愛
愛なんていらない。只、温もりだけが欲しかった。人の温もり。一人では体験出来ない誰かが居て初めて手に入る物。愛に狂わされる人間なんていくらでも見てきた。最初は親、次は友達、見知らぬ人間。次々と展開される昼ドラ模様。こんなのはテレビの前で見るだけで良かったし、実際にそれを私がしてみたいなどは思ったこともなかった。
ダルい身体を起こそうとする。男の腕が身体に纏わりつく。それを冷めた目で退かして慣れた様子で男の家に置いてある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し飲み始めた。もうそろそろこの男とも終わりにしよう。燃え上がった気持ちなど一度もないままセフレの関係にあるこの男。尾形百之助の寝顔を遠くから見ながらそう思った。セフレとも言うが私もこの男も特定の人は居ない。ただ単に寂しいから痴態を見せあって絡み合う仲なだけで疚しいことなど一つも無かった。
「…起きたのか」
「勝手に水飲ませて貰ってるよ」
「別にいい、お前が飲むだろうと買ってきただけだから」
目が覚めていないのか、寝ぼけ眼でこちらを見ながらそう言った。寝起きだからか尾形の低い声がもっと低く感じられてどこか切なそうな響きを含んでいる。立ち起きると私の方へ近付き腰を抱きしめられる。
「どうした」
「…いや、なんでもないよ」
何か言いたげな顔をしたかと思えば前髪を撫で上げて「そうか」と答えて飲みかけのペットボトルを奪い去り水を奪って飲んでいく。水を飲む際に喉が鳴り動く姿を見つめた。飲みきれていない水が口の端から垂れて喉に垂れる。それがとても官能的でこれ以上見つめているとおかしくなりそうで目を逸らし外に出る準備をする。これ以上この男と一緒に居るといらない物が芽生えそうで怖かった。燃え上がる心などもうないと言うのに心がそう訴えかけるのだからおかしな物だなと自分自身に乾いた笑いを落とした。
あれから、尾形とは連絡を取ってはいるが会ってはいない。元々、身体を寄せ合ったにしても付き合ってはいなかったから、このままフェードアウトして行くのもいいだろうと考えていた。あっちも大人でこっちも大人でそれぐらい察して欲しいと言う気持ちが強かったってのが一番の理由だ。
「あの…隣いいですか?」
「あぁ、どうぞ」
仕事休憩時間に近くに構えてあるカフェに私はよく通っていた。いつもの様にホットティーを頼み、その時に食べたい物と合わせて窓際に座り食べるのが私の日常生活の一部。ある意味儀式なのかもしれない。今日も今日とてカフェに居ると人が混んでもいないのに何故か私の隣に座ってきた。
「あの、いつもここに座って飲んでますよね?」
「はい」
ナンパだろうか。いじらしく机の上に置いたアイスコーヒーがたっぷり注がれたグラスを両手で押さえて下を向きながら私に話す。こういうタイプは正直苦手で、しかもお気に入りのお店だから問題を起こしたくはなかった。笑顔で相槌をして要件を促す。
「何か私に用でも?」
「俺と連絡先交換してくれませんか!」
「それぐらいならいいですよ」
使わないメアドのアドレスを教えるとアイスコーヒーを一口も飲まないで去っていく男に唖然としながらも見送るとカフェの店員さんが私を見て微笑んでおり、何処か居心地の悪さを感じてため息をつきながら残りの物を口に入れる。マカロンを口に入れても味気がなく感じてしまい色々と苛立ちが走っていく。
次の日もその次の日も彼はカフェにやってきて、たわいの無い話を嬉しそうに話しかける。何が面白いんだろう。そんな表情を変えながら話す男の姿が少し疎ましかった。尾形とは大違いだ。話さなくても穏やかな時間は過ごせるのに、この男は沈黙が怖いのか話し続ける。疲れないのだろうか。
「あの、無理に話さなくても大丈夫ですので…っ」
言ってしまって、しまったと思った。その言葉を聞いて何処か男はうっとりとした表情を浮かべていたから。男から手を掴まれて悪寒が走る。やばい、変なスイッチ入れてしまった。
「そう言ってくれるなんてやっぱり貴方は俺の事理解してくれているんですね。貴方は俺の話を黙って聞いてくれて理解してくれようとしている。」
いや、違う。黙って聞いているのは話すことなどは特にないからであって聞きたいからではない。その後も手を掴み、愛の囁きを私に投げつける男の姿を見て否定の言葉を口に出そうとすると
「俺の女に何をしてやがる」
尾形がグラスに注がれた水を男に向かい垂らす。何でここに尾形がいるのだろうとか久しぶりだねとか困惑する中、男から私の手を奪い去ると店から私を連れ出した。何処か怒っているかのように見えて口を挟めないまま尾形の家へ連れ去られる。
家の中に入ると沈黙が広がる。久しぶりに感じてしまう辺り最後にここに来てから月日は長く流れていたのだろうか。緊迫した状況が続く中、私を抱き締めた。
「尾形…?」
呼び掛けても何も答えない。
「助けてくれてありがとう。あのままだったら私何かされてたかもしれない…セフレの関係なのに助けてくれるなんて優しいんだね」
「セフレ…?」
尾形はその言葉を聞くと怒りに震えた低い声で疑問を発する。抱き締めていた腕が離れて顔を覗き込む表情は怒りだ。その形相にびくりと身体を震わせると私の頬をゆっくりと指で撫ぜながら
「俺はそんな事一度も思ったことない」
と私に伝える。セフレだと思っていなかった。じゃあ私と絡み合っていていた時間って何なんだろう。どくんと痛む胸の鼓動。尾形の顔を見ながら胸を押さえる。一度自覚してしまうと理解してまうとそれがずっと麻薬のように頭にこびり付いて離れないことは知っていた。それが嫌で私はセフレの関係が良かったというのに…なのに、愛しげに見る尾形の視線を逸らせずにいる。
「ようやく自覚したのか馬鹿女」
私の手を取り尾形の頬に当てられると愛しい声で私に囁いていく。胸が痛い、身体が熱い、顔も熱い。こんなの知らない。愛なんていらないのにと迫る心に尾形はそれを冷まさせる事はしてくれないまま言葉を繋ぐ。
「俺の物にようやくなったな」
腰を引き寄せて身体に密着する尾形の体温もとても熱く、私の耳に届く高鳴る鼓動が私の胸を焦がしていった。