月に花、あなたに私
真子さんはそれきり何も言わず、ただ静かに月見酒を嗜んでいる。……そう、まさに空気は最悪だ。重すぎて、夜空にぽっかり浮かんでいるあの満月でさえ、落とせてしまうんじゃないかと思うぐらい。月を落とせる程の重力なんて、半端じゃあない。でもそれくらい、私と真子さんの間に流れる空気は重い。
最も、それを気にしているのは私だけだと言わんばかりに、ただただ静かに、徳利から冷酒を注いでは酒を煽るこの男が、今は心底憎らしかった。
「……」
「……月が綺麗やなァ、朝緋チャン」
先に沈黙を破ったのは真子さんだった。持っていたお猪口を半月盆に置いて、取って付けたように月を――中秋の名月を、眺めている。
「……急になんですか、口説いてるつもりですか?」
「さァ、どやろなぁ。朝緋チャンはどっちやと思う?」
「どっちでもいいです。興味ないんで」
「釣れないやっちゃなァ」
「……」
「……」
会話はそれ以上続かず、否、続けてはくれない。再び沈黙が私たちの間を流れていき、またこれか……と。膝を抱きかかえるようにして座り、顔は俯いて伏せ、ぎゅっと裾を握りしめる。
お酌なんて誰がしてやるか、と。この場にいるのが嫌になって、小さく蹲るように、縮こまって無言の間を耐え凌いだ。
そうしてるうちに、次第に怒りにも似たものがふつふつと湧き上がってきた。呼び出したのはこの人なのに、なぜ話しかけもせず、私が気まずい無言の空気に耐えなきゃならないのか。今日こそは我慢するもんかと、不貞腐れたまま隣の男に不満をぶつけることにした。
「……なんなんですか。本当に」
「んー?なんやァ?」
「……いつもいつも、そうやって。見て欲しくないもの勝手に見つけて、拾うだけ拾って何も言ってくれないじゃないですか」
「……」
私が不満をこぼしても、この男は対して顔色を変えずに聞いていて。その態度が余計に納得いかなくて、問い詰める声に少しだけ力が入る。
「なんで何も言わないんですか。どうして何も聞かないんですか」
「聞いたって答えへんくせによぉ言うわ」
「……、それは、」
しかし、返ってきたのは予想外の反応だった。どうせ問い詰めたって、のらりくらり躱されて何も答えないんだろう。――そう、思っていたのに。
不貞腐れたとは違う、呆れたような、吐き捨てるようなその言葉に、私は思わず面食らって口篭る。
「わがまま言うたらアカンで。自分のことなァんも語らんのに、しんどい時だけ話聞いてください〜なんて」
「……っ」
「俺かて、聞いたら話してくれる子にこないな気の使い方せえへんわ」
「……」
「朝緋チャンがなんも話さへんから、話さんで済むようなやり方で助けたってるんやで」
「……べつに、」
「『別に、助けて欲しいなんて言ってない』、やろ?」
「……」
真正面から正論をぶつけられ、思考を読まれて図星を突かれ、ぐうの音も出ずに押し黙る。普段の冗談の掛け合いからは想像もつかないくらい、空気が重たい。自分の幼稚さを突きつけられて、耳を塞ぎたくなる。
――縁側に差し込む月光は、空間を切り裂くコントラストのように、隣にいる真子さんだけを照らす。影に呑み込まれている私はその眩しさに耐えられず、再び蹲るように俯いた。
「そうやって閉じこもっとるうちは、なんも聞かへんよ」
「……」
「……見捨ても、せえへんけどな」
ぐしゃぐしゃと、乱雑な手つきで真子さんが私の頭を撫でる。ゆらゆらと体まで動いてしまうくらい、強い力で。
私は俯いたまま、乱れた髪の毛を気にもせず思考を巡らせた。考えたくないことを、必死に考えた。この場での正解は、きっとこうして俯いて黙ったまま、時が過ぎるのを待つことじゃない。謝罪を伝えて、この場から立ち去ることでも、ない。
――はぁ、と一つ。小さくため息をつく。
俯いていた顔を上げ、無心で乱れた髪の毛を手櫛で直した後、私は真子さんの手から徳利を奪ってお猪口に冷酒を注ぎ、勢いよくガッと飲み干した。
「――!」
「……うぅ、おいしくない」
「……飲まれへんのやったら無理せんでええわ、アホ」
「お酒は飲めますよ。ただ、子供なんで甘いお酒しか飲めないんです」
「……ほな、次は果汁酒でも用意しとくわ」
「そうですね、そうしてください」
ふぅー、と息を吐くと、鼻に抜ける独特な匂い。普段呑むものよりも圧倒的に強いそれに、思わず眉間に皺が寄る。
抱えていた膝を伸ばし、後ろ手をついて全身の体重を後方にかける。自然と目線が上を向き、軒の下から見える満月と目が合う。そこで初めて、準備を終えて裏庭に戻ってきた時よりも、随分と高い位置まで月が動いている事に気がついた。
遠くの方で酒盛りに興じている人集りの中に、潰れて寝そべっている人達がちらほら出始めている。そんな様子とは裏腹に、私はぽつりと、自嘲混じりに呟いた。
「惨めだと思いませんか。自己満足で選んだ道なのに、選ばなかった方に夢を見るのは」
「……」
「覚悟は決まってます。どうしても貫きたいと思ったから、選ぶ方は最初から決まってました」
「ほなら、自信持ったらええやん」
「……ダメなんです、あの人の傍にいると。覚悟が揺らいでしまう。……自分のした選択に、自信が持てなくなる」
「……」
「どうしたらなれますか。……真子さんみたいな、芯の強い人に」
じっ、と隣に座る真子さんを見る。ここに来て一度も交わらなかった視線が、一瞬だけかち合う。すると、真子さんはハァ、とため息をこぼして前を向き「アホか、」と呟いた。
「そんなん、なろうと思てなるもんちゃうやろ」
「……じゃあ、どうしたら」
「乗り越えてくねん、一個ずつ。自分の選択に迷って、後悔して、それでも進まなしゃァない。そうやって、何個も何個も乗り越えてくうちに、なれるんやろ。芯の強いモンに」
「……真子さんも、そうしてきたんですか」
「まァ、そら、伊達に隊長やってきとらんからな」
「……じゃあ、やっぱりあるんじゃないですか。死神になってから、後悔したこと」
あれは、そう。もうずっと前のこと。私が技術開発局に来たばかりの頃の話。
「ずっと聞いてみたかった事があるんですけど」
「なんや、いきなり」
「真子さんって、死神になったことを後悔したことありますか?」
「なんやそれ、アホらしい質問やな。後悔なんてした事あるわけないやろ」
「へぇ。真子さんって芯の強い方なんですね」
「あったりまえや、オレは隊長やぞ、隊長。上に立つモンがブレブレやったら嫌やろ」
「いつの話しとんねん、めっちゃ前やろ、その話したん」
「そうですかね、まだ一ヶ月ちょっとしか経ってないと思いますけど」
「……そら、出会ったばっかやったら、カッコつけよう思うやん」
「……うわぁ」
「それになぁ、喜助やって言うとったで。『迷いや後悔のない人生なんて無い』……って」
「……、なんで、その話、」
「自分が選んだ答えに自信なくなって、もう一つの道に夢を見るんは、自分のした選択をそれだけ重く受け止めてるっちゅう事やろ」
「……」
「それを朝緋チャン自身が惨めに思うことはあっても、周りは絶対にそうは思わへんよ。それがどんだけ苦しいことか、みんなよぉ分かっとるからな」
それは、きっと今までそうして歩んできたであろう、強い意志を宿した目だった。ただ真っ直ぐに、芯の強さをぶつけられているような双眸に耐えきれなくて、私は真子さんから目を逸らす。
――選択の重み、か。今の私にはまだ、受け止めきれないんだろう。彼の命を守るために、彼の誇りに手を差しのべず、黙って傷つくのを見ていることが。それでも、この世界で生きたいと願うなら、彼の背に寄り添いたいと願うのなら。強くなって、受け止めなきゃいけないんだ。
「真子さんって、たまぁにいい事言いますよね。お酒入ってるからですか?」
「アホ、こんなん呑んどるうちに入らんわ」
「んじゃ、素面でかっこつけてたんだ。へえ、」
「……朝緋チャンこそ、顔真っ赤やで。水持ってきたろか」
「結構です、自分で飲んできます」
言われてみれば、顔が火照っている気がする。けれど別に、酔っているわけではない。私は呑んだら顔にすぐ出るタイプ、ただそれだけだ。
体重を支えていた後ろ手を、再び膝を抱えるようにしてぎゅ、っと腕を組む。組んだ腕に顎を乗せて、縁側の木目を見つめながら小さな声で洩らした。
「……寄り添って、いきたいんです」
「……」
「……あの人の、背中。いつも寂しそうだから」
「……そーか」
「頑張れとか、そういうの言ってくれないんですか」
「言われへんよ。……そない簡単に、頑張れ言うていいことちゃうからな」
「……真子さんが真面目だと調子狂う」
「俺のせいみたいにいいなや。朝緋チャンが弱っとるだけやで、それ」
「……」
「ほれ、水飲んでき。お前、そんな酒強ないんやろ」
「……はい。それじゃ、」
「どうも、ありがとうございました」と一礼をして、真子さんの元から立ち去る。頭が少しだけぼーっとするのは、酒のせいじゃなくて、一礼をして頭を下げたからだと、そういうことにしておきたい。
屋内のそこらの蛇口から水を注いで、裏庭へ戻る。喜助さん、真子さん、ひよ里さん、局員のみんな。彼らが一同揃って月を眺める背を見て、小さく微笑む。――この光景をずっと見ていたい。けれどそれは叶わない。
ならばせめて、この光景を思い出として形に残すのは許されるだろうか。もし、また次にこういう機会が訪れたら、その時はこの光景をこっそり写真に撮って収めておこう。この時代の尸魂界にはもう撮影技術はあるから、カメラくらい誰かに頼んだら次の日には出来てそうだな、と。設計図や製造方法についてやいやい協議し合うみんなの姿が容易に思い浮かんで、ふっと口元が緩む。それを誤魔化すように、湯呑みに入った水道水へ口をつけた。
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