転がり落ちるような愛
暖かい日差しが降り注ぐ縁側へ腰を下ろし、後ろ手を着き足を投げ出しながらぼんやりと空を見つめる。清々しい春の陽気はポカポカと心地よく、瞼を閉じれば意識が微睡みそうだ。眠気を感じ取った脳は酸素を求め、欠伸をひとつ噛み殺す。いつもならもう少し寝ていたところだったが、今日ばかりはそういう訳にもいかなかった。詰まるところ、普段よりも寝不足で欠伸が止まらないのだ。
しかし、そのまま意識が沈んでしまうかと言われたら、そういう訳でもなかった。頭は妙に冴えていて、今も脳内の片隅で研究に関わる理論や理屈を捏ねようとしている。多少の眠気では思考を止めることは出来ないのだ。そんな科学者の性と呼ぶべき忙しなさを取り払うように、ただただぼんやりと空を眺めた。遥か高くをゆったりと飛んでいく鳥を見送りながら、ふと思い返すのはひと月程前のこと。
いつもように、修行熱心な朝緋と道場で稽古をしていた時。中庭を眺めながら休憩していた所へ、一匹の地獄蝶が現れた。それはヒラヒラと迷うことなく、伝令を運ぶためにこちらへまっすぐ飛んでくる。
――ああ、ついに来たか。ボクは真っ先にそう思った。考えうる中での“嫌な可能性”のひとつが、すぐそこまで迫っている気がする。伝令の内容は予想通りに『総隊長からの呼び出し』で、その内容とは十中八九、隣で地獄蝶を興味深そうに見つめている彼女についてだろう。
いずれ翡葉朝緋の存在が明るみに出ることは分かっていた。あの日、崩壊した講義室で青白い顔をしたボロボロの彼女を抱えた時から。四番隊への搬送は彼女の命を救うと同時に、自分の手が届く範囲を超えてしまうこと。それらを全てを分かった上で、彼女に今後どうしたいかを選ばせた。あの事故はきっと、少なからず彼女の未来に影響を与えてしまっただろうから。彼女の選択の責任は自分が負うと決めていたし、それを果たすことがすなわち『翡葉朝緋』を公に認めさせるということだった。
「彼女は確かに、瀞霊廷にとっては異質な存在と呼べるでしょう。ですが、かつてそのように判じられた人物がどうなったかを、総隊長がお忘れになるはずないっスよね?」
「……何が言いたい」
「危険分子と判断された人物を収監していた隠密機動檻理隊の前部隊長が誰だったか。思い出していただければ、彼女の身柄についてこれ以上の言及はもう必要無いんじゃないっスかね」
「……」
「翡葉朝緋は死神としての素養も高く、護廷十三隊が得られる利は大きい。既に技術開発局へも多く貢献してくれています。――充分信用に足る人物ですよ、彼女はね」
「……“元檻理隊部隊長の信用”が答えじゃと。そう言いたいのじゃな」
「ええ。お分かりいただけたようで――なによりっス」
終始、真偽を問う為に疑り深い目を向ける総隊長に対して、ひとつひとつの疑念潰すように啖呵を切って答えた。技術開発局には元より、蛆虫の素に収監されていた危険分子がいるのだ。今更、彼女程度の存在についてとやかく言わせるつもりはない。そう簡単に、傷付きながらも折れずに立ち上がってきた部下(彼女)の未来を潰されてたまるか。――そんな静かな決意が、あの時ボクの心を突き動かしていた。
「あ、いたいた。浦原隊長〜!」
「……おや、朝緋サン。どうしたんスか?」
そうしてぼんやりと考え事をしていたボクの意識を引き寄せたのは、普段通りに明るく声を掛けてきた彼女だった。「部屋の鍵を返却しようと思って」と続けた彼女は、ポケットから鈍く光る小さな鍵を取り出す。そこには以前付いていたキーホルダーの姿はなく、なんの飾り気もないただの鍵だけが握られていた。……そうやってわざわざ私物を外して返却してくるところが、いかにも彼女らしくて思わず頬が緩む。
「返さなくてもいいっスよ、あの部屋は貴女の部屋なんスから」
「ええ〜、でももう使うことないと思うんですよね。二度と戻らないつもりで片付けちゃったし」
「……なら、預かっておきますね。
霊術院で無くしちゃったら大変ですし」
「? はい、分かりました。お願いします」
彼女から鍵を受け取って、無くさないように普段は使わない白衣のポケットへ入れた。ボク自身も、無くし物についてはあまり人にとやかく言える方ではないが……こればかりはしっかりと管理をしようと心に誓った。たとえ彼女が今後一切あの部屋を使わなくなったとしても――他人に使わせるのは妙に気が引けたのだ。
「それじゃ、用はそれだけだったんで。失礼しますね、浦原隊長」
「もう行くんスか?」
「へ?」
「……いやぁ。さも軽い用事を済ませたみたいにナチュラルに居なくなろうとしてますけど、もうこのまま
霊術院に行くつもりなんでしょ?」
「……な、なぜバレた」
「何となくそんな気がしただけっス」
「すごく勘が冴えてますね。きっと今なら、瀞霊廷で一番勘が冴えてるで賞を受賞出来ますよ」
「そりゃ光栄っスねぇ。けど、見送りくらいさせて下さいよ」
「……そんな、わざわざいいんですって。そこまでさせたくないからサラッと行こうと思ってたのに……」
「十二番隊には、出立する人を見送る義務があるんスよ」
「ええ!?ど、どうしよう……!今まで一回もしたことない……!」
「大丈夫っスよ、ボクが今作った義務なんで」
「んな無茶苦茶な……!」
「ほら、すぐそこの門までっスけど。行きますよ」と声をかけて、彼女の少ない荷物のうちのひとつを勝手に掴んで前を歩く。そうすれば「あ、ちょっと……!」と慌てたようにパタパタと彼女が後ろを着いてきた。……まったく、彼女の新しい門出を見届けるつもりで早起きをしたのに。あのままボクに声をかけずに彼女が行ってしまっていたら、早起き損になっていたところだった。――と、そんなことを考えながら。いつもと同じ歩幅で、ほんの少しだけゆっくりと、目と鼻の先にある隊舎の門まで歩いていく。
「ひよ里サンには声掛けてきたんスか?」
「はい。朝起きて一番に会いに行ってきました。何時やと思てんねん!って怒られちゃいましたけど」
「一体何時に行ったんスか……」
「えー、何時だったかなぁ?たしか日の出の一時間後くらいだった気がします」
「そりゃいくらなんでも早すぎるっスよ」
「だって、本当はその時間に出立するつもりだったんですもん」
「……何故?」
「……朝一から活動するのって気分いいじゃないですか。でも、ひよ里さんが『お前の仕事はまだ終わっとらん!』とか言っていっぱい雑用押し付けてきて……それでこの時間に」
「こんなギリギリまで、本当にご苦労さまっス」
「いえいえ。私は技局の雑用係が楽しかったですから」
「(――いや、違うな)」
彼女はきっと、誰にも告げずに、もしくは一番仲の良いひよ里にのみ挨拶をして霊術院に向かおうとしていたんだろう。おそらく、皆に気を使わせたくないからとか、そんな理由で早朝を選んだ。しかし、それに気がついたひよ里が彼女を止めた。有無を言わせずにたくさん雑用を押し付けて、ボクを含めた
他の局員たちが起きてくるまでの時間稼ぎをしてくれたんじゃないだろうか。
(まったく、二人とも本当に……)
「隊長直々にお見送りして頂いて、どうもありがとうございました」と彼女は深々と頭を下げる。そのお辞儀にはきっと、今までの感謝なども含まれているんだろう。長いこと頭を下げたままの彼女を見て、ふっと肩の力が抜けてしまう。陽の光を受けてか、艶のある葡萄色の髪がいつもよりキラキラと輝いていた。一度、肩の上までばっさりと短く切ってしまった彼女の髪は今、昔と同じように後ろでひとつに括られている。その懐かしさに気がついて、自然と頬が緩んだ。
――ボクはおもむろに懐へ手を入れて、あるものを取り出して彼女の前へと差し出す。
「朝緋サン。はい、これ」
「!……これ、って」
「『元気が出る飴玉』っス」
「……」
「甘くて美味しいっスよ」
「……っ」
「……飴玉、っスか?」
「はい。でも、ただの飴じゃなくて『元気が出る飴玉』です」
「……」
「それ、私はこの通りまだ食べられないので、浦原隊長が代わりに食べてくれませんか?」
「――……」
「甘くて美味しいですよ」
かつて、彼女がそうしてくれたように。あの時貰った飴玉は、結局食べるのが勿体なくて未だに手付かずのままだけれど。ある日、流魂街で買い出しをしている際になんとなく入った駄菓子屋で、彼女から貰ったものと同じ飴玉を見つけた。そして、まるでそうするのが当たり前のように、気がついたら飴玉の代金を支払っていたのだ。個包装された飴玉がいくつも入っている大袋が、ボクの机の引き出しに彩りを加えている。
そしてそれ以来、ふと思い出したように。彼女に倣い疲れが溜まって元気のない時は、飴玉を食べるのが習慣になりつつあった。もちろん、本来この飴玉にそんな効果がないことは分かっている。だが、飴玉を食べると不思議と『あと少し頑張ろう』という気分になれるのだ。いわゆるプラシーボ効果というやつだろう。あるいは、人一倍強い気持ちを持つ彼女のことだ、そういったまじないや願掛けを信じてるのかもしれない。理由はともかく、『元気が出る飴玉』と出会ったボクは、食べたい時に食べられるよう常に懐へ忍ばせるようになっていた。それを彼女へ――技術開発局が大好きで寂しがり屋な彼女へ、少しでも笑顔で頑張ってくれたらいいと思いを込めて、一粒手渡す。
「……ずるい、」
「ええ。ボクってずるい男なんスよね、実は」
彼女は震える声で一言呟くと、ボクの手のひらに乗った飴玉を、そっと拾い上げる。それを両手でぎゅっと胸の前で握りしめると、唇をきゅっと引き結んだ。そして、持ち前の根性と頑固さで潤んでいた瞳から涙を引っ込ませると、眉尻を下げてふにゃりと笑い「浦原隊長、」とボクの名を呼んだ。
「――いってきます!」
「いってらっしゃい、朝緋サン」
いつでも帰ってきていい、とは言わなかった。休暇の日でもなんでも、息抜きでもお手伝いしにでも、戻ってきていいとは言えなかった。新しい場所で、目標に向かって頑張ろうとする彼女の決意に水を差すと思ったから。そして何より、きっと彼女はそう言ったところで帰ってこないだろうから。卒業するまでは戻らない。頑固で負けず嫌いな彼女なら、そんなことを考えているはずだ。
一度も振り返らない背中が、小さくなって見えなくなるまで。目に焼きつけるように、その背を見送り続けた。
(あまい、あまい、飴玉)
(切ない味がする)
いつの日か、君に花を。第二章[完]
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