第一幕 松野夫妻の愛嬢
松野なまえが産まれたのは、季節の色がはっきりと世界に染み込んだ、そんなある日の夕方だった。
松造は第一子が娘と聞いて大層喜び、松代は経験した誰もがそう思うように、初めて抱く我が子に言いようのない感動を覚えた。二人に顔いっぱいの涙と笑顔で迎えられ、松野なまえの一生は始まった。
なまえは少し甘えん坊で怖がりな普通の女の子だった。木造の家の家鳴りに驚くたび松造の足にまとわりついて、よく彼を笑顔にした。覚束ないまでも歩けるようになると、小さなことでも松代の手伝いをするようになった。こんなに小さくても母性があるのだなと、松代は微笑ましくなりながら、愛娘のままごとみたいなお手伝いを喜んだ。
三人家族に笑顔は絶えない。失敗をしては癇癪を起こして、悪戯をして怒られては泣いて、それ以外の大抵のことは笑って、なまえはすくすくと育っていった。
家族の生活が変わったのは、松代が第二子を妊娠してからだ。初めは第二子の妊娠に喜んでいた松造だったが、ある日病院から帰ってくるとそれは一変していた。弟か妹かが産まれてくるのだと喜んでいたなまえも、父の変化には首を傾げた。まだ幼い娘にさえ気取られるほど、松造はあからさまに難しい顔をしていたのだ。反対に松代ははっきりと固い意志のある表情を見せるようになった。なまえにはますます意味が分からない。けれど、松造と松代が夜中に喧嘩をしているのを見て悲しくなったことは今でも覚えている。少しして、松造もまた松代と同じ表情で、前より仕事に励むようになった。なまえはなにがなんだか分からないまでも、両親の纏う空気が前と同じように戻ったことが嬉しかった。母の大きくなるお腹を見て、なまえは何度も何度もまだ弟か妹は出て来ないのかと聞いて、松代を笑顔にした。
それは春も過ぎて初夏の頃。陣痛で母が病院に駆け込んで、父がわたわたと準備をして病院に行くのをなまえは家で一人見送った。少し成長した彼女は留守番を言いつけられたのだ。その日はとても寂しい夜だった。暗闇が占拠する居間に、時計の針の音がやけに響く。毛布に包まって両親恋しさに泣いても、両親が帰って来ることはなかった。そのまま泣き疲れて寝てしまい、起きたのは次の日の昼を回った頃だった。なまえが起きてから少しして、疲れ切った顔の松造が帰って来た。それから一緒に軽いご飯を食べて、なまえは松造に連れられて病院へと向かった。訳も分からぬまま病室に通されると、母が病室の真っ白なベッドでにこやかな笑みを浮かべているのが見えた。あなたの弟よ。母に促されて母の隣のベッドを覗き込めば、そこにはなんと六人も赤ん坊が居た。確かに弟か妹がほしいと思っていたけれど、一気に六人だなんて、まだ甘えたい盛りのなまえも幼いながら少し不安に思ってしまう。その心配は正にその通りになった。両親は六人の弟にかかりきり、なまえを構う暇などなくなってしまった。しかし産まれながらに物分りのいいなまえはすぐにお姉さんになった。率先して弟たちの面倒を見て、出来るようになるとオムツも替えたし、粉ミルクで哺乳だってした。六つ子がすくすく元気に育てたのも、なまえの助けあってのものだと松造と松代は揃って言うだろう。
六つ子が産まれてからというもの、なまえの甘えたがりや怖がりは鳴りを潜め、なまえはただただ物分りのいいお姉さんだった。不満も言わず、いつも笑顔で弟たちを愛し育てる様は第二の母親だ。それは、彼らがそれぞれ成長しても変わらなかった。
弟が産まれて二十余年。
高校卒業後、就職をしたなまえは、未だ松野家で両親と弟たちと暮らしている。日の出と共に起きる彼女の朝は、家族の朝食作りと、日に何度もする洗濯から始まる。彼女が自身の身支度を終える頃に、松造と松代が揃って起きてくる、それが朝の風景だ。
「おはよう、お父さんお母さん」
「おはよう、なまえ」
「お母さん、洗濯物はベランダに運んでおくから、干すのお願いね」
「はいはい、今日もありがとね」
「お父さん、今日はお弁当忘れないでね、靴箱の上に置いてあるから」
「ああ、悪いなぁ、ありがとう」
両親が朝食を済ませている間に、なまえはカゴに入れた大量の洗濯物を持って二階への階段を上る。毎朝のことだ。カゴは相当の重さだが、なまえには慣れたものだった。
弟たちの部屋の襖を開けると、むわりと男臭さが鼻をつく。仕方ない、成人男性六人が狭い部屋にぎゅうぎゅうと揃って寝ているのだ。生活臭も六倍というやつだ。ふたつある窓を開けて、ソファの窓からベランダに出る。増設された物干し台にカゴを運ぶのはさすがに力が及ばないので、なまえの朝の仕事はここまでだ。あとは母がなんとかするか、ニートの弟たちを使ってやってくれるだろうと息をつく。ビルの谷間から真っ直ぐ上空を見上げれば、青く澄んで突き抜けた良い天気だ。
部屋に入れば、日の光を入れたというのに相も変わらず、ぐーすか眠る弟たちの姿。なまえは苦笑いで溜め息をひとつ。どうせ起こしたところで、また寝てしまうのは目に見えている。そっと部屋を出たなまえは、手早く出勤準備を整えると、逸早く松野家を出る。通勤ラッシュで混む前に電車に乗るためだ。なまえの毎日は清清しいこんな空気の中で始まる。
「本当、なまえを産んでよかったわぁ」
「本当に。なまえだけうちの子じゃないみたいだ」
「あとはあのニート共が働いてくれれば一番いいんだけど」
「まったく、あの姉の姿を見ても改心しないとは」
「でもあの子が居てくれれば、老後も安泰ね」
「本当だな、今からなまえには感謝しておかないと」
これも朝の恒例となった夫婦の会話だ。松造が出勤し、松代が洗濯物を干し終えて買い物に出掛ける昼頃。やっとのそのそ起きてくる件のニート共は、冷蔵庫に入れられた姉が作った朝食をいそいそ出して、電子レンジでチンをして食卓に並べる。ご飯と味噌汁を各自よそい、ちゃぶ台を囲む。悲しいかな、これでも彼らにしてはよくやっているほうなのだ。
「はい、じゃあ、いただきます」
「「「いただきます」」」
寝ぼけ眼で手を合わせて、毎朝きちんと用意されている姉の料理に舌鼓。それが如何に当たり前になろうと、六つ子の舌は正直だ。
「っはぁー…今日も美味ぇ…やっぱさ、母さんには悪いけど姉ちゃんの飯のが美味いよな」
「ッフ、隠し味は“ラブ・スパイス”ってやつか…」
「食事は黙って食べなよ」
「…魚もいいけど、肉、食いたい」
「はぐはぐはぐはぐッ!ウンマー!!はぐはぐはぐはぐッ!ウンッマー!!」
「ちょっと十四松兄さん、あんまり急ぐと喉に詰まらせるよ」
食べかすも残さず空になった食器を前に、もう一度手を合わせて「ごちそうさまでした」と声を合わせる。食器は流し台に運び、あとは各々好きな時間を過ごす。悠々自適なニート生活も忙しいのだ。
夜七時を回る頃、疲れて帰宅してきたなまえを迎えるのは、美味しそうな夕飯の匂いと、六人の弟たちだ。
「おっかえりー!姉ちゃん!」
「今宵も膨大たる時間牢獄からの帰還…嬉しく思うぜシスター」
「姉さん、おかえり」
「…姉さん、肉、食べたい」
「おかえりー!なまえ姉さん!!ねぇねぇ明日は休み!?休みーっ!?」
「なまえ姉さんおかえりー」
「ただいま」
溢れる笑顔に迎えられ帰宅する。なまえの一日はこうして終わるのだ。
松野家の愛嬢