曖昧で愚鈍な真実と
水の底にいたような、深く静かな闇のなかで。気がつけば、空っぽだった胸の奥に何かが流れこんでいるような気がした。ぬるま湯のように、ふわりと温かくて、静かで、確かにそこにある。指先がじんわりと痺れて、呼吸が深くなる。体の輪郭が、夢の中でさえはっきりしていく。
いままで一度も感じたことのない、その「存在感」は、たしかに違和感があるのに、不思議と自分に馴染んでいるような気がした。
……そういえば、ものすごく体が重いし、あちこちが痛い。手足に力なんて入りやしないし、頭もすごく痛い。あと、耳も。キンキン響くというか、なんかすごく、賑やかというか、やかましいというか………
「ええからそっち寄越さんかい!このハゲが!」
「嫌ですぅ!ひよ里が早い者勝ち言うたんやろが!自分の食いたいモン取られたかて横取りするなんざ卑怯やぞ!」
「ハァ?!ウチの方が先取っとったんに無理やり横取りしたんはお前やんけ!返せ!泥棒!!」
「そんないい訳聞きませェ〜ん!そないに欲しいんやったら力づくで奪いに来んかい!」
「はっは〜ん?言うたな?今すぐそのペタンコでハゲた顔どつき回して――」
「……うる、さい」
「ほれみィ、朝緋チャンやって……、?!」
「――朝緋!!!?」
聞き慣れたやかましい騒音に、沈んでいた意識がはっきりと浮かび上がり、ゆっくり瞼を持ち上げる。眩しくて眉間に皺が寄りつつも、瞬きを数回、ぱちぱちと繰り返して目を開くと、ガバッと、勢いよく振り返る視線が二つ。頭が痛くて顔を動かせないので、目だけをそちらに向けると、取っ組み合いをしながらこちらを見て驚いている、真子さんとひよ里。……そしてその奥、離れた場所に座っている阿近の姿もあった。
「よかった、やっと目覚めたんか」
「……やっと?」
「なんや、何があったか覚えてへんのか」
真子さんにそう言われて、うーん、と思い返す。私はさっきまで、何してたんだっけ。なんでこんなに身体中が痛くて、ベッドに寝かされてるんだっけ。
一つ一つを辿るように考えて、やっと思い出す。――ああ、そういえば、技局の地下で擬似虚に襲われたんだっけ。必死すぎて細かくは覚えてないけど、たしかに大怪我をした心当たりがあった。
「……一撃でも当たったら死ぬかもしれない、デスゲームをしてたのは思い出しました」
「ああ?なんやそれ、頭ぶつけておかしなったんか?」
「(そうだった、この人たちにはそんなカタカナ通じないんだった…)……あー、そうかもしれません。なので、何があったか教えてください。そもそも、ここはどこなんですか?技局とは、なんとなく雰囲気が違う気がするんですけど……」
「……ここは、四番隊の綜合救護詰所。朝緋は脱走した擬似虚に狙われて戦って大怪我して、ウチんとこだけじゃ助けられへんからってここに運び込まれたんや」
四番隊の、綜合救護詰所。――通りで、いつもの雰囲気とは違う部屋だなと感じたわけだ。窓辺から見える空はいつもより近い気がするし、技局とは違った薬品の匂い。……消毒の匂いだろうか、漂ってくる空気も技局と違う。
たしかにあの時、気を失いそうなくらい痛かったけれど、まさか四番隊に運び込まれるような大怪我だったとは。ていうか……あれ、でも私、身元不明の超怪しい存在なのに、技局の外に出てよかったんだろうか。ここで治療を受けるということは、少なくとも私の存在は救護詰所の中には知られてしまうわけだし……。
――そう思って、目を覚ました時に無意識に探してしまった彼を、もう一度よく見回して探してみる。しかし、この事情を知っているであろうその姿はどこにも見えなかった。……それもそうだ。あの人の立場を思えば、心配して付き添ってなどくれるはずもないのに。会いたいと思ってしまったのは、きっと、体が弱っているから……。
(まあ……いるはずもない、か)
「………」
「おい阿近、卯ノ花隊長呼んでき」
「なんで俺が……」
「ボサっと座っとるだけなんやからええやんけ。副隊長命令や、さっさとし」
「………はぁ。わかった」
阿近はこちらを一瞥した後に、特に何も言わずしぶしぶといった様子で病室から出ていった。その間、真子さんだけが神妙な面持ちでこちらを見ていたような、気がする。
「……なんか、その、ご迷惑をおかけして……すみません」
病室に静かに漂う重たい雰囲気にいたたまれなくなって、ぽつりと謝罪を口にする。阿近が卯ノ花隊長を呼びに行ったことから、なんとなくただ事じゃないような気がして。申し訳なさと後悔が一気に押し寄せてきた。
「謝るんは朝緋ちゃう、ウチの方や」
「……?ひよ里さんは、隊首会に行ってらしたんじゃ……?」
「隊首会行く前から、ずっと嫌な予感しててん。ウチのそういうんよく当たるのに、一昨日に限って無視しとった」
「……おととい……?」
「せや。朝緋チャンが倒れたん、一昨日の夕方やで。丸一日以上寝とったんちゃう」
「えええ、そ、そんなに……」
丸一日以上も寝てたのか……?ほ、本当に……?思わず疑いの目を向けるも、真子さんは至って真面目な顔をしていて、それが嘘では無いことを物語っていた。寝すぎたからなのか、頭をぶつけたからなのか、確かに頭はボーッとしている。
「ウチらが技局に戻って事情を知った時、ウチは真っ先に朝緋の事を探しに行ったんやけど……結局見つけたんはウチやなかった。……ごめんな、もっとはよ助けられとったら……」
「はは、またですか、ひよ里さん。もう、猿柿さんって呼びますよ」
「……オマエ、」
「ひよ里さんのせいじゃないですよ。むしろ今、私を真っ先に探してくれてたって知れただけで、十分気持ちは伝わってます。ありがとうございました」
寂しそうに、悲しそうに。あんまりにもひよ里が素直に言うもんだから、こちらが面食らってしまいそうになる。私は、そう。こうして他人から素直に心配をされるのが少し苦手だ。気恥ずかしくて、どう受け取っていいのか分からなくて。どうしても少し、はぐらかしてしまう。
「まったく、朝緋チャンが虚と戦って大怪我したって聞いた時はびっくりして肝が冷えたわ。普通は虚に会うたらビビって逃げるやろ」
「いやぁ、そうするつもりだったんですけどねぇ」
「……?」
「悔しいなあ〜、あはは。なんか、急にムカついてきたかも」
「もし次会うことがあれば、絶対にぶっとばしてやりますよ」と笑顔で言ったつもりだったのだが、真子さんもひよ里も、どこか思い詰めるような表情に変わる。……あれ、なんかまずいこと言っちゃった?
「なるほど。貴方はどうやら、随分とお転婆な方のようですね」
「――!」
「せやねん。思っとったよりお転婆で、み〜んなびっくりしとるとこですわ、卯ノ花隊長」
「(この人、が)」
声のした方を見ると、落ち着きのある高潔な声をそのまま模したような。黒い三つ編みを顎下で結んだ――この施設の長である、卯ノ花さんの姿があった。初めて目にする彼女は、本当に厳かで綺麗な人で。思わず背筋が伸びてしまうような、そんな雰囲気を纏っていた。
「少し、彼女と話をさせて頂いてもよろしいですか?」
「はい、すんませんけど、よろしく頼んますわ」
「ええ。その間に……"彼"にも、あなた達から連絡してあげてください」
「……?」
卯ノ花さんは私に穏やかな微笑みを向けた後、静かに病室へと足を踏み入れ、真子さんに声をかけた。そして、二人は卯ノ花さんと何かを話した後、「ほな、また来るわ。お大事にな」と言って病室から立ち去っていった。
彼らの足音が遠ざかり、扉の向こうに完全に消えたのを見計らったように、卯ノ花さんはそっと私の方へと歩を進める。そしてそのまま、柔らかい声音で話しかけてきた。
「……初めまして、翡葉朝緋さん。私は四番隊隊長、卯ノ花烈と申します」
「初めまして、翡葉朝緋です。……助けてくださって、ありがとうございます」
「お礼を言うのは、完治してからで構いませんよ。とても、まだあなたを"助けた"とは言えませんから」
「……そんなに重症なんですか、私は」
寝かされたベッドの上。起き上がることはおろか、顔を動かすのすら躊躇うくらい、体には力が入らないし頭が痛い。しかし、命に関わるような大怪我なのかと言われたら自分ではそうは思わなかった。血が沢山出たわけでもないし、今だってこうしてはっきりと意識はあるし。……そんな風に思っていたのだが、卯ノ花さんから聞かされた怪我の内容は想像のはるか上をいくもので、驚きのあまりそのまま聞き返してしまった。
「え、ええ!全治一ヶ月……ですか?私が?」
「ええ。随分無茶をなされたんですね、あなたは」
「……そ、そんなことは……なくはない……かもしれないですけど……」
「意識回復に二日かかりましたし、起き上がれるまでに一週間、日常動作が可能になるまでは二、三週間かかるでしょう。今だって、会話をするのもしんどくはありませんか?」
「……言われてみれば少し、息苦しい気が」
「それが、今のあなたの状態です。この程度の会話ですら、体力を削るほど消耗しているのですよ。今後は治療に専念して、くれぐれも"お転婆"は控えるようにして下さいね」
「……は、はい……(私ってばそんなに危なっかしい人に見えてるのか?)」
にこり。先程の穏やかな笑顔に、有無を言わせぬ威圧感を足したような顔を向けられれば、返事は「はい」としか返せない。そんな、ぎこちない私の返事でも納得してくれたのか、「それではまた、何かあればいつでも言ってくださいね」と言って卯ノ花さんは病室から出ていった。……途端に、室内がしんと静まり返る。
――一ヶ月、かあ。一ヶ月も、何も出来ないのか。そう思うとすごく心苦しかった。きっと、擬似虚が脱走した件で技局は慌ただしく後処理に追われているだろうし、講義室をめちゃくちゃにしたのは私だ。それなのに、何も手伝う事も出来ずただここで寝ているだけ、というのが不甲斐なくて。
……なにより、私に怪我を負わせてしまったと、あの人が責任を感じていないかが気がかりだった。自分のせいだと思い込んでいそうで、その一端を担ってしまった自覚があるので、ものすごく居た堪れない気分になる。あの人なら、そう。口にも態度にも出さないかもしれないけど、心の中で罪悪感を抱えているのが容易に想像つく。
だからといって彼に、あなたのせいじゃないよ、平気だよ、気にしないで、なんて。そんな浮薄な言葉を投げたって、彼の罪悪感はちっとも拭えないだろうし、むしろ余計な重荷になりかねない。彼の「気持ち」そのものを、否定するような軽率な発言は気が引ける。
……だからこそ、私は。
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