気がついたら、体が宙に投げ出されていた。
それが階段から突き落とされたからだと理解出来たのは、先輩の顔が視界に映ったからだ。能面のように感情がなく、氷のように冷たい表情。今までなんの疑いもなく一緒に過ごしてきた優しい先輩が、突然変わってしまった。
突き落とされた私は、階段から足が離れたのとほぼ同時にチョロ松に抱きとめられ、トド松と梅竹さんの二人に助けられた。

チョロ松の腕の中で、自分の呼吸を確かめる。私は生きていた。倒れたチョロ松を下敷きにして、彼の上に寝そべっているらしい私は、すぐに目の前の胸に耳を当てて、チョロ松の心音を確かめた。彼の心地良い心音がはっきりと聞こえてくる。チョロ松の腕の中は温かく、ひどく安心して、泣いてしまいそうだ。

「…チョロ松」

私が呼ぶと、背中に回っていたチョロ松の両腕がびくりと震えて、それからそっと抱き締められた。ゆっくりと背中を撫でられ、波立った心が凪いでいくのが分かる。ああもう、涙腺が緩んでしまう。

「…怪我は?」
「ん、ないと思う…」
「そっか…よかった」
「チョロ松は…?大丈夫なの?」
「大丈夫、トド松たちが上手く受け止めてくれたから…」

先ほどまで居たはずのトド松と梅竹さんの姿がない。私からでは先輩の姿を確認することは出来ないけれど、きっと先輩も居ないのだろうということは、なんとなく分かっていた。
先輩が私にあんなにも苛立っていたことなんて全然知らなかったし、ここまで追い詰められてるなんて思いもしなかった。私はなにかにつけて鈍いらしい。チョロ松が爆発したのだって、私が彼の気持ちに気づいてあげられなかったからだと思う。私は、なんて馬鹿なんだろう。

「……っ、…、」
「…え?なまえ、泣いてる?どこか痛いの?」

顔を覗き込まれそうになったので、慌ててチョロ松の胸に顔を埋める。心配してくれているのは分かるから、そのことには必死に首を振って否定した。体はどこも痛くない。それはチョロ松が全力で私を守ってくれたからだ。
次から次に溢れる雫が、目の前の緑に染み込んで行く。ふいに頭を撫でられて、更に涙腺が緩んだ。優しく髪を梳くその手つきが、凄くすごく嬉しくて、愛しい。これじゃ、いつまで経っても涙が止まる気がしない。

「…ごめん、このまま聞いてくれる?…ぼくは本当にクズだから、なまえの顔見たら泣くかもしれないし、また変なこと言って傷つけちゃうかもしれない。だから、お願い」

それは違う、チョロ松はクズなんかじゃないよ。でも言葉が出ない。今なにを言おうとしても、嗚咽にしかならないことは分かりきっている。

「まず…、ひどいことをいっぱい言ってごめん。許してもらえると思ってない、ぼくは本当にひどいことを言って、なまえを沢山傷つけた。だけど、本気であんなこと思ってたわけじゃなくて、…嫉妬したんだ、あまりにもなまえとあいつがお似合いだったから。お前は、あんなに顔も性格もいい奴に好かれてるのに、なんでぼくの傍に居てくれるんだろうって…」

チョロ松の声が震えている。チョロ松の不安に、どうして私は今まで気づいてあげられなかったのだろう。

昨夜のことだ。飲み会の後、私は梅竹さんの家に招かれていた。
もう自分がどうなってもいいって自暴自棄の気持ちで彼の家に行ったことは、今でも後悔している。彼は本当にいい人で、私が傷ついて落ち込んでいるのも最初から見抜いていたみたいだ。むしろ、あの時彼が私の言葉を途中で止めていなければ、私は、チョロ松にはっきりと別れを告げていたと思う。いや、そういった言葉を繋げるつもりだったのだ。やりきれない怒りに任せて、私はチョロ松と別れようとした。好きだと思ったことがないと言ったことは事実だったけど、真実ではなかった。それに気づかせてくれたのも梅竹さんだ。

彼の家でお茶を出してもらい、一息ついた頃。彼が恐る恐るといった風情で、ぽつりぽつりと告白をしてくれた。告白と言っても、私の想像していたようなことではない。最初は心底驚いたし、どこで私たちのプリクラを見たのか気になったけれど、それでも彼は私を信じて自分のことを告白してくれた。一応言っておくと、彼はゲイではなくストレートな人だ。だから私のことも好きだと言ってくれたけれど、恋人がいる人には絶対に手を出さないとも言ってくれた。

彼は今まで友達にも話せなかったことを私に告白して、そしてその姿を見せてくれた。元々整った顔立ちをしていることも手伝って、彼の女装姿は本当に綺麗だった。これはお酒に酔っていたからなんかじゃない。背は高いしガタイもしっかりとはしているけれど、外国人の女性のようで、その美しさには目を瞠るものがあった。素直にそう褒めると、彼ははにかんで、その格好のまま私と向かい合わせに座った。膝をつき合わせて、私たちは向かい合う。
「今日のことだけど」
彼、いや、彼女が言う。
「居酒屋では彼のこと悪く言ったけど、僕なりに考えてみたんだ。…みょうじさんはまだ彼と付き合いたてだよね?じゃあきっと彼は不安だったんだと思う。それが悪いほうに爆発したんだとも思うんだ。僕は、普段の彼を知らないけれど、みょうじさんならちゃんと考えれば彼のことを分かってあげられるはずだと思うよ」
そう言われて、私はチョロ松のことを考えてみた。
初デートの前までは、ビッチだとかそういうことはよく言われていた気がする。学生の頃は正直あまり関わってもらえなかった。でもなぜか二回目のデートで告白されて、嘘みたいに大事にされた。束縛したいだけだと思い込んでいたことも、彼本来の優しさだ。今までは犬猿とまではいかないまでも、あまり仲良くしてこなかった私たちは、まだ付き合いたてでお互いの距離感も測れず、信用もしきれず、彼は私をずっと心配していた。それはきっと私のことが本当に大切だったからだと思うし、本当に、好きになってくれていたのだと思う。大切にしたいのに、その方法が分からなかったのかもしれない。私自身も突然のお付き合いに戸惑っていたけれど、チョロ松の腕に抱かれるたびに安心して、手を繋ぐだけで温かい気持ちになった。チョロ松のことを明確に好きだと思ったことはない、けれど私の心はいつでもチョロ松を好きだと言っていた。楽しくて、幸せで、離れたくないと願っていた。それが、全ての答えだったのに、私がそれを言葉にしないから、チョロ松は不安になって、自分を守るための言葉を叫んだ。気づけば私は梅竹さんの前で泣いていた。彼がそっと背中を撫でてくれて、私は一晩中泣いた。

私はきっと分かってたんだ。チョロ松が本当に私のことを大事にして、好きになってくれていたこと。自分の心がこんなにもチョロ松を求め、好きだと教えてくれていたこと。
言葉にしないことで、私自身が私の気持ちに気づけず、チョロ松を不安にさせて追い込んだ。
全ては、私のせいだった。

「なまえ…、ごめん、ぼくは」
「ごめ、ん…、ごめん、なさいっ」

嗚咽混じりでも必死に言葉にする。だって謝るのは私のほうだ。

「なまえ…?」
「私が悪いの、チョロ松になにも言わなかった私が…」
「なまえ、それは違うよ、ぼくが」
「ううん、私、好き、すきなの、チョロ松のこと」

ごくん、とチョロ松の喉が鳴って、彼の心臓が早鐘のような音を立て始める。私は必死にチョロ松に擦り寄って、腕を彼の背中から肩に回して、ぎゅっと距離を詰める。
私が気づけずにいて、彼を傷つけたこと、自分勝手だけど全部チャラになればいいなんて思った。

「今まで、言えなくてごめん。チョロ松のこと、ずっと不安にさせてきたよね、ごめん、好きだよ、ちゃんと、好き」

言葉で伝えても足りない気がして、肩に回した腕に力をこめる。チョロ松もきっとこんな気持ちだったんだ、相手に伝わっているか不安で、まるで自分だけが相手を想っているような錯覚に陥って、悲しいくらい愛しいのに、互いを信用出来ない不安に苛立つ。分かるよ、今ならチョロ松の気持ちが痛いほど分かる。懺悔にも似た気持ちで目の前の温もりに縋る私は、都合のいい女だ。
頭を撫でていた手が、背中に回る。両腕で力強く抱きしめられて、幸せに息がつまる。震えるチョロ松が、ぐすりと鼻をすすった。

「なまえ、おれ、そんなこと言われたら、もうお前のこと離して、やれないけど、いいの」

途切れ途切れ、合間に鼻をすすって、小さく嗚咽をもらして、必死に抱き寄せられる。その言葉が、その声が、震える腕が、愛おしくて仕方ない。

「…いいよ、ずっと、離さないでいてもらえますか?」

突然チョロ松が起き上がって、それに合わせて顔をあげると熱い両手に頬を包まれた。そのまま、吸いつくように唇が触れる。
唇が離れて、チョロ松の顔が私の肩に埋もれた。ぎゅうぎゅうと腕の中に閉じ込められて、少し無理な体勢の私はちょっと背中や腰がつらいのだけど、それも今はどうでもいい。
じんわりとチョロ松の熱に包まれて、肩口から聞こえる嗚咽に私の目からもぼろぼろと次々に雫が落ちていく。チョロ松の背中に両手で縋りついて、同じように肩に顔を埋め、子供のように泣いた。

「なまえ、」

互いの涙が落ち着いてきた頃、背中を撫でられて、私の体がチョロ松に寄りかかる。少し体勢が楽になったけれど、全体重がチョロ松に掛かっていると思うと少し申し訳ない。チョロ松がそんなこと全然気にしたふうもないことに、今更ながら男性を感じてドキドキしてしまう。

「ぼく、嫉妬深くてごめん…、でも…その…、本音を言うと、トド松とデートするのも、嫌なんだ…」
「?トド松とデートって…?チョロ松と付き合ってから、そんな約束したことないけど…」
「……あ。そうか、あれはなまえじゃないんだ…」
「えっ、なになに?」
「いや、なんでもなかった」
「あはは、なんだそれ」

意味が分からなくて肩を揺らして笑うと、チョロ松も僅かに笑って、それから確かめるようにぎゅうっと抱きしめられた。両肩を掴まれて、体が離れる。涙で濡れた顔を見られるのは恥ずかしいけれど、チョロ松も同じような顔をしていたから、なんだか笑えた。目が合うと、見たこともないくらいチョロ松が優しく微笑んで、心臓が痛みを訴え始める。

「…よかった」
「チョロ、松…?」
「もう、お前の笑った顔見れないと思ってた」
「…っ」
「ぼく、なまえの笑った顔が好きだ」

耐え切れなくて、抱きつく。もう顔なんか見られたくない。また涙が勝手に溢れてくる。なんなんだこいつ、私のことどうしたいんだ。なんで、こんなに好きって思わされるの。

「…全部好き」
「も、なんも言わないでよ…」
「はは、もしかして恥ずかしがってる?」
「ばか」
「かわいい」

ドキリとした。チョロ松の胸に顔を埋めて、叫びそうになるのをなんとか耐える。気を抜いたら、勢いあまって殴ってしまうかもしれない。それぐらい恥ずかしい。

「これからはさ、出来るだけ言葉にする…」
「……わたしも、がんばる」
「ん、お互い、ちゃんと歩み寄ろう…。もう、お前に嫌われるなんて絶対御免だから」
「…うん」
「…それで、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」

顔を上げて、涙を拭う。聞きたいこととは?と首を傾げると、目が合ったチョロ松が下を向いた。私もそれに合わせて下を向く。チョロ松に跨った状態の私は、当然チョロ松の太ももに座っている形になる。その分足も開くわけで、スーツのタイトなスカートじゃそんなに足が開くわけがない。しかしそれでも足を開くと、当然だけれどスカートは上にずり上がる。下着は辛うじて守られているけれど、あられもなく太ももを晒す自分の足が見えて、絶句した。

「これって、撫でてもいい?」
「死ね!!ヘンタイ!!!」


松野チョロ松は救いようがない
ほど君を愛しているのです。
(2016.08.10)


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