言葉を交わすことはそれほど大切なことじゃあない




 ぱらぱらと雨が降る中で。カン、カン、という聞き慣れた音の中に、ぴちゃっと水溜まりを弾く音が混ざる。泥を吸った雨水で足袋が汚れることを気にも留めず、その不快感すらどうでもいいと思えるのは――耳に響く甲高い音へ、どうしようもなく安堵を感じてしまっているからなのだろう。


「……髪紐、どうしたんスか?」
「ああ。……あの子に私を覚えていてほしくて、置いてきました」
「……なるほど。アナタらしいっスね」
「未練がましいってことですか?」
「違いますって」


 「送りますよ」というたった一言で始まった、なんのときめきもない相合傘。手向けた花の元に傘を置いていく私を見て、合理的な彼はきっと呆れていただろう。けれど、全身びしょ濡れになっている女の隣を、自分だけ傘をさして歩くような男でもないから。彼の提案を二つ返事で受け入れて、霊術院までの道のりを共に歩いた。

 カタカタと震えそうになる手に向かって、精一杯力を入れる。歩く度に胸元が軋むけれど、浅い呼吸を繰り返しているのがバレないように小さく、小さく息を殺して歩いた。ああ。寒い、寒すぎる。雨に濡れることを舐めてたかもしれない。ぐっしょりと濡れたままでどんどん体温が奪われていくのを感じながら、「早く、早く終わってくれ」と時が過ぎるのを願った。

 ――彼の前では、元気に笑っている翡葉朝緋で居たい。裏切る立場でありながら、こんなことを願うのはずるいのかもしれないけれど……いずれ忘れられる存在ならば尚更、笑顔の私を覚えていてほしい。仲間の死に耐え切れず涙を零し、弔いに向かった弱々しい姿など知らなくていい。雨に濡れたからなんだというのだ。同情なんてまっぴらごめんだ。


「浦原隊長、」
「はい?」
「すみません。もう少し近くへ寄ってもいいですか?」
「ありゃ、濡れちゃってました?スイマセン」
「いえいえ。これ以上濡れたってなんにも変わりませんよ」
「――……!」
「そんじゃ、ちょっと失礼しますね」


 そう言って半歩だけ、彼の方へ身を寄せた。……まったく。私はもうずぶ濡れなんだから、あなたが肩を濡らしてまで傘を寄せる必要なんてないのに。そう思って彼を一瞥すれば、たったそれだけで意図を察したらしくハッと目を丸めていた。……あーあ。バレちゃったら気を使った意味がないだろうよ。


「……」
「? どうかしました?」
「……いえ、なんでもないです。まだ歩けそうっスか?」
「はい。問題ないです」
「んじゃ、少し急ぎましょうか。朝緋サンに風邪を引かせてしまったら、輪堂サンに面目が立ちませんからね」
「はは。これくらいじゃ引きませんよ、風邪なんて」


 いつの間にか私に合わせて緩慢になっていた歩調が、少しだけ上がっていく。お互いの肩が触れ合わないよう、身を小さくして隣を歩いた。


「……浦原隊長、ごめんなさい」
「何がっスか?」
「私はあなたから授けてもらった力を、人を傷つけるために使いました」
「……」
「申し訳ありません」
「……」
「……」
「……悪いとは思ってるけど、反省してないでしょ」
「!」
「じゃなかったら、真面目な朝緋サンが自宅待機の命を破るわけないっスもんねぇ」
「……っ、すみません」
「――っふ。そこは嘘でも、反省してるって言わなくちゃ」
「……すみま、せん」


 私の唐突な謝罪に面を食らったように、僅かに目を開いた彼は、しかしすぐに怪しむような視線をこちらへ向けた。口元は僅かに緩んでいて、まるで最初から全部知っているような顔で私の図星をついてきて。面食らって慌てることになったのはこちらの方だった。……ああ、そっか。輪堂先生から聞いてるんだっけ。……聞いてるって、どこからどこまでを?……確かに私は、後悔も反省もしていないから今、ここに居るんだろうけど――


「もう、こういうことは今回限りにして下さいね」
「……え、?」
「朝緋サン。アナタ、この数ヶ月間霊術院で何を学んできたんスか?」
「!」


 ――言葉の意味を理解するのに、少しだけ時間がかかった。


「言ったでしょう。ボクが教えるのは『死神としての戦い方』だけで、『死神としての生き方』までは教えられない、と。――それは、ボク一人だけでは“この世界の理”までは伝えられないからなんスよ」
「……はい」
「――尸魂界には、理屈の通らない……濁流のように逆らうことの許されない“掟”が存在しています。アナタのような地位も後ろ盾もない子が振りかざす正義なんて、簡単に押し潰される世界なんです」
「……」
「それを、他人のために簡単に破るなんて……もう、二度としないで下さいよ」
「……それでも、」
「?」
「守りたいものがあったんです。……それでも、ダメなんですか」


 私が彼らの言葉に憤り手を上げたのは、単に愛する人を侮辱されたからだけじゃない。この人が“守りたかったはずの居場所”を――誇りを、汚されたからだ。いずれ、この浦原喜助はその背に背負っている“十二番隊”を手放す時が来る。それは、彼が時には己の命すら賭す覚悟で守ると決めた、仲間や部下、居場所を――不本意にも手放さなくてはならないということ。それを知っている私だからこそ、あんなにも簡単に下らない世間話で貶されたのが許せなかったのだ。

 でも、そう思うことが出来るのは……この人が“生きている”から。死んでしまったらもう、この人はなにかを守りたいとすら思えなくなってしまう。死んでしまったら……何もかも遅いのだ。私というイレギュラーがいる限り、この世界が正しい道を歩むとは限らない。だから――そうはさせないと、裏切る覚悟を決めてけじめをつけるため、私はあの場所へ花を手向けに向かったのだ。

 ……こういうのを、目的の為なら手段を選ばないというのだろうか。だとすれば、それは彼の常套句のはずだ。……一体どうして、そんな目で私を見るのだろう。


「――あのね、朝緋サン」
「はい」
「自分のことを守れない人に、他の誰かを守れると思いますか?」
「!」


 瞼を伏せた灰緑の瞳が、まっすぐに私の双眸を捉えている。そして咎めるでもなく、ただ言い聞かせるように。落ち着きを払った声で放たれたその言葉は、まっすぐに私の心へと突き刺さった。


「……今回朝緋サンがしたことは、“自分なんてどうなってもいい”と捉えてる人のする事なんスよ。……そんな人が守れるものなんて、たかが知れている」
「……っ」
「上級生に手を出したことも、その怪我であの場所へ向かった事も。どちらも朝緋サンが“自分のことを軽んじている”からじゃないっスか。自分がどうなるかなんて少しも考えちゃいない」


 彼は前を向き、変わらず落ち着いた声でそう語った。
 ……こういう時の彼とは、いつも目が合わない。


「確かに、朝緋サンは自分を守るよりも誰かを守る時の方が力を発揮するタイプでしょう。何かを守ろうとする朝緋サンの“意志の強さ”は、鋼よりも鉄よりも強いと、ボクはよく知ってますからね」
「……そんなことないですよ」
「……だけど、何かを守るための自己犠牲が許されるのは『自分の身を守れる範囲まで』というのを決して忘れないで下さい」
「……」
「そして、その“見極め”も、決して間違えないで下さい」
「……難しいこと言いますね」
「簡単なことだったら、もうとっくに出来てるでしょ?」
「……」
「――まぁ。ボクの弟子なら、出来て当然っスけどね」


 ……そうだね。あなたを師に持つ以上は、戦いに対する矜持も、信念も。受け継いで、同じでなくてはならないだろう。
 ……でもね、


「……守りたいものを守るために、どうしても自分の命を犠牲にしなくちゃいけない時が来たら……どうすればいいんですか」
「――そんな時が来ないようにする。それがボクのやり方っス」
「……はは。みんながみんな、あなたみたいに器用で賢くないんですよ」
「知ってますよォ、そんなこと」


 この人には分からないのだろう。「大切だからこそ、命を賭けてでも守りたい」と思う気持ちが。

 ……彼の理屈は分かる。言っていることも正しいと思う。守るというのは、守りたい人と、守るべき対象、その二つが必要だから。「守りたいものを守るためには、自分が生きていなくてはいけない」という彼の理論は、何も間違ってないと思う。
 けれど、その考えを自分の戦いの信念として掲げられるのは――「自分が生きてさえいれば、守りたいものを守れる“力”がある人」だけなのだ。大抵の人は、自分の命以外に「千の備え」を用意することは不可能だ。だから、自分に出来る最大の策として「命を賭けて守りたいものを守る」という手段を選ぶ。命は犠牲になるけれど、“守りたいと誓った覚悟”は最期まで守れるんだ。単なる自己犠牲ではないということを――この人はきっと、理解出来ないし、理解する“必要もない”のだろう。

 だけど、別に私の考えを分かって欲しいとは思わない。そもそも、私と彼は“分かり合わなきゃならないような関係”じゃないのだ。分かり合って縮めなきゃいけない距離なんて……最初から、私たちの間には存在してないのよ。


「じゃあなんですか。守りたいものを見捨てろとでも言うんですか」
「いいえ。……だから、その時は――ボクを頼ってください」
「!」


 ――分かり合うべき関係ではなくとも。相手を思いやることは出来る。互いを尊重することは出来る。だから私は、漫画に出てきた「浦原喜助」ではなく、“目の前にいる浦原喜助”と向き合ってきたつもりだった。彼の言葉を聞いて、思いを感じて、自分の考えを伝えてきたつもりだった。


「ボクじゃなくてもいい。ひよ里サンでも、誰でも。周りにいる人を頼るんです。自分を犠牲にする前に、他を頼ることを……朝緋サンは、もっと覚えてください」
「……何それ」
「?」
「自分は誰にも頼らないくせに。……頼ってもらえない人の気持ちなんて、考えたこともないくせに」
「――!」
「ご心配頂かなくとも、あなたの弟子はそんなにひ弱じゃないので。守りたいものは自分で守りますし、自分の身だって自分で守ります。こんなに頑固で負けず嫌いの一体どこが、“自分の事なんてどうでもいいと思ってる”っていうんですか? どんなに惨めだって、泥水啜ったって生き延びてやりますよ。見くびらないで下さい」


 頼って下さい、なんて――自分が一番、心を犠牲にして孤独を抱えながら、人に頼らず生きているくせに。そんなあなただから、支えたくて、頼りにしてほしくて……死神になる道を選んで、あなたを裏切る覚悟も決めたのに。その言葉が、どれだけ私を惨めにするのか……この人は少しも分かっちゃいないんだ。それが恐ろしくて堪らなかった。


「ほら、見てくださいよ。雨ももう止んだみたいですし、ここまでで平気です。送って下さってどうもありがとうございました」
「……! 朝緋サン、」
「技局の皆さんにもよろしくお伝え下さい。それじゃ、失礼します」
「……っ、」


 何か言いたそうな彼から体を背けて、歩き出せたのは奇跡だと思う。声を震わせることなく、笑顔のまま別れを告げられたのは頑張ったと思う。自分があまりにも惨めで、眩しい彼の隣をこのまま歩くなんてとてもじゃないが出来なかった。嗚咽を殺し、流れる涙を拭いもせず。ただまっすぐに霊術院への道を歩いた。追いかけてくる気配も、声も、何も聞こえないのが――すべてが予想通りで、分かっていたのにまた涙が流れてくる。……ああ、どうして雨は止んでしまったんだろう。そうすればもう少し、我慢しなくて済んだのに。

 私にたくさんの事を教えてくれるあの眼差しも、どれだけの恐怖と絶望を抱えようとも必ず救い出してくれる落ち着いた声も。多くのものを求め選び取ってきた指先も、期待と責任、孤独を一身に背負う後ろ姿も。のべつまくなしに愛が溢れる、私の世界そのものなんだ。
 けれど、私がどれだけの覚悟を持って愛を貫いても、それは彼にとってなんの意味も成さないことなんだと突き付けられてしまった。そこに傷付いてる時点で、心の奥底で「彼に愛されたい」と惨めにも思っていたことに気がついてしまった。それが悔しくて悔しくて堪らなくて、涙は一向に止まらない。
 ……何が「どんなに惨めだって、泥水啜ったって生き延びてやる」だ。私には最初から、その道しか選べないだけなのに。



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