蝉
ぶくぶくと水中に深く沈むように尾形百之助と言う愛が苦しかった。
愛してくれているのはとても分かる。今までだって、無表情ながらにもその愛が私に注がれている事は分かっている事なのに…その愛が苦しかった。息が詰まる程に。
結婚してからこの男は私に外出をするなと命令をする。何故かと聞けば「お前が取られそうだから」と夜の闇を圧縮させた瞳で、感情を抑えているかのような無表情で静かな声色で告げた。必要な物は男が全て揃えた。私の趣味に合うものを全て。全てだ。
「お前のことなら全て知っているからな」
前髪を撫で上げて不屈に笑う男に何を言っても無駄だと知った。
あれからどれくらいの時間が経っただろうか…。分からない、生易しい監禁状態にされていた私は時間の感覚さえもとうに失ってしまっている。
「…私、死ぬまでここに」
居続けなければいけないのかなと心の中につぶやく。全て言ってしまったら、本当にそうなりそうで怖かった。唇を噛み締めてここから出る方法を模索する。夫が帰ってくるのは夜の二十一時だ。今はまだ十七時。今から出れば鉢合わせにはならないだろう。
妻である女はバックに必要な物だけ詰め込むと玄関の鍵を開けてカチャとドアを開けた。どうやら百之助は私が逃げることを想定しなかったのかすんなりと開くドアに驚きながら恐る恐る外へ出る。玄関に私の靴は無く裸足で夏の日差しの熱が帯びる地面へと足を付けた。
「…うっ」
熱い、暑い、足の裏がじんわりと熱を感知し悲鳴を上げていた。しかし、ここで燻っているわけには行かない。悲鳴に気付かないように走って、息が切れたら歩いてを繰り返して周囲に交番や警察はないかと探すが無い。ミーンミーンと蝉の鳴く声が私の焦りを助長させていく。
結婚してから、寝ている間に新居へ連れて行かれてここが何処なのかも分からぬまま過ごしていたからか方角や、周りに何があるのさえも分からないまま景色を追い越すために足を運ぶ。あの家が見えなくなるまで、一軒家と言う牢獄から抜け出す為に。
「…はっ、はぁ、どうして、民家さえも見当たらないの…?」
三十分は走り回っただろうか。人の気配すら民家さえそしてコンビニさえもない。見つかったとすれば、雑木林と車が走ったと思われるタイヤの跡がこびり付く道だけ、車が無ければここは不便なのだろう。逃げるのも疲れて、足も小石などで傷を付けられて靴下が血に染っていた。道の脇で座り込み空を見上げて笑う。
「…逃げられないってこと」
用意周到に張り巡らされた監禁に必要な立地、そしてそれを実現出来るほどの富を尾形百之助は準備をしていたのだろう。そして、それが実現出来ると私に結婚を申し立てたという訳なのかと身をもって知らされた。
女が絶望の縁の中で考えていると車のエンジン音と砂利を巻き込み進んでこちらへ来る人の気配を感じる。もしかしたら、助けてくれるかもしれない。一筋の光が瞳に宿りながら立ち上がり道の真ん中へ立って待つ。車の姿が見えて来た。
「たすけて…!私監禁されているんです…!」
喉が枯れながらも声を出す。車がキッとブレーキを掛けて止まるのを確認すると運転席側の窓に女は駆け寄り、運転席に座る人物を目に捉える前に口を開こうとしたがガシッと窓から伸ばされる腕に女は避けようもなく捕えられる。見覚えのある腕時計、見覚えのあるその手、そして驚きながら腕の主を見ると女の夫である尾形百之助がそこに居た。
「あっ、あっ…」
「よお、久しぶりの散歩はどうだった?」
ニコリと笑いながら告げる夫に体が固まり動けない妻である女。一旦、腕を離し運転席側のドアを開け、百之助は妻を中に引き込み自身の上へと乗せると車を発進させる。
「いやだ、降ろして!…やだ!離して!」
腰に回された手と笑顔のまま運転を続け何も動じない夫に妻は声を上げ続けるがそれが無駄だと分かると目を閉じてこの先起こるであろう苦痛を覚悟した。
セミが鳴いている、元気に鳴いている蝉の声の中にジジジと息絶えるかのような声が混じっている。その声がいつまでも頭の中で再生されていた。