それはまた素敵な理屈



「っ、はぁ、はぁ……し、しぬ……!」


 ばたん、と、硬い道場の床にぶつかるのを気にもとめず倒れ込む。喜助さんから渡された基礎体力特訓メニューの通りに、早朝から三時間、隊舎の周りを走り続けてようやっと道場に戻ってきた。最初の一時間はジョギングのペースで走って、あとの二時間は走り込みだ。体力の無い私が三時間も走り続けるなんて、人生で一番の快挙と言っても過言では無い。荒れた呼吸で苦しさは限界突破してるし、腰やら股関節やら、節々が悲鳴をあげている。道場のひんやりとした床が気持ちいい。息を整えるために、そのまましばらく床に仰向けで寝そべっていた。


「つ、疲れた……っげほ、ごほっ……み、水……!」


 喉も口も乾いて張り付き、上手く言葉も出ない。運動中は適度に水分補給をしなさい、と言うけれど。水なんて飲んで走ったらお腹痛くなって走れなくなっちゃうよ。それに、水を飲むために立ち止まったらもう走れなくなる気がして。馬鹿な私はろくに水分も取らずに走り続けたのだ。今は真冬の十二月だからいいものの、これが夏ならとっくに死んでる気がする。
 しかし、追い込みに追い込んだ私の体は、もはや一度寝そべってしまったら少しも動けない。腕を動かすのすら億劫で、顔に髪がかかったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。


「お疲れっス、朝緋サン。……だ、大丈夫っスか?」
「おわあ!?う、浦原隊長……!」


 あられも無い姿で寝そべっていた所に、声とともに道場の扉が開いて喜助さんが顔を出す。さすがにこんな情けない姿は晒せないと、軋んで痛む身体を引きずって起き上がり、壁に背を預けるようにして座り直した。本来なら隊長が来たのなら正座で出迎えるべきなんだろうが……今はそこまで身体が言うことが効かなかった。ごめんなさいね。


「こちらに戻るのが見えたので、様子を伺いに。はい、これ。まずはお水です」
「う、すんません、……ありがとうございます」


 喜助さんが持ってきてくれたお水を受け取り、容器の蓋を開けて勢いよく飲み干した。久しぶりの喉が潤う感覚に、体に籠った熱も次第に冷めていく。「っぷは、」と小さく息を吐いて飲みきった後に、こちらを見つめる彼の方へ視線を向ければ、困ったように、呆れたような顔で笑ってくれていた。


「いい飲みっぷりっスね」
「いやぁ、あはは。すごく喉乾いてて」
「……もしかして本当に三時間走ってきたんスか?」
「当たり前じゃないですか」
「ボクはてっきり、今の朝緋サンなら三時間はキツいかなぁ思って冗談だったんスけど……」
「ふふ、やだなぁ。私は生粋の負けず嫌いですよ。この程度で音を上げるわけないでしょう」


 私を見くびらないでほしい、そんな意味を込めてへらっと笑ってみるも、実際はこのザマだ。座っているのもやっとで、身体中が痛いし胸もまだ苦しい。いずれ三時間走ったくらいじゃなんともないぐらいの体力がつくのだろうが、今のところその未来は遠くにありそうだ。


「根性があって結構。いやぁ、これは鍛えがいがありそうっスねぇ」
「任せてください。立派に鍛えられて、私が貴方の『弟子』だって、必ず認めさせてあげますから」
「――!」


 私が挑発するようにニコリと笑ってみせれば、喜助さんは僅かに目を見開いた。しかし、すぐにいつもの含みのある笑みを浮かべて「いいっスねぇ。悪くない」と答えた。彼のその反応に、適当に言ったつもりだった言葉の意味を改めて理解しじわじわと顔に熱が篭もる。
 ――浦原喜助の、弟子。そんな大層な称号を、私なんかが貰ってもいいのだろうかと、一瞬、躊躇いが脳裏をよぎる。けれど、目の前でその「不確かな未来」を思い浮かべて笑ってくれるこの人の顔を見たら、そんな謙遜も遠慮も小さくなって消えてしまう。髪と一緒に切り捨てたはずの恋心が、じくじくと熱を孕んで胸を締め付ける。

 少しくらい、我儘を言っても許されるだろうか。愛されたいとは言わないから。あの人から力を受け継いだ者であることを名乗る、そんな未来を望んでもいいでしょうか。


「それなら、余計に……この程度でへばるわけにはいかないですね。こんな不甲斐ない状態じゃ、」
「それはそうっスけど。三時間も走った後に休憩を許さないような鬼でもないっスよ、ボクは」
「ええ?さっきは鍛えがいがあるとかなんとか言ってたじゃないですか」
「努力させるのと無理をさせるのは別っスから。ボクの弟子になるなら、頑張りどころは見極められるようになってもらわないと」


 ぴっ、と指さして「膝が笑ってるの、バレバレっスよ」と悪戯っぽい笑みを向けられれば、何も言えなくなってしまう。無理してるのがバレるほど、恥ずかしいことはない。あはは、と適当に誤魔化して笑うしかなかった。


 ――ガラガラ、バタン!

「おーっす、朝緋おるか〜?」
「はーい?ここにいますけど」


 私が何も言えずしんと静まり返っていたところに、突然ガラガラと扉が開く音が道場に響いた。やや雑に開け放たれた扉からは、今日も変わらず元気の塊のようなひよ里が顔を覗かせていた。


「阿近がなんや聞きたいことがある言うて呼んどったで」
「阿近が?んー、なんだろ」


 顔は私に向けたまま、親指を立てて後ろの技局のほうを指さすひよ里。仕草がややガサツで男っぽいところも、彼女の溌剌とした雰囲気によく合うよなぁなんて思いながら、痛みに軋む身体を持ち上げる。
 「それじゃ、技局に顔出してきますね」と喜助さんとひよ里に一礼をして、道場から立ち去る。ああ、身体は鉛のように重たいし足の裏はじんじんと痛む。膝が笑ってそのままかくっと抜けてしまいそうになるのを、力を入れて慎重に一歩ずつ進んだ。我ながら、こういう状態を満身創痍って言うんだろうな、と。ついひと月ほど前までの入院生活を思い出して苦笑いした。


「……朝緋サンって、仕事熱心で真面目っスよね」
「ああ?どこがやねん」
「呼ばれたらすぐに行っちゃうんスもん、さっきまで『もう一歩も動けない』みたいな顔で倒れ込んでたのに」
「それが嬉しいんやろ、アイツは」
「……はい?」
「誰かになんか頼まれたらいっつも嬉しそうにしとるからな。馬鹿みたいにニコニコ笑って、楽しそーに」
「………」
「ウチには分からんな〜〜、めんどいことさせられとるだけやのに。何が楽しいんやろ」


 ぽつり、と。なんて事ないように語って言葉を残し、彼女もまた道場を立ち去っていった。静まりかえった道場に残されたのは自分だけ。後ろ手をついて腰を下ろし、開けっ放しの扉から空を仰ぎ見た。
 

「お疲れ様です、浦原隊長」
「あぁ、それならもう終わりましたよ」
「お手伝いが必要な時は、いつでも仰ってくださいね」
「だって私は、技術開発局の一員ですから」



  人の役に立つのが嬉しい。頼られるのが嬉しい。そんな純粋な感情を――自分はとっくに失くしてしまった輝きを持つ彼女が、途端に眩しく思えた。


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