世界はただそこに在るだけ
「ひよ里さーん。頼まれてたやつ持ってきましたよ」
「おー、そのへん適当に置いとき」
「……こんな時間までお仕事ですか?」
「せや。あのボケが急に現世に行きよるからようさん仕事溜まってんねん」
「うわ、机の上すごいことになってますね。私に出来ることがあればお手伝いしますよ」
研究室での会話。ひよ里にあれこれと頼まれたものを持ち出して戻れば、彼女の机の上には今にも崩れそうなぐらい書類が山積みになっていた。ひとつ手伝ったついでだ、と私がにこりと微笑んでそう言えば、彼女は一瞬だけ目を丸くした。
私に出来ること、という言葉に込められた言外の意図を汲み取ったひよ里は、しばらく俯いた後にキリッと眉を釣り上げて「そんじゃ、茶淹れてき。ウチのはぬるめな」と呟いた。――部外者と弁えている私でも出来ることを頼んでくれた彼女に、じんわりと胸が暖かくなる。
「はい、どうぞ。お待たせしました」
「……たった一言で物を運んで茶まで淹れてきてくれるなんて、便利な奴やのォ」
「……そういうの、普通はもっとオブラートに包んで言うもんですよ」
いつものようにデリカシーのない発言をするひよ里に冷ややかな視線を送るも、彼女はちっとも気にもしていない様子で私が淹れたぬるいお茶をずずっと啜る。こうして、彼女に乱暴な言葉を投げかけられるのにも、随分慣れたものだ。
「お前、これからもここにおったらええやん。使い勝手良さそうやし」
「……それを決めるのは私じゃなくて浦原隊長じゃないですかね」
「あ?ええねん、副隊長のウチがええ言うてんやから」
「そんな横暴な……」
「なんでもかんでもアイツの言う通りにしとったら、十二番隊は腑抜けの巣窟になってまうわ」
ひよ里があまりにもげんなりした顔で言うもんだから、それがおかしくてつい、ふっと息を漏らして笑ってしまった。
「そうですね。私も、ずっとひよ里さんと一緒に居られたら嬉しいです」
「うわキッショ!鳥肌立ったわ!」
「ええ〜、そんな照れなくても」
「ハァ!?次同じこと言ったらシバくからな、このボケ!!」バシッ
「痛ぁ……!」
――叶わないと分かっていても、そう願いたくなるくらいには。彼女も、彼女が居るこの場所も、私にとっては何よりも大切で。大切だと分かっているからこそ、いずれ彼女達が辿る運命を知りながら触れ続けるのは、胸が焼けるように痛んだ。
***
自分が異世界トリップをしてしまったと気が付いた時。それはそれはとても動揺した。夢ではないのかと何度も疑ったし、元の世界に帰れる方法も自分なりに考えて探ってみたりもした。しかし、目が覚める度に見えるのは自室ではない見慣れぬ天井だし、トリップしたであろう日の記憶も抜けてしまっていて当時の事はさっぱり分からない。
何者なのかと問われても名前以外に答えられない私が、今日まで無事に生きてこられたのは。偶然私を見つけて、技術開発局での保護を提案してくれた真子さんのおかげなのである。……そう、なのだが。
「(……はぁ。早く忘れよう)」
ガチャガチャと実験器具を洗いながら、ため息をこぼして肩を落とす。すぐ側にある時計をチラっと見れば、時刻は二十二時を過ぎたあたりだった。
技術開発局には「終業時間」という概念がないらしい。この時間になっても未だ多くの局員達が残っており、それぞれ実験や作業を続けていた。その様子は令和の社畜さながらで、不眠不休で働き続ける彼らのことを
元社畜として黙って見ている訳にもいかず。気が付けば、書類整理や後片付けなどの簡単な雑用をこなすのが日常になっていた。そういうわけで、今日も今日とてこんな時間まで片付けを手伝っているのである。
蛇口から勢いよく流れ出る冷たい水が、服に跳ねて染みを作っていく。それを気にも止めず、洗い場にこんもりと溜まった使用済みの実験器具たちを手際よく洗って乾かしていった。――部屋に一人で居るよりも、こうして無心で作業をしていれば、余計なことを考えずに済むから。遅くまで残ることは苦ではなかった。
(……帰ってくるのは明日だって分かってるのに。落ち着かないな、)
「すみません、これってどこに仕舞えばいいですか?」
「あー、それは……多分、この棚の左下かな。気をつけて、割れやすいから」
私の問いかけに答えてくれたのは、顔と名前がようやく一致しはじめたばかりの若い局員さん。彼に丁寧にお礼を伝えて、抱えられるだけの器具たちを抱えて元の棚に戻していった。水滴ひとつなく綺麗に拭きあげられた器具たちは、棚に並んで元の場所に戻ると、まるでそこが自分の家だとでもいうように、居心地良さそうに収まっていて。……自分の家など世界という次元を超えた先にある私にとっては、そんなちっぽけなことですら羨望と懐旧を抱いてしまう。
「……ただの試験管に向かって何を考えてんだか、」
馬鹿馬鹿しい、と一蹴して棚の前から立ち去ろうと顔を上げた時。ふと、扉の小窓の先へ続いた廊下に、明かりが漏れていることに気がついた。この時間なら、普段ならとっくに消灯しているはずなのに、どこかの部屋の明かりが無機質な廊下を照らしているようだった。
「(……仕方ない。見に行くか)」
まったく誰だい、明かりを消し忘れた人は。電気代がもったいないじゃないか。扉は開けたら閉める、電気は付けたら消す!これ、基本ですからね。そういう細かい所作が出来るかどうかを、意外と女は見てますからね。……なーんて、本音を言えば私だって面倒だったけど、見つけてしまったんだから仕方ない。立ち上がって欠伸を一つ噛み殺してから、明かりの漏れる廊下に続く扉を開けた。
廊下からはひんやりとした冷たい空気が流れ込んでくる。研究室はその性質から、一定の温度と湿度に保たれているため、秋の夜の冷たい風がとても心地よい。廊下に漏れている光を頼りに明かりのついている部屋まで進めば、その部屋は廊下を曲がってすぐのところにあった。しかし、確かにその部屋には明かりがついているのに、周囲はしん、と静まり返っている。
「(やっぱり誰もいない、ただの消し忘れか)」
――ガチャ、
***
「……?」
「…………ぁ、」
「(……誰だ?)」
予定よりも早く現世から戻り、着替えや片付けもそこそこに、調査任務の報告書を書いていた時だった。不意に扉が開き、視線を向けた先に――見慣れない女性。
「……え、っと、」
「……」
「…………お、おかえりなさい、浦原隊長!すみません、中にいらっしゃると思わなくて、」
「……貴女は、」
反射的に口が動いたが、言葉はそれ以上続かなかった。
――説明できない違和感。未知の霊圧は、霊圧とも呼び難いほど希薄な魄動。けれど確かにそこに在る、不自然な存在。彼女の纏う異質な雰囲気に、妙に意識が引き寄せられた。
「お疲れのところすみません、失礼しました!」
「…………」
――バタン!
しかし、扉は勢いよく閉まり、大きな音の余韻だけが室内に響く。
……たった一瞬の出来事。しかし、脳裏に焼き付くには十分過ぎる程に強烈で。
「……おかえりなさい、って。……それじゃあまるで、ボクのこと待ってたみたいじゃないっスか」
月明かりに照らされ、白く透き通った肌。じんわりと燃えるような、暗い紅色の髪。そして、知の探求を衝迫する、希薄な魄動と異質な雰囲気。そのどれもが、己の見知った人物ではなかった。……だとすれば。
――なるほどあの少女が、突然瀞霊廷に現れたという、平子隊長が話していた人物なのだろう。
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