今日はチョロ松が職場まで迎えに来てくれることになっている。夜道を歩く私を心配してだそうだ。チョロ松もそんな彼氏っぽいこと出来たんだなって、驚くやら嬉しいやら気恥ずかしいやら。…なのに、仕事が全然オワラナイ。
もう六時も四分の三を回っている…しかもこんな日に限って家にスマホを忘れてくるという大失態。どうしよう、一度外に出て、待ってくれているはずのチョロ松に事情を説明して帰ってもらおうかな、今日は時間かかりそうだし…残念、だけど。
あ、私、残念に思ったりするんだ。自分でも驚き。
そうと決まれば、片付け中の仕事をそのままに、貴重品だけを持って事務所を出た。非常階段を駆け下りて、ビルの自動ドアまで小走りに向かう。多分、外で待ってると思うんだけど…。外に出てきょろきょろと確認してみると、近くの花壇の縁に腰掛けている見慣れた緑パーカーを見つけた。
「チョロ松っ!」
「あ、お疲れ様。帰れる?あれ、荷物は?」
「あ、それが…、仕事が思うより長引いてて…今日はもう少し残ることになると思う。だから、」
「じゃあ、そこのファミレスで待ってるよ」
「え、あ、そうじゃなくてっ」
「お前、もしかして今日携帯忘れて来た?全然連絡取れないから心配してたんだけど」
「あ、うん、家に…。いや、じゃなくて!」
「言っとくけど、帰れとか一人で帰るとかは無しだから」
「…でも、何時になるか、分かんないし」
「だったら、なおさらでしょ」
きっぱりと言い切ったチョロ松は、少し不機嫌な顔だ。そのまま腕を持ち上げたので、身構えてしまう。けれど、予想した痛みなんか来るはずもなく。ぽん、と優しく私の頭に乗ったのはチョロ松の温かくて大きな手。繋ぐたびに思うけど、チョロ松って指が長くて、意外と手のひらが大きい。私の手を文字通り包み込むみたいな手なのだ。それに凄く安心してしまう私は、意外とちょろい女なのかもしれない。
「ほら、もうひと頑張り。片付けておいで」
「チョロ、松…」
「終わったら、ファミレスで飯食ってく?」
「…うん」
「ん、じゃあ、待ってるから」
チョロ松の手が、わさわさと無造作に頭を撫でて離れていく。名残惜しいな。でも、私も仕事が残っている。せっかくもらったチョロ松からのエールを無駄にしないためにも、事務所に戻った私はペースを上げて仕事に取り組んだ。
同僚や上司が次々と帰宅する中、私は一人パソコンに向かってカタカタカタ。なんで私だけこんなに終わらないんだろう。…その全ては今出張中の聖澤部長のせいだ。出張前に終わらなかった急ぎの仕事を私に押しつけて出張に出やがったのだ。なに考えてるか分からんイノセントな顔しやがって。出張先に持って行けばいいのに、なんで私が被害を被らなければいけないのか。社会って理不尽の上に成り立っている。
「はあー…終わんない…」
「大変そうだね」
「っふぉ!?」
誰も居ないと思って言った独り言に返事があって、私は飛び上がるほど驚いた。急いで振り向くと、そこに立っていたのは、人好きのするにこやかな笑顔の梅竹さん。彼は、現在うちの職場に監査に来ている公認会計士さんだ。彼もこんな時間まで仕事だろうか。
「すまない、驚かせてしまったかな」
「お疲れ様です。いいえ、私のほうこそすみません、お見苦しいところを…。まだお仕事ですか?」
「いいや、終わって帰るところだったんだ。ここだけ電気がついてたから、誰か居るのかなと思ってね。残業?」
「そうなんです、ちょっとやることが多くて」
「みょうじさんは仕事熱心だね」
そう笑って、私の隣の席に腰掛けた梅竹さん。例の食事相手である公認会計士というのも彼のことだ。そうだ、そういえばまだちゃんと断りの連絡を入れてなかった。
「仕事、何時に終わりそうかな?もし良ければ、この後ご飯でもどうだろう?ほら、前回行けなかった店、今からでも予約が取れると思うんだ」
「あの、そのことなんですけど…」
「ん?」
「お誘いは大変嬉しいんですが、えっと私…彼氏、が出来まして…それで…」
「…ああ、なんだ、そうだったのか…、じゃあその彼氏に他の男と出掛けるなって言われたわけだね?」
「は、はい…ですので、その、お食事の件は残念ですけど、お断りさせて頂きます…すみません」
「そうか、フラれちゃったな」
「そんな。梅竹さんをフったなんてなったら、世の女性たちになにされるか…」
「ハハハッ!みょうじさんは面白いこと言うね」
どうしてこんな爽やかイケメンで仕事も安定した彼が、いち部署の私なんかに声を掛けたのか分からないけど、彼なら引く手数多だろうし、私一人が食事を断ったくらい屁でもないだろう。フラれちゃったなんて冗談を言えるくらい余裕のある大人の男だ。今更ながら、なぜ私だったのか。あ、いや私なんかは彼が声を掛けた数多くの内の一人にすぎなかったのかもしれない。
「それよりも仕事、僕でなにか手伝えることはあるかな?」
「あ、いえ…書類の作成なので」
「印刷してまとめたりは?」
「ありますけど、書類ももう終わりかけですし」
「じゃあ出来てる分だけでも印刷してまとめるよ。サーバーには上がってる?」
「あ、上がってますけどっ、まさかそんなことさせられませんよ!」
「なにに必要な書類なの?」
「それは、明日の会議ですけど…」
「ああ、朝一であるっていう会議だね?僕も参加することになってるんだ。だから中身を見るのも問題はないよ」
「あ、いえべつに内容の心配とかじゃなくて…」
「じゃあ他に心配なことはないね。みょうじさんも早く帰りたいでしょ?」
梅竹さんの言葉にチョロ松の顔が浮かぶ。時刻はもう午後の八時を回ろうとしている。彼は律儀に今もファミレスで待っているのだろう。ご飯を食べる約束もしているし、あまりチョロ松を待たせるのも可哀想だ。
「…それじゃあ、お言葉に甘えて…」
「そう言ってもらえてよかった。じゃ、みょうじさんは引き続き書類を作って、僕は印刷してまとめるから」
笑顔で大きく頷いた梅竹さんが、空いてるデスクのパソコンを操作して書類を印刷して行く。印刷する前に確認もしてくれているらしい、誤字の指摘をされたときはヒヤリとしたけど、笑って直して印刷してくれる彼は出来る大人だ。
梅竹さんのおかげもあって、今日中に終わるのかすら心配に思っていた作業がなんとあれから三十分で終わったのだ。なんという奇跡。
「っはあー!ありがとうございます!!ほんっとうに助かりました!!」
「なんのなんの、片付いてよかった」
爽やかに笑う梅竹さんと事務所の施錠をしてビルを出る。ちらりと通りの向こうに見えるファミレスの窓はまだ明るい。チョロ松、怒ってないかな。
「本当に梅竹さんのおかげです。ありがとうございました」
「いえいえ、困ったときはお互い様。…あ、でもなにかお礼したいと思ってくれるなら、一緒にご飯、とかがいいな」
「えっ?!」
「…っふ、なんてね。冗談だよ。気にしなくていいよってこと」
「あ、す、すみません」
「それじゃあ、帰ろうか。僕車なんだけど、家まで送るよ」
「いえ、そこのファミレスに人を待たせているので」
「もしかして彼氏さん?」
「…はい、まぁ」
「そうか、じゃあ僕は馬に蹴られる前に帰ろうかな」
「お、お疲れ様です!今日は本当にありがとうございました」
最後まで爽やかに、梅竹さんは駐車場のほうへ歩いて行く。それを見送ってから、私はすぐさまファミレスへと走った。
□
「ごめん、チョロ松!」
「おう、お疲れ様」
窓の外からチョロ松が座る席が見えたので、店員さんに断りを入れて店内を急ぎ、チョロ松の目の前の席へと滑り込んだ。チョロ松は、ドリンクバーを頼んでいたらしい。テーブルにはカップとグラスが並んでいる。
「遅くなって本当にごめんね」
「いいって、仕事なんだし。それで、仕事は片付いたの?」
「うん、おかげさまで」
差し出されたメニュー表をさらっと見流して注文を決め、呼びボタンに手を伸ばしてチョロ松を見る。
「チョロ松は決まってる?」
「ん、ステーキセット、ライスと味噌汁」
「わぁ、遅いのにがっつり食べるねぇ」
「こんなところでなきゃ食べれないしね、お前は?」
「私は野菜ときのこたっぷり雑炊」
「それすぐ腹減らない?」
「全然?」
「ふぅん…女の子って不思議…」
「…ふ、ふふっ」
「え、なに?」
「ううん、なんでもない!はい、頼みますよー」
「?はーい」
女の子。女の子だって。チョロ松がしっかり私のことを女の子だって認識してる、それが自然みたいに話してくれる、それだけでなんでこんなに嬉しいんだろ?うわぁ、まるで恋する乙女みたい。気持ち悪くなってきた。
注文したメニューが届いて食べ始めると、自然と会話は無くなりお互いがご飯に集中してしまう。私はこういう時間が好きだ。実家でも食事中は静かにというのがみょうじ家の暗黙のルールだったから、会話の有無は相手に任せるけど、自分から率先して話しをするタイプじゃない。だから、こういう沈黙の時間で気まずくならない相手はとても有難い。
と思っていたら、ステーキプレートの上の人参をフォークで転がしていたチョロ松が、おもむろに口を開いた。
「ところでさ、さっきの男、だれ?」
「…っん、さっきの?」
「うん、ここからお前のビルの出入り口見えてたからさ」
「んー?…ああ、梅竹さんか」
「梅竹?」
「うん、あの人に手伝ってもらって仕事を早く済ませられたんだよ」
「じゃあ、同僚?」
「ううん、うちの会社に監査で来てる公認会計士の人」
口にしてからマズったと思ってももう遅い。
「はあ?それってもしかして、前言ってたやつと同じ男?」
「えっと、はい、そうです…」
「ぼく言ったよね?会ってほしくないって」
「で、でもですねチョロ松さん?今日は本当にたまたま会っただけで、あ!ちゃんと食事の件は断ったし!」
「当たり前だろ、なに言ってんの?」
「はい、すみません」
怖い、チョロ松が怖い。目がマジだ。マジすぎる。
「お前ね、ぼく言ったよな?危機管理能力が低いって」
「あー、確か昨日電話で」
「言ったよね?」
「言いました。聞きました。はい」
「なんでお前のこと狙ってる奴と一緒に会社から出て来るの?職場に他の奴居た?」
「…………」
「居なかったんだ…。なんで二人きりになるわけ?なんもされなかったよな?」
「それは!もちろん!」
「元気よく言うな、当たり前だから」
「はい…ごめんなさい」
じゃあどう言えばよかったんだろう。いや、こいつのことだからどうせなにをどう言っても突っ掛かってくるに違いない。間違いない。
「なまえ」
「は、はい!?」
「ぼくは心配してんの」
「…うん」
「お前みたいなちょろそうな奴は、簡単に攫われて強姦されてボロ雑巾よろしく捨てられるんだよ」
「えー、そんな…」
「ここからでも分かるほどの爽やかイケメンってやつ?ああいう奴こそ性格歪んだサイコパスなんだよ」
「いや、梅竹さんはそんな人じゃ…」
「あ゛あ゛?」
「サイコパスです」
怖い。嘘でしょ、なんで付き合った途端こんな束縛されなきゃいけないのかな?うう、すみません梅竹さん、あなたサイコパスになりましたすみません。
気まずい空気の中、食事を終える。こんな時間は大嫌いだ。ご飯も美味しかったはずなのに、味も憶えていない。
沈んだ気持ちでファミレスの代金を払おうと会計に向かう。チョロ松を待たせたのは私だし、なんか機嫌悪いしここは奢っておこう。ニートの彼氏に払わせるのもね…あれ、ニートの彼氏って響きやばくない?私の人生今後大丈夫なのかな。
一抹の不安にぼんやりしていると、突然後ろからそこそこ痛いチョップを食らった。なにしやがる、と頭をおさえて振り返ったときには、もうチョロ松は会計にお札を出していて、私がなにかを言う前に、手を引かれてファミレスの外へと連れ出されてしまっていた。
「ちょっとチョロ松!待たせてたの私なんだから、私が払うって!いやせめて自分の分払うから!」
「いいって。あの状況でぼくが奢られるとか有り得ないだろ」
「いや、そんなこと無いと思うし、自分の分払うくらいは全然!体裁とかそういうの全然大丈夫だから!」
「黙れ」
「いえっさー!」
なになに、まだおこなの?チョロ松今日ご機嫌ななめなの?やっぱり待たせすぎたのかな、それで怒ってるのかな。次から迎えは断ろう。
「明日も迎えに来るから」
「へ!?え、なんで?だって、今日みたいに遅くなるかもしれないんだよ?」
「お前何回言ったら分かるわけ?普通、彼女を夜道一人で歩かせる?」
「今までは一人で帰ってたし…」
「今はもうぼくが居るでしょ」
そう言われてしまえば、確かに。そうなんだけど、それはそれで凄く申し訳ない。いくらチョロ松がニートとはいえ、彼にだってそれなりに用事というものがあるはずで。その時間を私に割くっていうのも。
「もしかして、申し訳ないとか思ってない?」
「……思ってる」
「バカだろお前」
駅の改札を抜けて、私の家の方面に向かう電車に乗り込む。帰宅ラッシュも終わって、電車内は人もまばらだ。
「申し訳ないと思うなら、もっとぼくに頼って」
「…チョロ松、」
「もう、心配でどうにかなりそうだよ。お前は危機管理能力が極端に低いし、一人でなんでも出来るって思ってるところあるし」
「チョロ松…ちょっと…?」
如何に人がまばらでも、居ないわけではない。なのにチョロ松と来たら、電車の扉に腕を突っ張って私を閉じ込めたのだ。あれれ?ここは公共の場ですよ、松野チョロ松さん?
「だから、これからは仕事の日は毎日来るから」
「でも、待たせるの悪いし…」
「じゃあ仕事の目処ついたら連絡ちょうだい」
「いや、追加で頼まれたりしたらやっぱり時間ずれるしさ、チョロ松だって忙しいだろうし」
「ニートになに言ってんの?馬鹿にしてる?」
「働いてくださいチョロ松さん」
「ヒモを飼いませんかなまえさん」
「ちょっと死んでもらってもいいですか?」
「来世もニートだと思います」
「救いようないな」
そんなことを話しているうちに、私の家の最寄り駅に到着。扉が開くのと同時に手を引かれて、あれよあれよと言う間に改札を出る。チョロ松は何度か他の松たちと家に来ているから、私の家は分かると思うけど、それにしたって急ぎ足がすぎると思うのだが。
「チョロ松っ、ちょっと、早い!」
「っ、あ、ごめん、つい」
チョロ松が立ち止まっても私は勢いを殺せず、そのままチョロ松の肩に顔面をぶつけてしまった。
「え、大丈夫?」
「…いだい」
強かに打った顔をおさえて立ち止まると、チョロ松がおろおろしながら顔を覗き込んでくる。本当に痛いのと、ちょっと強引すぎるところを反省してほしくて軽く睨んだら、予想以上に汗をかいて落ち着きがなくなってしまった。視線がうろちょろして挙動不審。なんだかこちらが申し訳なくなるくらいだ。
「ご、ごごごごめん…っ」
「…もう大丈夫だから、いいよ」
「ほんとに?本当に大丈夫?腫れたりしてない?」
「本当に大丈夫だって、赤くなってる?」
ん、と顔を突き出して見せると、なぜかチョロ松の顔がボッと赤くなってしまった。え、どうした?
「チョロ松、顔赤いけど」
「バッ!!お前が、そんな不意打ちするからだろ!?」
「え、不意打ち…?」
「もういいから!帰るぞ!」
訳の分からないまま、私はまた強引に手を引かれて歩き出す。まったく、チョロ松はときどき意味が分からない。
無事アパートに到着し、玄関前でバッグの中から鍵を取り出す。そのままガチャリと開ければ、やっと我が家にご帰宅だ。
「ん、じゃあぼく帰るから」
「え、お茶くらい出すよ?」
「………」
いや、え、なんで今睨まれてるんだろう。ちょっと今日のチョロ松難しすぎて訳分かんない。
「あの、チョロ松?」
「…じゃあ、お邪魔します」
「?どうぞ」
玄関を通って靴を脱ぐ。あーお風呂入りたい、でもその前に着替えて、あ、チョロ松にお茶出さなきゃ。
「適当に寛いでー。麦茶でいいかな?」
部屋に入ったチョロ松は、突っ立ったままで返事がない。まるで電池が切れたみたいだ。
冷蔵庫から水出しの麦茶を取り出した辺りで疑問に思い、近づいてみたら目まぐるしく景色が変化した。勿論なにが起こったか分からず混乱するも、混乱、なんて言葉が浮かぶ前には状況を理解していた。ベッドのスプリングがギシリと二人分の重さで鳴いたのを聞いたからかもしれない。
なぜかは知らないが、チョロ松に押し倒されている。下は柔らかな布団。照明はチョロ松に遮られて、視界は暗い。
「……え、?」
「なまえ、」
危機管理能力の低さについて
ちょっと話し合おうか
(2016.07.26)