月に花、あなたに私


 酒盛りをせずのんびり月見を楽しんでる人たちへ、一通りお茶を淹れまわったあと。ぐるりと辺りを見渡して、ある一点で視線が止まる。
 縁側に面した室内の一角。闇へ紛れるようにして、静かに書物を繙く影がある。手元の湯呑みは、空になっているようだった。――もし踏み出すなら、今だ、きっと。
 
 まるで、こちらに馴れ合うつもりはない、と言わんばかりの距離感を纏ったその人の元へ、私は意を決して足を踏み入れた。


「……涅さん」
「……何かネ」
「湯のみ、空いてるみたいなので。お茶のおかわり、いかがですか?」


 室内に一人座している人物、涅マユリ。――私の正体に近づきつつある、最も避けるべき相手。


「……何の真似だ。過去の出来事を忘れたとは言わせないヨ」
「もちろん覚えてます。……でも、だからって私がいつまでも無視するのは違うと思って」


 書庫での一件を忘れたわけじゃない。忘れられる、わけが無い。トラウマを掘り返され、上書きされ、追い詰められて。
 でも、そのままじゃダメだと思った。マユリと関わらないままでいたら、私はきっと、一生この人に自分の存在や目的を誤解されたままになる。そんなのはごめんだ。


「不愉快だ。今すぐどこかへ消えてくれないかネ」
「何故ですか。あなたから私に干渉出来なくても、その逆は問題ないはずです」


 あの時確かに、私を庇ってくれた喜助さんは、マユリに対して"私には一切干渉するな"と命令していた。でもそれはつまり、裏を返せば、私がマユリに近づくのは妨げられていないという事だ。
 ――状況は奇しくも、あの時と似ている。室内に、二人きり。私は、急須を持つ手に思わず力を込めた。

 
「一体どんな根拠があってそんなことを口にしているのかは知らないが、君のその行為は君だけの問題じゃあない。分からないのかネ?先程からヤツがずっとこちらを見ているのが」
「――え、」


 マユリに促されて振り返ると、そこには遠くからこちらでもはっきりとわかる、こちらを見据えている喜助さんの眼差しがあった。


「こんな所で油を売るより、君はもっと自分自身に目を向けるべきだと思うがネ」
「…………」


 マユリはそれだけ言い残して立ち去った。


「(自分自身に、ねぇ……)」


 急須を元の位置に戻して、ふぅと息を吐く。再び縁側に腰を下ろして、両手を後ろについて体重を預けながら、まん丸の月を見上げた。
 ……確かに、私は自分のことをよく知らない。知ろうとも、していないのかもしれない。

 私には、本当に記憶が抜けてるところがある。それは、突然瀞霊廷に現れたあの時、いや、あの日のこと。この世界に来るまでの、現実世界での一日の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。
 それを取り戻そうと思ったことは、一度もなかった。自分の身に起きた不可思議な出来事を受け入れたものの、それが何故起きたのか突き止めようと思ったことも、一度もなかった。

(――未知を探求しない、だなんて)


「科学者失格だなぁ」
「……何がっスか?」
「……こんばんわ、浦原隊長」
「こんばんわ、朝緋サン。準備、お疲れ様っス」
「いえいえ。私がやりたくて始めたことですから」


 ぼんやりと月を眺めていた視線を、声の聞こえた方へ動かす。湯気の立つ湯呑みを持った喜助さんが、覗き見るように私を見下ろしていて。不思議なものを見るような、心配するような、よく分からない表情だった。
 喜助さんはそのまま何も言わず、私の隣に腰を下ろした。何を話せばいいのか分からなくて、私は口を閉ざしたまま、遠くから聞こえる酒盛り達の喧騒だけを耳に入れる。そうしてお互い黙ったまま、ただ静かに、月を見上げていた。
 

「……ありがとうございます、朝緋サン」


 ――どれくらいそうしていたか分からない。湯呑みを両手に握って月を見上げていた喜助さんが、徐にぽつりと小さく呟いた。

 
「?何がですか?」
「……ここんところ、ずっと技術開発局を軌道に乗せるために走ってきたんで……こうして皆さんとゆっくり過ごすなんて、考えたことも無くて」
「……」
「たまには休む事も大事だなぁって気がついたと言いますか……これからはウチでも、こうして皆で季節行事を楽しむようにしていこうかなと、思ったんスよ」


 へらり。月明かりを背負いながら、いつものように眉を下げた笑みを浮かべ、喜助さんはそう言った。言葉は前向きなのに、その裏に滲み出た僅かな寂しさが、私の心に薄氷のように突き刺さる。


「一つ、聞いてもいいですか?」
「はぁい?なんスか?」
「技術開発局が出来てから……どれくらい経つんでしょうか」
「……んー、もう一年くらい経ったっスかねぇ」
「――……」
「まだまだ研究棟も未完成ですし、人手も足りてないんスけど……最近やっと、形になってきたってところっスかねぇ」


 彼が十二番隊隊長になって技術開発局を創設してから、藍染の謀略により現世へ追われるまで。隊長を務めていたのはたったの九年間だ。――つまり、今、残されている時間は……


「(あと……八年、か)」
「朝緋サン?どうかしたっスか?」
「ああ、いえ。……創設から一年しか経ってないなんて思えないなって、感動しちゃって」
「……?」
「たしかに、研究棟は出来たばかりの綺麗さがあるなぁ、とは思ってたんです。それでも、全ての部屋を回って掃除しようと思ったら一日じゃとても終わらないくらい広いですし、皆さん当たり前に各々研究に没頭されてるじゃないですか」
「優秀な技術者の方たちばかりっスからねぇ」
「技局は新しい組織なんだろうとは思ってました。でもまさか、一年前に出来たばかりなんて……そんな風に思えないくらい、完成されてるなって。……新参者の私が言うのも、あれですけど」
「……」


 じっと私の顔を見て話を聞いてくれていた喜助さんは、私が口を閉ざすと小さく笑ってから、丸い月を仰いだ。その横顔は、どことなく誇らしげで。彼の月光を見据える瞳には、自信と希望が映っていて、私はぎゅうっと胸が締め付けられる。


「これからすごいものたっくさん作って、そこら中に技局の技術が詰まった世界になって、四十六室にもでかい顔できるくらい、大きくしていきましょ!私、そのためならどんな作業でもやりますし、毎日だって徹夜出来ますから」
「……さすがに四十六室には敵わないっスよぉ、ボク怒られちゃいます」
「それじゃ、心の中でだけ、でかい顔しときましょ。それなら平気です」
「ふっ――でも、そうっスね。そこら中にボクらが作った技術が詰まってる世界は、見てみたいっスね」
「(――ああ、ごめんさない、)」

 
 それは、叶わないんです。――私が自ら、叶うことを選ばなかった、夢なんです。これは、私がこの世界に来て初めて抱いた、後悔と戒め、咎そのもの。
 私はこんなにも尊くて平和な日常を、彼が何よりも大切に守ろうとしている誇りに、手を差し伸べられない。過去を変えてしまった先に、愛しい人の命の保証が出来ないから。私がこの世界に来たという、どうしようもないイレギュラーが既に起きてしまっている以上、私の知る未来が変わらない保証なんてどこにもない。私がここに来たせいで彼が死んでしまうなんて、絶対に許せない。あっては、ならない。

 ――夢なんて、元来叶うはずないんだ。叶わない可能性があると分かっているから、夢を語る。叶えられることならば、それは目標というものだ。……そんな、およそ夢など語る必要も無い、大抵のことを実現可能にしてしまうこの人の前で夢を語るなんて。そんな人でも、叶えられない事を語るなんて……なんて、惨めで残酷なんだろう。


「おーーい、朝緋チャーン」
「わ、真子さんが呼んでる。なんだろ」
「平子サン、いつの間にか徳利持ってるっスよ」
「……うわ、ほんとだ。絶対ろくな用事じゃないな」


 前方から聞こえた呼び声に顔を向けると、曲がり角の先、縁側の陰に、月明かりに金髪を揺らしながら手を振る真子さんの姿があった。喜助さんの言う通りに、もう片方の手には徳利が握られていて、あからさまに大した用事じゃなさそうなのが伺える。
 はぁ、とため息をつきながら立ち上がり、隣に座る喜助さんにぺこりと一礼する。


「それじゃあ、失礼します。浦原隊長も、どうぞ気の済むまで楽しんでくださいね」
「はい……ありがとうございます、朝緋サン」


 喜助さんが返してくれた会釈を見届けてから、くるりと踵を返して前を向く。真子さんは人集りから少し離れた場所で一人で呑んでいるようで、喧騒から遠ざかるように、彼に近づく度に賑やかな声は小さくなる。代わりに、鈴虫の音だけが鮮やかに響くような、風の通り抜ける静謐な空間がそこにはあった。
 

「もう、なんなんですか。こんな遠くからわざわざ呼びつけて」
「せっかくの月見なんやし、一杯くらいええやん。付き合うてや」


 真子さんは縁側の奥、壁にもたれて座っていた。足を伸ばし、片膝を立てた姿勢のまま、横に置かれた半月盆から新しいお猪口を取り上げて、私に見せつけるように掲げてくる。

 
「はぁ?お酌させるために呼んだんですか?私暇じゃないってさっき――」
「ええから、こっち座り」


 声色は普段通りなのに、有無を言わせない圧のある言葉。そして言葉通りに、真子さんはやや強引に私の手を掴んで引き寄せ、すとんと隣に座らせてくる。
 「ちょっと、何するんですか」と。彼の強引な行動が理解出来ず、そうまでして付き合わせたいのかと文句を言おうとしたが――それは言葉にならなかった。

 
「泣きそうな顔しとるで、自分」
「――!」
「安心し、喜助は気ィついとらん」
「……」


 ――たったそれだけの言葉なのに。
 私の中に渦巻いていた感情を奪うには、十分すぎる言葉だった。


- 22 -


戻る  |  次へ


表紙

TOP