溜息の隙間に海を見る
技術開発局の朝は、静かだ。局員の大半は遅く来て遅く帰る夜型ばかりで、朝一番のこの時間帯にいるのは、掃除の当番か、私くらい。あとは、徹夜している局員達が、仮眠室や個人の研究室にちらほら残ってたりする。
だから、私の朝は昨日の後片付けから始まる。床に散らばった資料を一つにまとめて、脱ぎ捨てられた白衣を回収し、洗い場に放置された器具たちを丁寧に洗って乾かす。それから、局内にいくつもある実験室や研究室をそれぞれ巡回して、換気のために窓を開ける――というのが毎朝のルーティンだ。
「……焦げ臭い。なんか燃えたな」
私は少し、鼻が利く。いや、正確には――ただ匂いに過敏なだけ。
「鼻が利く」なんて言えば聞こえはいいけれど、実際のところはメリットよりも、圧倒的にデメリットのほうが多い。慣れてしまった今でこそ平気だけれど、技術開発局に来たばかりの頃は、強烈な薬品の匂いで毎日頭痛と戦っていた。
だから、こうして毎朝換気して回るのはある意味では自分のためでもある。こうして焦げ臭さを感じることは稀によくあるし、その度に燃えカスや煤の痕を見つけてさりげなく片づけている。彼らにとっては何かが燃えるくらい日常茶飯事かもしれないが、立派なインシデントだ。コンプラはどうなってんだここは、と思わず突っ込みたくなる。
そうこうしているうちに、朝に強い局員たちが出勤してくる。徹夜組と合流して、夜通しの実験について議論を繰り広げている傍らで、私は一人黙々と作業をする。朝起きて用意したおにぎりを頬張りながら、頼まれていた資料をに目を通し、必要なデータを入力していく。
――始業前に朝ごはんを食べながら数字とにらめっこする。かつて居た現実世界と同じで、私はこの時間が好きだった。これだけは、世界が変わっても私の変わらない部分なのかなと、思えてしまって。
(あれ、つまり世界が変わっても社畜……ってこと?うわ、ちょっと嫌だな……)
一度手を止めて、大きく息を吸って伸びをする。あの頃は、なんの目標も無いままただ明日を生きるために精一杯だったけれど。こうして、技術開発局の局員としてあの人を支える小さな柱になれるなら……たとえ仕事漬けの人生でも、それはそれで案外悪くないかもなと、ふっと口元が緩んだ。
***
「朝緋サーン!」
「はーい?」
「……今、いいっスか?」
時刻は正午を少し過ぎた頃。午前の作業を終え、自席がある研究室へと戻ってきたところで、喜助さんに声をかけられる。振り返ると、彼は片手に何かを携えたまま、こちらに視線を向けていた。……よく見るとその手には救急箱が握られており、あぁ、なるほど。左手の火傷の治り具合でも確認したいのだろう、と納得する。
喜助さんの後を着いていく形で局長室へ入り、用意された椅子に腰掛ける。実験などは更に奥の部屋で行っているのか、ここは薬品等の匂いはしない。この部屋に入ることは滅多にないけれど、薄暗くてどこか古い紙のような匂いがするからか、図書館のように落ち着く空間で居心地がよかった。
「どうっスか?治り具合は」
「頂いた薬のおかげで絶好調ですよ。だいぶ良くなりました」
するすると包帯を解いていき、傷痕を見せる。赤みはかなり引いていて、新しい皮膚が作られ傷痕そのものも小さくなってきていた。流石、喜助さんが作った新薬とあって、指示通り一日二回の塗布を続けていたら数日でかなり良くなった。
「お、ホントだ。しっかり治ってきてるっスね」
「一日二回塗るだけでこんなに早く治るなんて、すごいですよ」
「いやぁ、そんな事ないっスよ。……本当なら一日で治してあげたかったんスけど、」
「……?」
「朝緋サン、渡した薬、今持ってます?」
「あ、はい。……どうぞ」
懐から小瓶を取り出して手渡すと、「少し待ってて下さいね」と言い残して、喜助さんは奥の部屋へと姿を消した。
――待つことほんの数分、喜助さんは先程と同じ小瓶を手にして戻ってきた。「お待たせしちゃってスイマセン」と言いつつ差し出されたそれは、一見何も変わらないようだったけど、中身の軟膏の色が少し変わっているような気がした。
「傷の治り具合に合わせて、軟膏を調薬してきました。今度は一日一回で大丈夫っスよ」
「……いま、この短時間で作ってこられたんですか?」
「ええ、まあ、そうっスけど……」
「こんなあっという間に用意出来るなんて……さすが浦原隊長ですね」
「いやぁ、配合を変えるだけなんでそんな大した作業じゃないっスよ」
大したことないと言うけれど。末端局員の私からしたら、それがどれだけの技術力なのかは想像つかないが、おいそれと簡単に出来ることじゃないというのは分かる。……だからこそ、それをサラッとやってのけるこの人は、周囲から敬愛されているのだろう。
「無茶は禁物っスけど、軽作業の範囲ならもう左手は使っても大丈夫っスよ」
「!本当ですか、よかった」
「じきに包帯も必要なくなるかと思いますけど……そこはお任せします」
喜助さんはそう言って、以前と同様に傷痕の手当を済ませて包帯を巻いてくれる。丁寧に重なっていくそれを眺めながら、沈黙を埋めるように、わざとらしく「あぁ、そういえば、」と口を開いた。
「浦原隊長、今日がなんの日かご存知ですか?」
「?今日っスか?……なんかありましたっけ?」
「今夜は満月。中秋の名月だそうですよ」
「……そういえば、そんな時期でしたねぇ」
「はい。――そういうわけなんで、お月見しませんか?技局の皆さんと一緒に」
「……!」
私の言葉に、喜助さんは一瞬手を止め、こちらに目を向ける。まるで、まったく予期していなかった言葉に戸惑っているかのように言葉を失った彼を前に、私はそのまま続けた。
「必要なものは私が準備しておきます。……みんな、普段はデータとかサンプルとかばっかり見てるでしょう?たまには月でも眺めてのんびりする時間があっても、いいんじゃないかな〜って思って」
「……いいっスね、お月見。今日は雲も少なそうだし、いい月が眺められそうっス」
「ふふ、そうでしょう?……浦原隊長も、お仕事の区切りがつきそうだったら是非、お待ちしてますね」
「手当、どうもありがとうございました」と一言礼を告げ、局長室をあとにする。お月見の許可も取れたし、左手もようやく自由に動かせるようになった。
よし、と気持ちを切り替えて歩き出す。まずは残った仕事を片付けて、明日に支障が出ないようにしておかなければ。準備は、それからだ。
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