黄昏が囁いた
別に、寝たふりをする必要なんてなかった。ドアをノックする音で意識は浮上していたし、彼女が部屋に入ってきた気配で完全に目が覚めていた。けれど――彼女の呼びかける声に、どこか疲れを感じとってしまったから。起きたら余計に気を使わせるんじゃないかと思って、つい返事をやめてしまった。その結果がコレだ。
「……今晩は一段と冷え込むって、伝えたつもりだったんスけどねぇ」
肩にかけられた羽織からふわりと香る、自分のものではない匂いに苦笑いをする。起きても、起きなくても、結局気を使わせるのならどうするのが正解だったのだろう。……今頃、寒い寒いとぼやきながら肩を縮こませているだろうか。
あの子はあまり自分のことを話さない。極度の寒がりだというのも、つい最近知ったばかりだ。そういえばいつだったか、一定の室温に保たれた研究室は居心地がいいと言っていたが、あれはそういう事だったんだろう。
“平子隊長から書類をお預かりしました。翡葉”
散らかった机の上には、新たな書類の束と、それに添えられた書き置きが一つ。走り書きの文字は少しばかり崩れており、まだインクの匂いが微かに残っていた。
「自分で自分の道を選ばなければ、誰かの物語に飲み込まれて終わり。その為に、自分の目で見て、触れて、考えて選び取る」
「それが、“生きる”ということ。……そう、思いませんか?」
「もしかして、そっちがホントの朝緋サンなんスか?」
「……前に言いましたよね、頑固で負けず嫌いだ、って」
死神になるという道を選び、覚悟を見せるためだと髪を切ったことには正直驚いた。あの時、本来の自分は『頑固で負けず嫌いだ』と言った彼女は、確かにそれまでと比べて顔つきが変わったように思う。以前の彼女は、与えられた仕事は丁寧にこなし、誰に対しても礼儀正しく、どちらかといえば物静かな印象だった。……しかし、
「何ですか今の技!どうやってやるんですか!」
「うーん、浦原隊長のお手本とどこが違うのか、教えてほしいです」
……好奇心が旺盛で、
「い、痛……っくない!もう一回!お願いします!」
「すみません、これってどうやるんでしたっけ?」
……失敗や間違いを恐れず、
「これが出来るようになるまで、今日は寝ないと決めてるんですよ」
「一日の修行を終える時は、必ず成功して終わりたいんです」
……根性があって、しぶとい。
彼女の『負けず嫌い』は単なる意地っ張りや我の強さじゃあない。“負けたくない”というよりも“諦めたくない”のだろう。……一度決めた事ならば、どんなに些細な事でも。
――本来、誰かの感情を真正面から受け止めるのは得意じゃないはずなのに。不思議と、全力で食らいついてくるあの子を見ているのは、嫌いじゃなかった。
「なんじゃ、書類を見ながらニヤニヤしおって。相変わらず陰険で気持ちの悪い奴じゃの」
「……夜一サンこそ、勝手にボクの部屋に入って覗き見なんて趣味悪いじゃないっスか」
「何を言うておる。声をかけたのに気が付かんかったのはお主の方じゃろ」
「ありゃ、そうだったんスか?そりゃスイマセン」
僕の私室であるはずの局長室に、さも当然と言った顔で居座っている夜一サンへ口だけの謝罪を述べれば、案の定じとりとした視線が飛んでくる。寛ぐように座っているその椅子は夜一サンの身分や立場思えばあまりにも粗末だというのに、決してそれをひけらかさない彼女は、椅子から立ち上がりズカズカと僕の目の前まで近づいてくる。そして、手元に握られた書類を一瞥した後に、ふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。
「余程、夢中になっておるようじゃな。新しい玩具はそんなに面白いのか?」
「ヒドいな、ボクは玩具の研究なんかしてないっスよ」
「儂にはお主の作るものは皆同じに見えるぞ」
「それは夜一サンに見る目がないからじゃ――痛ッ!」
顔にめり込むような裏拳が飛んで来る。ベキッ!と嫌な音がしたのは……気のせいにしておこう。
「……最近、大霊書回廊に入り浸っておるらしいな。……何をしておる」
「何って……調べ物っスよ、調べ物。それ以外ないじゃないっスか」
「そんな事分かっておる。……あんなところで何を調べとるのかと聞いておるんじゃ」
「……それが、何も見つからなかったんスよねぇ」
「……なんじゃと?」
「ま、夜一サンにも聞いてもらおうと思ってますから、もう少し待ってて下さいよ」
今はまだその時じゃない、という言外の意図を汲み取り、これ以上聞いても無駄だと悟った夜一サンは、はあ、と一つ大きなため息をつく。長年の付き合いというべきか、はたまた腐れ縁と呼ぶべきか、こういうところは察しが良くて非常に助かる。眉を下げヘラヘラと笑い誤魔化していると、彼女は鋭く目を細めた後にずいっと身を乗り出し、僕の耳元で声を潜めた。
「……気をつけろよ、喜助。技術開発局で不審な者を匿ってると一部で噂になっておるぞ」
「……ええ、分かってます」
「本当に分かっておるのか。儂はもうお主を庇ってはやれんのだぞ」
「……大丈夫っスよ。もう手は打ってありますから」
いずれこうなる事は分かっていた。大霊書回廊へ向かったのも手を打つ為だ、準備はもう出来ている。
……あとは、あの子次第。
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