ふわふわとした非現実的な世界から、ゆっくり現実に引き戻される感覚。起きなきゃとは思っても、意識はまだ微睡みを貪って、温かな布団の中に体を押し込めてしまう。
「なまえ、起きなくていいの?」
あー、チョロ松の声だ。そうだ、昨日チョロ松が寝ちゃってたからそのまま泊めちゃったんだった。しっかり起こさなかったこと怒ってないかな、まぁでも寝てたんだし憶えてないか。
喉の奥から自然と唸り声が出て、眠い目を隠しながらチョロ松の声がしたほうを向く。寝起きの顔を晒すのは抵抗があるけど、返事くらいはしないと。
「…いま、なんじ」
「六時半。起きる?」
「…おきる」
「おはよう」
「……ぐぅ」
「起きないとテキサスクローバーホールドするよ」
「おはようございますちょろまつさん」
うー、まだ全然頭が起きてないのに。無理矢理体を起こしてベッドにべたりと座り込む。欠伸をひとつ。六時半なのにチョロ松起きれるんだなぁ、ニートだから昼まで起きないと思ってた。ていうか、テキサスなんたらってなんだろう…。
「…おはよう、チョロ松…早いね」
「おはよう、まぁね…(二時から起きてるし)」
「朝ごはん食べるでしょ」
「その前に顔洗って来いよ、ひどい顔だぞ」
「めんぼくない」
彼氏の前に晒せる顔じゃなかったですよね、すみません。のろのろ起き上がって、ふらふらしながらなんとかお風呂場の前にある洗面所に辿り着く。ん?お風呂場のガラス戸が曇ってる?
「チョロ松、お風呂使ったー?」
「…起きたときに、シャワー借りた」
「そっか、タオル出しておいたの分かった?」
「ん、助かった」
チョロ松が寝てしまったあとに、このまま泊まるなら朝にシャワーを浴びるかと思って、分かりやすい位置にバスタオルを出しておいたのだ。無駄な気配りかと思ったけど、役に立ったようで良かった。
顔を洗って、髪を少し整えてから洗面所を出る。チョロ松はベッドを背もたれにして朝のニュース番組を見ていた。
「朝はパンでいい?」
「うん」
「冷凍のクロワッサンがあるので、それを食べよう」
「うわぁ、朝からクロワッサンとか食べたことない」
「スクランブルエッグとサラダとウィンナーもつけます」
「朝から豪華かよ?!」
こんな朝早くでもチョロ松のツッコミは健在らしい。なんか安心した。
テキパキと朝食の準備をして、ポットに紅茶を淹れる。それらを小さいローテーブルに二人分並べると、なんだか本当に豪華な装いだ。
「チョロ松、足りる?」
「充分だよ、こんな豪華なのうちじゃ出ないし」
「…ちょっと頑張りすぎたかも」
「食べていい?」
「うん、食べよう食べよう!よし、いただきます」
「いただきます」
ローテーブルを挟んで向かい合わせ、律儀に両手を合わせてお辞儀したチョロ松に倣って、私も手を合わせてお辞儀する。なんだか、いいなこの時間。ずっとこうやって二人一緒に居たような気がしてくる。前までの自分たちを思えば、そんなわけないのに。
「あのさ、」
「ん?」
「お前、昨日の夜のこと憶えてたりするの…?」
「?チョロ松が寝る前のこと?寝た後のこと?」
「……ぼくが起きたときのこと」
「え?朝?私なんかしたの?」
「アッ、なんでもないです。察しました」
「えっ、なになに?気になるんだけど!?」
「紅茶はやっぱりアールグレイデスヨネー」
「いや、それキャンディ茶葉…じゃなくて!」
それから私がなにを言っても、チョロ松はそれ以上なにも言ってくれなかった。なんなんだいったい。寝ぼけてなにかやらかしてしまったんだろうか…、でも今までそんなの言われたことないから、変なことはしてないと思うんだけど。……まぁいっか、チョロ松のことだし、どうせくだらないことだろ。
「あ、そうだチョロ松」
「なに?」
「スマホが見当たらないから、今日も連絡出来ない」
「え、なくした?」
「うーん…家にあると思ってたんだけど…」
昨日探しても出てこなかったし、今日の朝もアラームの音は聞こえなかった。静かな目覚めを味わえたのは嬉しかったけれど、携帯電話が無いのは非常に困った事態である。
「もしかしたら会社にあるかもしれないから、あったら連絡する」
無かったら、それ相応の手続きとか紛失届とか出さないと駄目だよね。個人的には無きゃ無いでいいんだけど、連絡取れないのって社会的に凄く困るんだよなぁ。会社からは連絡入らないだろうけど、友達の連絡先とか控えてないし…やっぱり困る。
「電話してみようか?」
「じゃあ、ご飯食べてからお願いします」
「ん、分かった」
少し豪華な朝食を終えて、私が出勤準備のため、脱衣所で着替えたり化粧をしている間に、チョロ松が私のスマホに電話を掛けてくれた。けれど結果は空振り。良い人に拾われたんなら、電話に出てくれるだろうけど、それ以外は望み薄だったし、予想どおりと言えばそうだ。
「今日事務所をよく探してみる」
「うん、見つからなかったら今日一緒に警察と携帯ショップ行くよ」
「ありがとう」
「今日も同じ時間に行くから」
「分かった」
出勤準備を終えた私と、なにも準備するものがないチョロ松は一緒に玄関を出る。鍵をしっかり掛けて、よし準備完了。今日も頑張りますか!
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「あはは、チョロ松もいってきますでしょ」
「え、ぼくここに帰って来ていいの?」
「あ、そうか」
私の家なんだし、チョロ松が「いってきます」もおかしいんだ。いってらっしゃいも変に感じるけど。
「あーいい天気だなぁー」
「本当だねぇ」
「…こういうのいいね」
「んー?」
「同じ家から出て来て、朝の時間を一緒に歩くの。ぼくたちリア充だよね、今」
「そうだね、なんか満たされてる感じするかも」
朝日を浴びながら、恋人と一緒に駅への道を歩くって、なかなか幸せな時間かもしれない。ていうかチョロが恋人って。今更だけど、やっぱりなんか違和感というか逆にしっくりくるというかなんというか…なんて表現したらいいのかな。
「え、なに笑ってんの?」
「えっ、私笑ってた?」
「笑ってるっていうか、ニヤニヤしてるよ、今も」
「うわ、マジか」
両頬をおさえて、ぐりぐり回してみる。ニヤけよおさまれ!てかなんでニヤけるかなぁ
「っふ、ちょ、笑わせないで。なにしてんの?」
「笑わせようとしてない!」
「変顔してたのに」
「変顔してないのに」
「あ、今もしてるね?」
「今はなにもしてないじゃん!!」
なんだこいつ!普通にからかってきやがって!むくれると、片手で両頬を掴まれた。また変顔って笑うし、これはお前のせいだ!そんな抗議も今の顔じゃ笑われるだけだった。クソが!
「うわ、人多いな」
「通勤ラッシュだし」
駅前に着くと、それまではまばらだった人通りも、どっと数を増す。チョロ松は通勤ラッシュなんて味わったことないんだろうな。なにも用事が無いなら無理してこの時間に帰らないほうがいいよね。
「チョロ松、喫茶店とかで少し時間潰してから帰れば?一時間もすればラッシュも落ち着くと思うし」
「え、お前は?」
「私は出勤しなきゃいけないもん」
「この人ゴミの中、乗るわけ?」
「いや、当たり前でしょ。毎日のように乗ってるし」
「………ぼくも行く」
「えっ、混んでるよ?本当にぎゅうぎゅうだよ?」
「ほら、早く行かないと遅刻するだろ」
「う、うんっ」
本当に大丈夫かな、人混み見た瞬間顔面歪ませてたのに。そんな私の心配なんか意に介さず、チョロ松は私を引っ張って満員電車に飛び込んでしまった。
運良く奥の扉前に体を滑り込ませられて、チョロ松は私を周りの人混みから守るように腕で囲ってくれた。息もしやすいし、中央で押し潰されるよりはずっと楽だけど、これってチョロ松が全部ダメージを負ってくれてるってことだよね?
「チョロ松、大丈夫?無理してない?」
「無理してない。こういうのはライブで慣れてるし…うおっ?!」
急にぎゅうっと押し寄せてきたチョロ松。勿論押し寄せてきたのは人波のほうだ。駅員さんが乗り込み口で押したのだろう。最初アレを見たときは、本当にやるんだ!ウケる!と笑えたのだけど、今じゃもう笑えない。乗客全員が真顔なのも頷ける。
「ごめん、大丈夫?」
「大丈夫、てかごめん、チョロ松のパーカーにファンデついたかも…」
「いいよ、気にしなくて。苦しくない?」
「平気」
背中は扉、目の前にはチョロ松。これって昨日とまったく同じシチュエーションなんだけど、今日は昨日と違って安心感と頼もしさを感じている。チョロ松ってこういうことをすんなり出来たんだなぁ。なんで今までモテなかったんだろ…アッ、ニートだからか。
電車が動き出し、それに合わせて人の群れも僅かに揺れる。いつも息苦しくて蒸し暑い満員電車だけど、今日は全然不快じゃない。私が今感じるのはチョロ松の匂いと、守られてる安心感。揺れれば倒れないように気遣ってくれるし、隣のおじさんがちょっと動いただけで、少しでも遠ざけたいようにぎゅっと抱きしめられる。なんか、幸せだな…なんて惚けた考えも浮かんでしまう。…あ、次がチョロ松の降りる駅だ。見上げたチョロ松も、電光掲示板の文字を見上げている。ここでお別れというのも名残惜しいけど、あまり金銭に余裕のない彼に行ったり来たりさせるのも忍びない。
「チョロ松、」
「ちゃんと最後まで送るから」
なにかを言う前に遮られて睨まれた。また勝手に考えてるだろ。チョロ松の目がそう言っている。怒られる前に口を閉じて、私は素直に甘えることにした。
「えいっ」
「うおっ?!おま、えなぁ…っ!」
でもなんか悔しいので、脇腹を攻撃しておいた。なんか悔しいので。
目的の駅に到着して、私たちはまるでゴミのように電車から排出される。人の波に乗って改札を出て駅を出ると、やっと人心地がついた。
「ふぅー…、疲れた…」
「ありがとう、チョロ松」
「どういたしまして。凄いな、毎朝これだろ?」
「まぁ、嫌でも慣れるよ」
「あんなの、痴漢されても逃げらんないじゃん」
「満員電車での痴漢って本当卑劣だよね」
「経験ないよね?」
「…あ、やばい遅刻しちゃう。じゃあ」
「ちょっと待て!!」
「ここまでありがとーチョロまつー私は仕事がアリマスノデ!!」
会社に向かって走り出そうとしたら、やっぱりと言うべきか、腕をがっちり掴まれて叶わなかった。あーもう適当に否定しとけば良かったー本当もー失敗したー。
「されたことあるんだな?あるんだろ。どんな奴?そいつ捕まってる?特徴教えてもらえたらあとはぼくらに任せてもらえればいいから」
「落ち着け」
最近変な方向に暴走することが増えたなこいつ。私を心配してってのは分かったけど、でも過ぎたことにまで過剰に反応されると、今後が心配だ。しかも六つ子が結託すると奇跡すら起こすことがあるから更に怖い。
「まだ入社して間も無い頃だったし、今は滅多に無いけど、あったらちゃんと対処してるから」
「入社して間も無い頃ってお前まだ十代じゃん!?つーか対処ってなに?ちゃんと駅員と警察に突き出してる?時間無いから適当にかわして対処とか言ってない?」
「アッ、私もう行かないと」
「おまっえ…ッ、図星突かれたとき分かりやすすぎんだよ…ッ!!そういうのはちゃんとしておかないと、痛い目見るのはお前なんだぞ?!」
「うーあーもう!分かった!」
いつまでもどうにもならないことを言い募ろうとするチョロ松の顔を両側からがっしり掴んで、勢いに任せてうるさい口に自分のを押しつけた。パッとすぐさま離れると、掴まれていた腕もするりと解放される。
「今はチョロ松が私のこと守ってくれるんだから、それでいいじゃん!頼りにしてる!」
勢いをつけたままそう言って、じゃ!そういうことで!と逃げた。過保護なチョロ松に付き合っていたら本当に遅刻してしまう!
□
なんとか始業二十分前に職場に到着した私は、同僚や上司への挨拶もそこそこに自分のデスクへと落ち着いた。
「…ふぅ」
「おはよう、みょうじさん」
「あ、おはようございます先輩」
にこやかに話しかけてくれたのは、入社当時からお世話になっている女性の先輩だった。先輩は美人だし仕事も出来て優しい人なので、社内でもかなり人気がある。比較的年の近い私にとっては憧れの先輩でもある。
「これ、もしかしてみょうじさんのじゃない?」
「え?」
差し出されたのは、見慣れた四角い板。恐る恐る受け取って見ても、残念なことにやはりそれは私のよく知るもので間違いないらしい。マジかぁ…
「…これ…、」
「私が出社したときに、近くの側溝に落ちてたの…確か、みょうじさんの携帯だったなと思って…」
画面も無惨に割れて、中の基板が横から見えているそれは、確かに私の携帯だったものだ。会社近くに落として、自転車か車にでも轢かれたのだろうか。
見つかってよかったと言える状態ではないけれど、所在が明らかになったことは素直に喜ぶべきなのかもしれない。これじゃ、チョロ松に連絡するのは無理そうだ。
「ありがとうございます…探していたので、助かりました」
「ううん、…残念ね」
「いえ、また買えば済む話ですし」
「…落ち込んでないならよかったわ」
私の携帯の話なのに、先輩は自分のことのように悲しんで、眉尻を下げた笑顔を見せてくれる。それから先輩は気分を変えるように、パンとひとつ手を打って私を見た。
「ほら、今日は社の飲み会だし、嫌なことはパァーッと忘れましょっ!ね?」
「……え?今日でしたっけ?飲み会」
「そうよ?あれ、連絡入ってない?」
急いでパソコンのメールを確認すると、しっかりと今日の日付が開催日のところに明記されていた。あちゃー…忘れてた。
「今日の飲み会、梅竹くんも来るのよ。彼、ハンサムで優しいから結構狙ってる子多いみたいよね」
「へぇー…」
あー、どうしようチョロ松に連絡しないといけないけど、携帯無いし…。お昼休みか就業後に時間見つけて松野家に行けば居るかな、本人が居なかったら伝言頼んで…あー本当、飲み会の予定のことすっかり忘れてたなぁ…。
「みょうじさんは彼氏居るから、関係ないかな?」
「……っえ…えっ?!」
「うふふ、朝の駅前で〜大胆よねぇ…いいなぁ、私も彼氏欲しくなっちゃう」
「ッあ、あああああああれはっ!!そ、の…あ、う、っ」
嘘うそウソッ?!見られてた?!見られてたの!?うわぁもうやらかした!!やらかしたよ!!そうだよね!普通に人通りの多い駅前でしたもんね!そりゃ誰かに見られてはいましたよね!?いやー大胆だなぁ私あっはっはっはっはバカヤロウ!!!…いや、今すぐ先輩の頭を殴って記憶を消してしまえば、あるいは
「私、梅竹くんと駅で会って一緒に歩いてたから、梅竹くんもびっくりしてたわよ。お熱いのね」
三十分前の私を誰か殴り殺してください。
「あ、そろそろ朝礼ね。じゃあ、今日は定時上がりで、六時半にはお店集合だから、忘れないでね。楽しみましょっ、みょうじさん!」
「…は、はい、ありがとうございます、先輩」
朝から気分は急降下。お昼休みまで精神が持たないかもしれません。
先輩は見た!
墓穴があったら入りたい
(2016.07.31)