「考えてみたら、私チョロ松のこと好きって思ったことなかった」

その一言は、まるで僕の心に落とされた核爆弾のようだった。細胞をひとつ残らず、僕の存在ごと焼け野原にしたその爆撃は、今もまだ僕に爪を立て続けている。

待って、

公認会計士の男に連れて行かれるなまえの背中に、僕は声を出せていたのだろうか。膝から崩れ落ちて、両手をついた。トト子ちゃんの歌声も、魚を求める歓声も、リアルな音などは全て僕の意識の内側には入って来なかった。自分がなにをしてしまったのか、どんなひどいことを言って彼女を傷つけたのか、頼んでもいないのに詳細な回想が勝手に頭の中を巡っていく。
涙もゲロも鼻水も、出せるものは全部出し尽くした。次の日になっても、僕はなにも出来ず、依然トイレとお友達のままだ。

「おーい、チョロ松ー、しょんべんしたいから一回出てー」

馬鹿の馬鹿声に、ゆっくり便器から顔を上げる。少し寝ていたかもしれない。なにが現実で、なにが夢なのかも分からない。水を流して、トイレを出る。馬鹿はなにも言わない、ただ僕を目で追うだけだ。見んなよクソが。二階の階段を上がるまで、その視線は僕を捉えていた。

「どうしたの?おそ松兄さん」
「んー?んー…」
「…ああ、…多分ボクが話を聞けると思うから、任せてもらっていい?」
「あ、そう?じゃあ任せた」

階下で誰かがなんか喋っている。煩わしい。
襖を閉めて、床の上に大の字にうつ伏せで寝転がる。胃の中は空っぽなはずなのだけど、なにかはまだせり上がってくる。うぷ、と空気が口から出た。そのままぼーっとしていたら、襖がガラリと開いた。

「うっわ、死んでる」

誰かが僕の顔の横まで歩いて来て、僕を見下ろした。目だけで見上げてみると、スマホを片手に携えた末弟だった。ほっておいてほしい。

「シコ松兄さん、生きてる?」

話す気力もないから、目を閉じる。もう寝てしまえ。ていうかこいつら起きてるけど、いまは朝なのか昼なのか夜なのか、むしろ今日は昨日の明日なのか?本当は何日も経っているんじゃないのか。僕は本当に生きているのだろうか。

「はぁ…超めんどくさいけど、チョロ松兄さんがそのままでも迷惑だから勝手に話すから聞いてて」

声が近くなる。床が少し軋んで揺れたから、座ったか屈んだかしたのだろう。

「なまえちゃん、携帯買えたみたいだよ。昼にはLINEに連絡来てたから」
「チョロ松兄さんさ、こんなとこで死んでないで早く仲直りしなよ。LINEは新しいアカウントになってたから、知らないなら教えるし」
「だいたいさぁ、アレは完璧に自業自得じゃん?ボクでもアレは無いわー」
「好きな子相手にクソビッチって…ドン引きっていうか人格疑うよ、チョロ松兄さんもなかなかのサイコパスだよね」

ん…?

「おまえ、見てたの?」
「あ、喋った」

顔を上げたら、両膝に頬杖をついたトド松が僕を見下ろしていた。

「お前、見てたんならッなんで」
「なんで止めてくれなかったの?とか言うつもり?それは御門違いじゃない?」
「ッぐぎぎ…」
「いくらクソ底辺がゆえの劣等感に苛まれて追い込まれたんだとしても、言っちゃいけないことくらい分かるでしょ」

まったくその通りだ。だから反論が出来ない。僕が全面的に悪い。謝って取り戻せる失敗じゃないことだって分かってる。だから僕は死ぬしかないのだ。

「ていうか、普通ボクに付き合ってること隠す?どんだけ手助けしたと思ってんの?ありえないんだけど」

クソ。そのこともバレてんのかよ。

「あ、他のアホ松たちは気がついてないよ。あの場で見てたのもボクだけだし」
「……で、なに、ぼくを蔑みにきたわけ…?」
「違うよ、仲直りしなって言ってんじゃん。てか、闇松は二人もいらないからさー、六つ子でキャラ被りとか本当救いようないからやめてくれない?」
「…仲直り、なんて…」

仲直りなんて、出来るわけない。僕がなまえに言ってしまったことは、もう取り返せないのだ。それに、好きじゃないって言われた。もうおしまいなんだ。もう戻れない。死のう。死にたい。死なせてくれ。

「ぶっちゃけ、ボクはクソシコ松兄さんがどうなろうと知ったことじゃないんだけど。でも、クソシコライジング兄さんを好きになってくれる子なんて今後居ると思うの?なまえちゃんみたいないい子逃したら、一生童貞死ぬまで童貞のクッッソ底辺人生だよ?」
「…でも、なまえとはもう…」
「謝ってもいないうちから何言ってんの?本当、クズメンタルだよね、引っくわー。現実から逃げて、自分の気持ちもなまえちゃんの気持ちも蔑ろにして死んじゃうわけ?すっごいムカつくんだけど、死ぬなら死ぬでいいけど、せめてなまえちゃんに謝ってから死になよね」

…トド松の言うことは尤もだ。ダメで元々、僕はなまえに謝らなければいけない。もう関係を戻せなくても、今よりはいいのかもしれない。なまえの女神のような優しさを持ってしても、許してはくれないだろうけど、でも少しでも僕の気持ちを伝えたい。あの男に嫉妬したことも、ひどいことを言って傷つけたことも、全部謝らなきゃ

「少しは正常な判断出来そう?」
「…ありがとう、トド松…、ぼく、なまえに謝りに行くよ…」
「まぁ結果がどうなるか分かんないけど、チョロ松兄さんがなまえちゃんとギクシャクして、ボクに被害があったら困るからね」

こいつはやはり、こいつらしい。

「じゃあ、チョロ松兄さんの意識がはっきりしたところで、ちょっと気になることがあるんだけど」
「気になること?」

僕が体を起こして胡座をかくと、トド松が少し神妙な表情を作って自分のスマホを差し出してきた。

「昨日さ、なまえちゃんが前の日から携帯探してたって言ってたじゃん?」
「うん、ぼくも無いの確認してるし」
「でもさぁ、ボク一昨日の夜になまえちゃんと連絡してんだよね」
「…は?」
「チョロ松兄さんがなまえちゃんの家に泊まってるときね」
「……それって…、いや、ええっ!?!?おまっおま!?なんでソレ知って…!?」
「あー、カマ掛けてみただけなんだけど、やっぱりかー」
「へェッ↑へへへへんなことはなにも…ッ!!」
「あっ、大丈夫。チョロ松兄さんの童貞は疑ってないから」
「オイ」
「それより、変でしょ。なまえちゃんは連絡出来ないはずなのに」

スマホをタップして、LINEを開いたトド松が画面を指で示した。そこには、確かに一昨日の夜の会話履歴があった。次いつ会えそう?というトド松のメッセージから他愛ないやり取りが続いている。でもコレ、相手の名前がなまえじゃないんだけど?

「ああ、これなまえちゃんのアカウント消えてるから、”unknown”って出てるけど。あっ!そうそうコレもさ、なまえちゃんがお昼に来たあとにアカウントが消えてるの!ボクらトト子ちゃんのライブの設営でわたわたしてたから言う暇無かったけど、変だよね?」

確かに変だ。僕らはなまえのスマホがしっかり壊れてるのを見ているし、第一に一昨日の夜にトド松と連絡を取っていることもおかしい。次の日の朝に、なまえは携帯が見当たらないと言っていた。なまえが嘘をつく理由もないし、それに僕は、朝になまえの携帯に電話を掛けている。その時は呼び出し音が鳴っていたけれど、室内で着信音らしきものは聞こえなかった。
そうだ、僕はなまえのスマホを見たときに違和感があった。

「なぁ、携帯って電話掛けたとき、呼び出し音鳴るだろ?プルルルーってさ」
「うん、まあね。それが?」
「でも、相手の携帯の電源がオフだったり圏外だと、電波の届かないところにあるか、電源が入っていません。みたいな電子音声のアナウンス入るよな?」
「そうだね」
「なまえのスマホがあの状態になったのって、昨日の朝だよ。それも多分出勤時間辺り」
「え?なんでそんなこと分かんの?」
「ぼくが朝に電話掛けたときには呼び出し音が鳴ってたけど、でもあのスマホの状態だと電源が入ってないってアナウンスが流れるはずだろ?」
「おおー、確かに!」
「それにぼく思うんだけど、あの割れ方って少し不自然じゃない?」
「そう?確かに凄い割れ方だったけどさ」
「普通、車とかに轢かれたら、ガラスが細かく割れたり、スマホ自体がくの字に曲がったりするはずだと思うんだ。でも、なまえのスマホは角から放射状に画面が割れてたし、どちらかと言うと落としたり叩きつけた衝撃で中の基板が飛び出して壊れたんじゃないかな」
「チョロ松兄さん名探偵すぎるよ…!!さっきまで本物のポンコツだったのに!!」
「本物のポンコツってなんだよ!!」
「じゃあ、今までの話を整理すると…誰かがなまえちゃんのスマホを使ってボクと連絡を取って、んで、その誰かが昨日の朝の通勤時間頃にスマホを壊した…と。…え?なんで?」
「それは…分かんないけど…。でも、なまえはスマホを家に忘れて来たと思ってた。一昨日の前日は連絡取ってたから、携帯を盗られたのは、一昨日の朝ってことかな…」
「うーん…なまえちゃんになにか変わったこととか無かったの?」
「いや特に…ファミレスでも普通に飯食ってたし…。つーか、なまえの微細な変化に気づけるか自信無い…」
「それもそうだね」
「少しはフォローしろよ」
「あれ?ちょっと待って、ファミレス?ファミレス行ったの?」
「え?うん…一昨日の夜に」

また自分のスマホをタップして操作すると、トド松はずいっと僕に画面を向けてきた。なんだよ、急に。

「ボク、なまえちゃんとファミレスって行ったことないんだ」
「は?それが?」
「もぉー!ほら!履歴の最後のほう見てよ!」

言われるままトド松となまえの会話履歴を見てみると、デートの約束を取り付けるトド松とそれに答えるなまえの会話。いや、ていうか待てよなんでぼくと付き合ってるのにトド松とデートすんだよ。いや、そりゃ今は………っ

「えっ!?なんで泣いてんの!?」
「…ひぐっ、うう、うううーッ…!!」
「うわ、めんどくせぇ。もういいや、勝手に続けるけど、ほらここに”次はファミレスじゃないところでね!”って書いてあるでしょ?ボク、ただの勘違いか寝ぼけてるのかなと思ってスルーしてたんだけど。これってさ、ボクとチョロ松兄さんを勘違いしてるんじゃないかな?」
「…ぐずっ、ふぇ?」
「だーかーらっ!なまえちゃんのスマホを盗った人は、チョロ松兄さんとなまえちゃんがファミレスに居るのを見てるんだよ!それで、ボクはLINEのプロフ写真を自分の写真にしてるから、ボクとチョロ松兄さんを間違えて連絡してたんじゃないかってこと!」

ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、トド松の言葉を咀嚼する。袖で目を擦りながら、僕の頭にはある人物の顔が浮かんでいた。

「…梅竹」
「え?誰それ?」
「なまえが食事の約束してた公認会計士の男だよ!あいつ…一昨日なまえと一緒にビルから出て来たし、ぼくとファミレスに居るの見てたかも知れない。それに、昨日の朝も駅前でなまえとキスしたの見られてたらしいから…それでスマホを壊したのか…!」
「ちょっと待って!?キッキッキキキキキキスゥ!?シコ松兄さんなまえちゃんとキスしたの!?はあ!?ふざけんなよお前!!」

突然怒号をあげたトド松が、凶悪な顔で僕の胸倉を掴みあげた。牙を剥いて怒鳴りつけてくる末弟に、僕は情けないことに縮み上がってしまった。

「ちょっいや!いいだろべつに!つ、付き合ってたんだし!!そ、それに…アレはなまえからだったし…」
「………だめ…ぼく、ちょっといま立ち直れない………チョロ松兄さん、ボクとキスしない?」
「どうしたんだお前!?」

項垂れたと思ったら血迷ったことを言い始めるトド松を、なんとか落ち着かせて、僕はもう一度状況を整理した答えを出した。

「なまえの会社に来てる公認会計士の梅竹って奴は、なまえのことを狙ってんだよ。だから、なまえのスマホを盗ったけど、昨日の朝のことで怒ってスマホを破壊。しかも…昨日はなまえを連れて行かれたし…」
「あーあのさわやかイケメンか…勝ち目無いねぇ」
「バカか!!人の携帯盗むようなストーカーサイコパスになまえを渡して堪るか!!ッハ!?ていうか昨日の夜もしかしてなまえあいつに持ち帰られたりしてないよな!?ちょっ、昼に連絡来てたって言ってたけどなまえ無事なの!?」
「え、まぁ普通だったけど…」
「今何時!?」
「今?もう六時過ぎだけど」
「行くぞトド松!!なまえがっあの男に食われる…!!」
「ちょっと、チョロ松兄さん!?」

胸騒ぎがする。僕は家を飛び出して、なまえの働くビルまでの道を全速力で走った。足には昔から自信があるのだ。走りながら、なまえの携帯に掛けてみたけれど、呼び出し音を聞いて待ってみても全然電話に出てくれない。

「クソっ…!!…なまえっ!!」

謝るから、なんでもするから、お願いだから無事でいて。


クズは走る。
(2016.08.01)


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