僕らは空に融けていく



 仄かに鼻腔を掠める薬品の匂い。僅かに聞こえる電子音。ガラス同士のぶつかる小さな音の中に、ゴポゴポと何かが泡立つ水音が重なる。暑くも寒くもない、一定の温度管理がされた技術開発局の研究室で、私はもう何度目か分からないため息をついた。


「おぉー、今日も朝緋チャンは頑張っとるなァ〜」
「……たった今、その一言でやる気がなくなったところですね」


 机の上に積まれた書類を確認していた手を止めて、がっくりと肩を落とす。顔の向きは手元に下げたまま、目線だけを前方にすっと向けた。そうすれば自ずと、私と向かい合うように頬杖を付き、こちらを見ていた双眸と目が合う。
 丁寧に切り揃えられた前髪、その下から覗く三白眼は僅かに細められ、緩みきった口元は口角だけがやや釣り上がっている。――人を揶揄うのを楽しんでいる顔だ。


「なんでやねん、せっかくオレが直々に様子を見に来たっちゅうのに」
「勝手に来ただけじゃないですか」
「素直やないなァ、照れ隠しやろ?」
「うわ、なんて自分に都合のいい解釈」


 皆が作業をしているこの研究室では、会話をしているのは私たちだけ。つまりこの会話は室内にいる人たちには筒抜けということ。だというのに、目の前の男は周りなど気にもせず、永遠と私に話しかけてくる。一方的にちょっかいをかけられている、というのが正しいだろうか。
 ……あまり、目立ちたくはないんだけどな。というかむしろ、あなたとは会話すらしたくないのですが。内心では切実にそう願うのに、現実はそうもいかない。私が適当にあしらっても、それすら楽しみだと言わんばかりにめげずに話しかけてくるこの男。一体どうしたもんかと頭を抱えていた時、突如「バタン!」と勢いよく扉が開いた。室内に響いた大きな音に思わずビクリと肩が跳ね、何事かと音のする方を振り向いた途端――


 ――ドカッ!

「オマエはいつまでココおんねん、ハゲシンジ! ええ加減自分んトコ戻らんかい!!」
「痛ァー!? いきなり何すんねんひよ里ィ!! 別にええやろ、オレがどこにおろうがお前に関係あらへん!」


 扉を蹴破る勢いで入ってきたひよ里さんは、そのまま目の前の男――真子さんの顔面めがけて軽やかに飛んでいった。うわ、と思ったのも束の間、ひよ里さんの見事な飛び蹴りが炸裂……するかと思いきや、彼はすんでのところでヒョイと躱した。そしてあろう事か、仕返しと言わんばかりに飛び込んできたひよ里さんの顔をとっ掴んで頬を抓っている。
 しかし、この光景ももう見慣れたもので、日常茶飯事である。他隊の隊長につっかかる副隊長を止める人も、宥めようとする人も、この室内には誰もいない。――もちろん、私もその内の一人だ。

(なんなら関わりたくねえ……! 1ミリも関わりたくない……!)


「関係あるわ! ここどこやと思てんねん!! 技術開発局やぞ!!」
「!」
「知っとるわ! せやから、喜助がおらん間オレがお前達の面倒みることになったって散々言うてるやろ!」
「(び、吃驚した。私に言ったのかと思った……)」
「そんなんウチは許可してへん!! 面倒見るとか偉そうなこと言うな!!」
「オレは隊長やから偉そうやなくて偉いんですゥ〜! それに、オマエの許可なんかいらへんねん、喜助に頼まれてんやから」
「(そうなの……?)」
「そんなペタンコの顔しとる隊長なんかおらへんわハゲ! 大体、あのボケもいつまで現世におんねん! もう二週間やぞ! ほんま腹立つゥ〜〜!!」


 騒いでいる二人を尻目に、まとめた書類を片付けるフリをしてこっそり席を立った。二人の攻防戦は何故か私の机の前で繰り広げられており、とても迷惑で危険だ。原作キャラこの人たちと不必要に関わらない為にも、絡みに巻き込まれる前にさっさと離れてしまおう。この場に居合わせたくない一心で、逃げるように踵を返した――その時。


「ああ、言うん忘れとったわ、ひよ里。……喜助、明日には戻ってくるみたいやで」


 ――心臓がトクン、とひとつ跳ねる。前に出そうとした足が、思わずその場で止まってしまった。


「さっきの通信でそう言っとったわ」と、真子さんは続けた。その様子からして、冗談ではなく本当の話なんだろう。
 ……へぇ、そうか、浦原隊長は明日帰ってくるのか。頭ではすんなり聞こえた内容を理解出来るのに、心臓はドクドクと加速していく。手のひらはじんわりと汗ばんで、背筋を冷たい何かが這っていく。……早く、この場から離れなくては。


「これで朝緋チャンも、よーやっと喜助に会えるっちゅうワケや」
「(っ、なんで私に言うのよ)」


 しかし、私の逃走は彼の唐突な言葉で遮られてしまった。一番触れて欲しくないと思っている話に限って聞かれてしまうのは何故なんだろう。
 無視をするわけにもいかず、仕方なく扉に向かっていた体をくるりと反転させて、二人の方へ向き直る。ニコッと仮面のような笑顔を貼り付けて、話を逸らすようにひよ里さんへ声を掛けた。……心はこんなにも落ち着かないのに、こうしてへらっと笑えてしまう。我ながら名演技じゃないだろうか。


「……だそうですよ、ひよ里さん。浦原隊長、明日お戻りになるんですって」
「ウチは別にあんなヤツ会いたない」
「ひよ里さんって浦原隊長の話が出るとすごく嫌そうな顔しますよね」
「当たり前や、ウチはアイツの事どつき回したいくらい気に食わへんねん。隊長が仕事放っぽって一人で現世に行くなんて聞いた事ないわボケ」
「……きっと何か事情があったんじゃないですか?」
「おいコラ、オレんこと無視しなや」


 ――ぱちん

 おでこに軽い衝撃。な、何すんだ……!


「ちょっと、何するんですか! 今の一撃で私のおでこの細胞が死にました。どうしてくれるんです?」
「朝緋チャンがオレのこと無視するからやろ」
「いじけてデコピンなんて子供のする事ですよ」
「せやせや、朝緋の言う通りや、ガキシンジ」
「誰がガキやねん」


 もう、一体なんだってこの人はこんなに私に突っかかって来るんだ……! 浦原隊長の代わり? だかなんだか知らないが、ここは十二番隊。技術開発局だ。五番隊隊長の居場所なんてないのだからさっさとお帰り願いたい。きっとあの裏切り眼鏡の副隊長も困ってるはずだよ。帰んなよ。さあ、プリーズ、ゴーホーム!!

(……いや、そうか)
(浦原隊長の代わりが必要なのは……私がいるからか)


「喜助に会うん怖いか?」
「……いえ、別に。名前を覚えているだけで、どんな方かは存じ上げておりませんし」
「ほな、喜助に会いたいか?」
「……」


 そんなの、答えはイエスに決まってる。会いたい、会いたいよ。死ぬほど恋焦がれて、逢いたいと願って、何の因果か世界まで飛び越えて来てしまったんだから。

 ――けれど、だからこそ。同じくらい、会いたくない気持ちも強かった。理由は色々あるけど、一番はやっぱり、


「なんでそんな事聞くんですか」
「朝緋チャンは自分の事はなんにも話してくれへんからな」
「私の事を話したってつまらないでしょう」
「俺は朝緋チャンと話すんが楽しいから毎日ここにおるんやけど?」
「……物好きですね。変わってるって言われませんか?」


 私は異世界人だ。いや、正確に言うなら、ここは私が愛した『BLEACH』の中の世界で、私は物語の知識を持ったままトリップしてきてしまったとんでもない存在なのだ。自分の事についてなど、話せる訳がないだろう。
 この事は誰にも告げるつもりはないし、知識を利用して物語に関わるつもりもない。……もうこれ以上、疑われたりなんかしたくないんだよ、私は。


「ま、安心し。そないな顔せんでも、喜助は案外お人好しな奴や。……それに、朝緋チャンみたいなミステリアスで可愛ええ子、喜助のタイプやと思うしなァ」
「……はぁ、そうなんですか」
「なんや、全然嬉しくなさそうやん」
「そりゃあそうでしょう。顔とか雰囲気で気に入られたってちっとも嬉しくないですよ、私は」
「ま、もし喜助んとこがあかんくてもオレの隊やったら大歓迎やで? 可愛ええ子はなんぼでもおって欲しいからなァ」
「はは、私がさっき言った事聞いてました? 顔で判断するような方は御遠慮しときます」
「俺は朝緋チャンの相手の事よお考えて行動する優しいところも好きやで?」
「……」
「なんか言うてや、恥ずかしいやんけ」


 けれど、あの『浦原喜助』なら。私のような非凡な人間の隠し事なんて、いつか見抜いてしまいそうで。彼の頭脳や技術を誰よりも信じているからこそ、私は彼に近づくべきではないのだろうと。ずっと、そう考えていた。

(私は一体、なんの為にこの世界へ来たんだろう)
(醒めない夢は、救われる事のない現実)


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