた番傘を広げて、自宅に帰ろうと瀞霊廷を歩いていた時。
――ほんの僅かな、だが確かな違和感があった。何か、先程までと空気が変わったような気がする。違和感の正体を探るように当たりを見回すも、見上げる空は変わらず分厚い雲に覆われて、大粒の雨が降り注いでいる。ざあざあという雨音にかき消され、それ以外の音は聞こえない――はずだった。
ぴちゃり、と微かな水音が後方から聞こえる。先程自分が通ってきた道に、あるはずの無い感覚を覚え勢いよく振り返ると――
……得体の知れない“何か”が、そこにいた。
反射的に番傘を放り投げ、自身の斬魄刀――逆撫に手を添える。いつでも刀を抜けるように片足を半歩前に出し、その“何か”を見極めようと目を細めた。あらゆる可能性を脳内で列挙しながら、張り詰めた空気の中雨に濡れることも厭わずその場で警戒を続ける。
そうしてしばらく様子を伺っていると、それまで微動だにしなかった得体の知れない何かが、急にもぞもぞと動き始める。やはりそれが“生き物”であると認識して、逆撫を握る手に力が込められた瞬間――
焦点の定まらない双眸が、ゆっくりとこちらを捉えた。大雨のせいで濡れた髪が顔に張り付き、はっきりとは見えなかったが――それでも分かるくらい、顔立ちの綺麗な女がそこにいたのだ。
霊圧はほとんど感じられず、間違いなく死神ではない。だが、虚の霊圧とも全く異なっていた。強いて言うなら人間や尸魂界にいる魂魄と近しいが、それとは似て非なるもの。……その女はまさに、得体の知れない“人の形をした何か”だった。
そう判じた瞬間、即座に斬り伏せる事も出来た。だが、得体の知れないものに焦って斬りかかるほど、単純な思考は持ち合わせていない。周りに影響がない程度に、“
人の形をした何か”にのみ霊圧を充てる。大雨の中でも見失わないよう、冷えきった鋭い眼で『それ』を捉え、鯉口を切りながらじりじりとゆっくり近づいた。
「……何や、お前」
「……」
「……何者や、聞いてんねん」
「…………ぁ、」
自分の言葉が届いたのか、否か。焦点の定まっていなかった双眸は、やがてはっきりと俺を捉えた。その瞬間、なんの色も映していなかった『それ』の瞳は――みるみるうちに暗いものへと染っていく。
そうして、霊圧に充てられ弛緩した体に無理やり力を入れ、大雨の下で地べたに這いつくばって踏ん張りながら。『それ』はゆるゆると、けれども必死に、何度も首を横に振り続けていた。――まるで、何かを強く拒んでいるかのように。そして、蚊の鳴くような声で一言、呟いたのだ。
“違う、私は敵じゃない。誰も、傷付けたくない”
……と。
――“彼女”が震える声で紡いだその言葉に、絶望で染った瞳の奥で孤独を抱えている事に気がついてしまった。まるで――目の前で愛するものを失い、生きる希望も失ったはずなのに、自分だけがまだ生き残ってしまっている。……そんな孤独と絶望を彷彿とさせるような、とてもうら若い女がする顔ではなくて……強烈に脳裏に焼き付いた。
案の定、何故此処にいるのかと問うても、“何も覚えていないから分からない”と言う。おそらくそれは、言葉以上にとても深い意味を持つのだろう。でなければあんな顔をするはずがない。彼女にとってとても大切な“何か”を失ってこの場に居るんだろう、と……そう察するしかなかった。
だから、あの場で瞬時にこの判断が出来た自分を褒めてやりたいと、数日後の俺は心の底から思った。自隊の牢屋ではなく“得体の知れないものは得体の知れないものの中に隠す”ために、技術開発局に連れていったことを。――あの男なら、彼女が尸魂界に害を為すような危険な存在ではないと、必ず突き止めてくれるだろうと信じたことを。
生憎、頼りにしていた男――浦原喜助は任務で不在であったが。己のよく知る小煩い仲間とともに、喜助が戻るまでの間、彼女――朝緋の様子をひたすら見守った。
朝緋は、真っ直ぐで優しくて、真面目で不器用だった。自分の負担などは一切厭わず雑用を手伝い、大量の書類整理だって嫌な顔ひとつせずに淡々とこなす。毎朝誰よりも早く来ては局員たちの為に準備をしていたし、毎晩遅くまで残って片付けもしていた。しかし、それだけの事をしているのにも関わらず、彼女は何もしていないように明るく振る舞っているのだ。困っている人には自ら手を差し伸べるのに、自分は全く頼ろうとしない。誰かを庇って出来た左手の怪我ですら、痛いとも辛いとも一度も言ったことはなかった。
そんな、明らかに善性を持つ朝緋が、“実は尸魂界にとって害を為す危険な存在かもしれない”だなんて、彼女と接した事がある者なら誰も思わないだろう。それほどまでに、朝緋は社会性と協調性が高く――俺は、それがずっと引っかかっていた。
周りに対して壁を作っても、敵は作らない。それは、あらゆる出来事や人物を冷静に見極めて、自他の境界を明確に認識しているから出来る事。……記憶喪失というには、“壁を作って守りたい自分がはっきりしている”と思った。
「喜助に会うん怖いか?」
「……いえ、別に。名前を覚えているだけで、どんな方かは存じ上げておりませんし」
「ほな、喜助に会いたいか?」
「なんでそんな事聞くんですか」
「朝緋チャンは自分の事はなんにも話してくれへんからな」
「私の事を話したってつまらないでしょう」
守りたい自分、隠したいものがはっきりしているから、彼女は自分のことを語らない。――本当に何も覚えていないのであれば「自分の話をしてもつまらない」なんて答えるだろうか?
そんな小さな違和感に気がついていたからこそ、彼女が時折見せる言葉にならない寂しさに、見逃したふりをして、ただちょっかいをかけて不器用に笑い続けてあげることしかできなかった。
だから、今朝の“雨は嫌いじゃない”と語る彼女の顔が、今まで見た事がないくらい寂しさを抱えていて驚いたのだ。必死に取り繕っていた朝緋の仮面が少し剥がれた瞬間でもあり、同時にそれほどの何かが彼女の身に起きたんだろう、という事を察して。
――浦原喜助が彼女に休暇と称して気分転換をさせたかった真の理由が、おそらく“そこ”にあるんだろうと言う事も、それを自分には向いていないからと俺に押し付けた事も悟った。
流魂街に来た彼女の反応は、それまで技局で見てきたものとは違い、新鮮なものが多かった。それが、流魂街という初めての場所に来たからなのか、はたまた剥がれかけた仮面のせいなのかは分からなかったが。彼女が気負わぬように一人で行動させ、遠く離れた場所から見守る。初めて来る場所で不安に感じる事もあるだろうと思ったが、それよりも彼女は俺といる方が気を使うし疲れるだろうと踏んでのこと。――結果的にそれが、思わぬ出来事に繋がることになった。
この店通りの中で一際古く独特の魅力を放つ雑貨屋に、やはりというか、予想通り彼女は吸い込まれていった。商品を見つめる彼女の目が輝いていることを微笑ましく思いながら、店の手前から様子を見ていた時。
彼女の横顔が、ある一点を見つめている事に気がつく。そしてその横顔が、雰囲気が、視線が。およそ見た事のない、見る事もないと思っていた――朝緋の愛しいものを見つめる眼差しで。それがあまりにも美しいのに切なくて、思わずどきりと強く胸が高鳴った。
彼女にあんな顔をさせるものは一体なんなのか。知りたくもなかったが、その先に彼女の仮面の裏があると直感し、朝緋の視線の先を辿ると――それを視界に入れた瞬間、俺は無意識に店の方に走っていた。
不器用で、強がりで、必死に隠してきた彼女の本音を、俺自身が見つけてあげたいと思ってしまった。同時に、きっと自分のその感情を責めているだろう朝緋自身を、何も間違っていないと肯定してあげたかった。お前は、朝緋は、“恋をする普通の女の子”なんだと。おそらく、手に取るだけとって自分には似合わないと決めつけて、彼女があれを買うことはないだろうから。
そこまで思い至る頃には、躊躇いもなく体が勝手に動いていて。彼女の手にしていた髪紐を奪い、既に束ねられた髪の上に括り付けてやる。
――悔しいけれど、それがすごく、心の底から似合っていると思った。負け惜しみも言えないくらい、最初から朝緋のために作られたんだと思えるくらい、似合っていて。まるで彼女に相応しいのは、最初に見つけた自分ではなくあの男なんだと言われているようだった。
……それがどうしても、無性に許せなくて、情けなくて、悔しくて。だから、この先に立ち入るのはもう最後にしようと、身勝手にも彼女に鏡を贈りつけたのだ。
そうして、甘味処で幸せそうに餡蜜を頬張る朝緋を見て確信する。この子はどこにでもいる、普通の女の子だったんだと。何も特別でなくて、自分を取り繕うことで精一杯なのに。それでも誰かを想ってしまう、そんな痛いほど普通の存在だったんだと。
――俺が護廷の名の下に斬りつけようとしていたのは、そういう「たった一人の誰か」だったんだと。
「わた、しは……ちがう。敵じゃ、ない」
彼女が譫言のように繰り返していた自己否定のような言葉は、あれは、俺に向けられていたのか。俺があの時、逆撫の鯉口を切りながら、見下ろしていたから。
「……ほなら、何でこんなとこおんねん」
「……っ、何も、覚えてなくて、」
「えらい都合のええ言い訳やな」
「ごめん、なさい」
それなのに、何故。
「それでもあの日、私を拾ってくれた事はきちんと感謝してます」
「ありがとうございました。お陰様で、命拾いしました」
あの時、確かに彼女の出方次第では斬ろうとしていた。しかし、彼女の双眸に隠された孤独を拾い上げて、刀から手を離したのもまた、他ならぬ俺自身。だが、“斬らなかったこと”は決して“斬ろうとした事実”を、無かった事に出来る訳じゃない。
――その事に気が付いた瞬間、全身から血の気が引いた。息が、出来なくなった。
気付くには遅すぎた。正しさと引き換えに、俺はきっと、彼女から何か取り返しのつかないものを奪ってしまったんじゃないか。彼女があの時感じていた絶望の正体を知りたくなくて、思い切り胸を掻きむしりたくなった。
しかし、彼女を『普通の女の子』だと思っていたのは、どうやら俺だけだったようで。朝緋は首がとれそうなほど横に振ってそれを否定したかと思えば、あの時のように寂しげな顔で『普通の女の子のままがよかった』と口にした。……そこで俺はまた、彼女を傷つけたのだと知る。
何を馬鹿げた事を考えてたんだ、俺は。自分であんな事をしておいて、彼女が普通で居られるはずがないだろう。自分の思考の甘さに吐きそうだった。
――けれど、それでも朝緋は。俺が謝るよりも先にその傷すら飲み込んで、笑った。痛々しくて見ていられないくらい、酷く泣きそうな顔で。
「――普通の女の子じゃ、あの人は遠すぎる」
まるで、この恋に全てを捧げようとする彼女を、一体誰が。
――救えない。救えるなんて、傲慢にも程がある。
「……ほんまに、ナンギなやっちゃなァ」
俺に出来るのは、精々彼女の幸せを願い味方でいることだけ。勝手に拾い上げた本心を、どこまでも肯定してやることだ。
――どうか、いつかは彼女の想いが報われますように、と。満ち欠けの中途半端な月と、夜空に散る星々に祈った。
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