愛おしい、愛おしいと咽び泣く愚かな心を


 

『――おお。来たか』
「……あれ、」
『久しく見ない間に、随分と腑抜けた顔になっているじゃないか』
「……そうかな」


 久しぶりに聞く、男の低い声。高圧的で癪に障る話し方。そして――いくら見回しても真っ白な空間。……どうやら精神世界に来てしまったようだ。


『あの男に泣かされでもしたか?』
「……泣いてないよ」
『おっと、失礼。――正しくは、“あの男の信頼に絶望して心が折れた”んだったな』
「……」
『……憐れだな。とても、すごく。非常に残念だ』
「……うるさいよ」
「――そんなにあの男が大切か?」
「!!」


 ズキリ、と胸が痛む。鳩尾をギュッと押し潰されたような、奥歯をグッと噛み締めなければ嗚咽が漏れてしまいそうな。壊れそうになる何かを必死に止めるように、息を殺した。

 ――そして。今までこの何も無い空間全体に響いていたような男の声が。突如、背後から直接話しかけられたような音質で耳に届き、驚いて振り返った。

(……この男、が――)


「……」
「……なんだ、その目は」
「……性格の悪そうな顔だなぁ、と思って」
「ほう。では、身から出た錆、という言葉を知っているか?」
「知ってるけど。……なに?」
「“卑屈”とは、自身に行う加虐行為だぞ」
「……」
「フッ。……無駄に、理解だけは早いようだな」
「一言余計なんですけどー」
「――それで。最初の問いに戻るが」
「……」
「そんなにあの男が大切か?」


 背後に立って蹲る私を見下ろしたまま、この男はそう問いかけてきた。一度目の問いかけに含まれていた呆れや嘲笑は、二度目の問いかけには一切なかった。その代わり、口角はぐっと下がり、眉間に深く皺を作った鋭い眼光がこちらに向けられている。――解せない。と、不満を明確に伝える表情だ。……まったく、これじゃあどっちが主人か分からないね。

 
「……あなた、私の斬魄刀なんでしょ?」
「ああ、そうだ。それが何か?」
「……その問いかけに答えは必要?私の事どこまで知ってるの」
「当たり前の事を聞くな」
「……」
「――知ってるさ。お前が別の世界で生きてた人間だってことも。そこで出会った架空の男に心底惚れているって事も。……その男の為に、命まで賭けようとしていることもな」
「……」
「だからこうして言語化して、問いかけて、お前に突きつけてやってるんだ」
「……」
「愛する男の手で傷つけられて、心を折られて、それでもなお、あの男のことが――」
「大切だよ」
「……」
「大切に決まってるでしょ。何言ってんの、」
「……」
「……当たり前のこと、聞かないでよ」
「……そうか」
「それと。別に私は傷付いてない。私があの人を傷付けることはあっても、その逆は絶対に有り得ない。私があの人に傷付けられたなんて、二度とそんな事言わないで」
「……」
「……悪く、言わないで」


 縋るようなその言葉は、自分でも吃驚するほど弱々しかった。


「……下らんな」
「……」
「そこまで言うなら何故喜ばない。愛する男から信頼を向けられたんだ。お前だって、あの男が他人を易々と信頼するような男じゃないとよく分かっているのだろう?」
「……そうだね」
「では何故、お前の心は折れている」
「……」
「あの男を裏切るしかない自分が、よりにもよってその本人に“傷付けるはずがない”と信頼された事が、そんなに苦しいか?」
「……っ」



「――なら、ハッキリお伝えしときましょう」
「“貴女だから信じている”んです。例え話せない事があったとしても、『朝緋サンはボク達を傷付けるような人じゃない』ってね」
「誰が何と言おうと。それだけは、絶対に」




「…………覚悟が、甘かったんだ」
「……」
「私が傷付けなきゃいけないのは……あの日の彼だけだと、勝手にそう思ってたんだろうね、」
「……」
「あの惨劇を知っていて手を伸ばさない。彼が傷つくと知りながら黙って見てること。それだけが、私の罪になるんだと思ってたの」
「……」
「――あの人の信頼まで裏切るつもりなんて、なかったのに……っ!」


 苦しかった、悔しかった。己の犯す矛盾に耐えきれなくて、死んでしまいたかった。彼らと関わるべきじゃなかったとか、死神にならなくてよかったとか、そんな後悔よりも。私の心を一瞬で蝕み、砕き壊してしまったのは――“愛する彼を裏切りたくはない”という魂の悲鳴だった。心の底から大好きで、誰よりも愛おしくて、守りたくて支えたかった最愛の人。彼の為なら命を賭しても構わないと本気で思っていた私自身が、彼を傷つけるだけではなく裏切ってしまうということを――私の魂が必死に拒んで叫んでいた。私は大馬鹿者だった。相手を傷つけることと裏切ることでは、こんなにも罪の重さが変わるのだと。そんな簡単なことにさえ今まで気が付かずに生きてきた、大馬鹿者だった。

 私に必要だったのは、強くなるための努力でも、未来で起こる惨劇を必要な結末として黙っている決意でもなくて。
 ――彼と、彼の大切にしている人たちを裏切ってでも。私というイレギュラーのせいで浦原喜助が命を落とさぬよう、原作通り進んでいく世界を見守る覚悟だったんだ。


「――“想う力は鉄より強い”」
「!」
「……“半端な覚悟ならドブに捨てましょ”……だったか?」
「……」
「今のお前にピッタリだな」
「……っ、」
「なるほど、あの男は確かに人の機微に恐ろしく聡い男だ。お前のこともよく見抜いているという点においては、お前の半身たる斬魄刀として敬意を表しても良いだろう」
「……っ、そんな、こと」
「ならば、そうやっていつまでも『自分は相手にとっての外側に決まっている』と思い込んだまま、勝手に苦しんでいろ」
「……」
「苦しんで苦しんで、嫌になって。もうダメだと希望を手放してたって構わないぞ。その時は慈愛を持って、お前の命が閉ざされる瞬間をこの場で見送ってやろう」


 蹲って俯いている私の視界に、彼の足先が映った瞬間。ガッを勢いよく頭部を掴まれて、無理やり視線を合わされる。まるで止めを刺される直前の敗北者のように、私はその力に少しも抗う気が起きなくて。されるがままに彼の顔を見据えた。


「裏切ってでも、あの男の命は必ず守る」
「……」
「本当に大切だというのなら、そのぐらい言って見せろ。愛を貫け、折れるな」


 『それだけは、お前にしか出来ないのだから』と。
 瞼が閉じて暗転し、薄れる意識の中で――確かにそう聞こえた気がした。


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