一松とトド松を松野家に送り届けたあと、さすがにチョロ松一人を置いて来たことが気にかかり、タクシーの運転手さんに居酒屋に戻ってもらえるようお願いした。
居酒屋の前でタクシーと別れ、古びた木製の引き戸を前にすると、室内の喧騒が僅かに漏れ聞こえてくる。どこか老舗然とした目の前の居酒屋は、松野家の六つ子がよく利用する行きつけのお店だ。ちょっと小汚くて、主に男性が利用しやすい雰囲気のお店。私はつい先日おそ松に連れて来られて初めて利用したが、アットホームな雰囲気で料理もお酒もなかなか美味しかったことを憶えている。
少し立て付けの悪い戸をガラリと開けると、田舎のお婆ちゃんちに来たような匂いがむわりと出迎えてくれた。どれだけうるさくしても問題ないとでも言うように、誰もが喧騒の中に埋もれながら楽しげな会話を繰り広げている。外の空気の肌寒さや静寂が、この敷居ひとつ越えただけで、まるで別世界だ。
チョロ松を置いてきた席を見ると、そこでは知らないおじさん達が赤ら顔でお酒を呷っているところだった。
…おや?チョロ松が居ない。
あれからそんなに時間も経ってないはずだけど、起きて自力で帰ったのだろうか?でも代金はどうやって支払ったのか…、まさかトド松たちが気づかない場所にお金を隠し持っていた?いいや、彼ら兄弟はお金に関してはとても鼻が利く。兄弟の手持ち金を見誤るなんてことは絶対にないと思えた。
「じゃあ、チョロ松は…」
いったいどこへ?首を傾げたところで、店の奥から怒声と一緒に皿の割れる音が聞こえてきた。次いで、情けなく謝る聞き覚えのある声。
「……まさかそんな、漫画じゃあるまいし」
なんて笑いながら、無礼と知りつつも厨房に続く暖簾を避けて、ひょいと奥を覗き込ませて頂いた。果たして、事態は思ったとおり。
「…なにしてんの、チョロ松」
「ああッ!なまえ!?どうしようっ、俺一生皿洗いかもしれない…っ!!」
そんなことを半べそかいて真面目に言うもんだから、私は思わず吹き出して笑ってしまった。六つ子とは顔馴染みだろう店長さんらしき男性は、私の顔を見るなり軽くニヤけるように笑ってぺこりと頭を下げる。彼はそのまま仕事に戻ってしまった。それを厨房に入る許可だと捉えて、私は立ち竦むチョロ松のそばまで向かった。
「で?なんで皿洗いしてるの?」
「飲み代払えなくて…、それなら皿洗いで払えって言われたんだけど、なんでか俺全然皿が洗えなくて…っ、おれ、俺ぇ、皿も洗えない能無しなんだ…ッ!もうサラ金から金借りて返すしかないのかな!?」
「あはは、皿洗いでお金貰うのとサラリーマン金融、どっちも“サラ”金だねー。チョロ松上手いこと言う」
「???」
「なんでもない」
エプロン姿で、両手を泡と水でビショビショにしたチョロ松。彼の酔いがまだまったく覚めていないことは、現状を見れば明らかなことだ。足元は覚束ないし、床にはチョロ松が割っただろう皿の破片が多く散らばっている。
恐らく、顔馴染みなことと、ひどい酔っ払いだからという理由で店の人に遊ばれたのかもしれない。さっきの人も笑ってたし、でもこんなに皿を割っても笑って許してくれる店長って凄いな。確かにこれはいじめたくなるくらい可愛らしい酔っ払いだけど、それとこれとは話が別だろうに。
先程からあたふたしっぱなしのチョロ松に向けて、私は試しにピースをしてみた。
「チョロ松、これ何本?」
「?……六本…?え、なまえ、指六本あるけど?!」
「うん、重症だ」
とにかく今は彼を家に帰そう。酔っ払い相手に面白がってる場合じゃない。先程の店長さんらしき男性に話しをしに行くと、やはり彼は店長さんだった。飲み代と皿の弁償代を支払い、ご迷惑をお掛けしましたと頭を下げると、君も大変だねなんて労られてしまった。まぁ、大変は大変だけど楽しい大変さだ。
「チョロ松、帰るよ」
「でも、皿洗いが…っ」
「店長さんがもういいってさ、だから帰ろう?」
「ま、まじで?」
「マジで。ほら、エプロン外して、手も拭いて」
わたわたするチョロ松のエプロンを脱がせて、タオルで肘まで濡れた手を拭いてあげる。そのあとは手を引いて、店長さんにもう一度頭を下げて店を後にした。
外はすっかり夜の帳が下りて、心許ない街灯が夜道を照らしている。残暑が厳しいとは言っても、やはり日が暮れると少しは肌寒く、薄手のコートの袖を軽くさすった。
ここからなら、松野家より私の家のほうが近いかもしれない。今のチョロ松を電車に乗せるのは心配だし、一度私の家に来てもらって寝かそうかな…、あでも、タクシーなら松野家もすぐだ。
「チョロ松、歩ける?タクシー呼ぶ?」
「歩ける…」
「歩けるなら私の家のほうが近いから…、でもタクシーなら家まで帰れるよ?」
「…大丈夫、歩く、なまえんちのが、いい」
眠そうに目をこすりながらそんなことを舌足らずに喋るチョロ松。超可愛い。
私に手を引かれながらゆっくり歩いてはくれるけれど、あまり前は見えていないみたいで、よくふらついている。これじゃまずいと、隣にぴとりと寄り添って腕を絡めれば、チョロ松の足取りが先程より幾分か安定したみたいだ。
チョロ松の横顔を覗くと、いつも血色の良い肌が蒼白くなっていて、目も虚ろ。こんな状態であと十分程も歩かせるのは可哀想だし、やっぱりタクシーを呼んだほうが良いんじゃないかと不安になる。
「チョロ松、やっぱりタクシー呼ぶよ」
「いいって…」
「でも、」
「俺、なまえとまたくっつけて幸せだから、これが良い」
「くっつくのはまた今度でも良いでしょ?」
「やだ」
「嫌なのか…」
「なまえ、ごめん、写真のこと…」
「いいよ、私も燃やすのはやり過ぎたと思った」
「俺、今度こそ捨てられると思った」
「いやぁ、あんな写真如きで別れてたら…今まで何度別れてるか分かんないよねぇ…」
一緒にふらつきながら、私たちはなんとか帰路を辿っている。チョロ松は話しているほうが楽みたいで、口を開いている間は具合の悪そうな顔色が少しだけ良くなっているように見えた。
「あ、そうだ」
チョロ松を支える側とは反対の手で、バッグから目的の物を探り出し、チョロ松の前に差し出した。
「…これ、あげる」
「ごめん、これ、なに?なんの紙?」
目をシパシパさせてる今のチョロ松には、それがなにか見えていないようだ。差し出しておいてなんだけど、説明するのはなんだか気恥ずかしい。
「私の…子供の頃の写真」
「は…?え?えっ?ホントに!?」
「本当の本物。燃やした写真は全部高校からのやつでしょ?コレは、私か両親くらいしか知らない写真だから…まぁ、みょうじ的には凄くレアですよ?」
「うわあああ、うああああっ、なんで今俺全然なんも見えないんだろう?!超見たい!!超可愛い!!」
「見えないのに可愛いとはこれ如何に」
「ありがとうなまえ!!大切にする!!」
「うん、…でも、その」
見えないくせに、私の写真を大事そうに抱き締めてるチョロ松の顔を覗き込む。
「そういうのに使うのはやめてね?一応そこに写ってるのは私でも、幼女だからさ、さすがに気持ち悪い」
「大丈夫!!これで俺ごはん三杯は余裕だと思う!!」
「うん、なにが大丈夫?ちゃんと伝わってんのかな…」
「なまえの子供時代かぁ…」
「私の幼少期を汚さないでね?!」
「俺らの写真もあげるよ」
「えっ、えっ!!いいの?!嬉しい!欲しい!!」
「探しとく。つっても、多分見分けつかないと思うよ。親でも俺らでも無理だし」
「全然大丈夫!ありがとう!!」
「…っ、」
チョロ松たちの幼少期の写真…か、楽しみだなぁ!貰ったら額に入れて飾るか、ケースに入れて持ち運ぼうと思う。絶対可愛い!!
「なまえ…」
「んー?なあに、あ、酔ってるからって今の話忘れないでよ?」
「お前ってさ、なんでそんなふうに笑うんだろ」
「チョロ松?」
「俺、俺さ…いつもごめんなぁ」
「どうしたの、急に」
「なんでこんなクズなんだろ…ごめんなぁ」
チョロ松の足が止まる。立ち止まった私たちは、夜道の寂しさや肌寒さを受けて、なんだか俯瞰的に見て惨めかもしれない。そんなことを考えながら、私は俯くチョロ松の黒髪を撫でた。
「それの、なにがダメなの?」
「…定職につけないし、まともな会話も出来ない、すぐ人を馬鹿にするし、がめついわりに金は持ってない」
「羅列するとひどいね…」
「なまえのこと好きになって、お前のこと大事にしたくて、見放されたくなくて、変わろうと思ったんだ…でも、クズはクズなりに上手くいかなくて…ごめん、ごめんな、俺…まだ、全然なんも出来なくて…」
情けないと項垂れるチョロ松の頭を撫でながら、私は自分自身で、チョロ松の言うクズさに対してなにも感じていないことに気がついた。いや、べつに養いたいと思ってるわけじゃないんだけど。だって、チョロ松が努力してるなんてのは一緒に居る時間で充分分かってることだ。だから、私は安心して待っていられるのかもしれない。
「無い無い尽くしのチョロ松に朗報です」
「…ふぇ?」
「今はなにも無くても、私が居るよ」
「、なまえ…」
「チョロ松自身が納得出来るまで、待ってるから」
「ごめん…なまえ、ほんとに、ごめん…」
「なに謝ってんの、私が勝手にそうしてるんだから」
「ちが、ごめ…ご、」
「チョロ松?」
「ご、め…ッ吐、ぐゥ…ッ」
「えッ!?ちょ、待って待って!!えっと、えっと、アッ!これ!コレに出して!」
うぐ、と口を押さえたチョロ松に、バッグに入っていたビニール袋を広げて手渡すと、崩れるようにその場に蹲った。一緒に屈みこんでチョロ松の背中を撫でるけれど、チョロ松からは苦しげな声があがるばかり。こういう時ってどうしてあげるのが良いんだろう。とりあえず、ポケットティッシュを用意して、あとはどこかで水を買えないかと辺りを見回してみる。ちょうど近くの商店の前に自販機を見つけ、買いに行こうと立ち上がったところでコートの裾を引かれた。
「チョロ松…?」
「…どご、いぐの、」
「そこの自販機でお水買ってくるから、大丈夫、すぐ戻るよ」
不安げに私を見上げたチョロ松の頭を撫でて、すぐに水を調達した私は小走りでチョロ松のもとに戻った。
震えて何度も大きくえずく背中をさすって、早くチョロ松が回復するように願う。なんだかこっちまでつらくなってきた。
「ゴホ、ごめ…っうェエッ」
「大丈夫だから、落ち着いて、喋らなくていいからね」
涙と鼻水と口からの物で、チョロ松の顔はもうベトベトドロドロだ。煩わしくない範囲で、横からティッシュで顔を拭ってあげる。八の字の眉に力を入れて、チョロ松は苦しそうに袋に顔を入れていた。私には背中をさするか、顔を拭ってあげることしか出来なくて、もどかしい。
「吐いたら少しは楽になるから、そしたらお水飲もうね、もうちょっと頑張ろ」
「う、う、うォええェ…っ」
「よしよし、大丈夫、大丈夫」
自分で言っていても、なにが大丈夫なのか分からなかった。これは完璧にチョロ松の自業自得ではあるのだけど、それでもこんな状況の恋人を放っておけるわけもない。背中をさするのだって、これで更に気持ち悪くなる人も居るって聞くし、なんの役に立ってるのかも分からなくて、なんだか私まで泣きたくなってくる。
「…ぉ、…なまえ、」
「ん?なに?撫でるのつらい?」
「……ご、め、…ぇぐっ」
「あーもうっ良いから!謝んないで!」
「っふ、ゥ、…おれ、めいばぐかげで、ばっがで、」
もうチョロ松が泣いてるのか吐いてるのか、分からなくなってきた。こうなると脱水症状にならないか心配だ。
「おェ、おれ、もう、」
「ほら、喋らなくていいから、ね?」
「も、ゥおまえいないと、ダメだ…」
「っ…そ、そういうのは、あとで聞くから」
「なまえいないと、しぬ…、ゥ、え」
「それは大袈裟な」
でも、今のこの状況を放置したら本当に死んじゃいそうで洒落にならない。
「す、き、…ぉぼ、ぇっ、…ッだいすき、です」
「うんうん、分かったから、とりあえず楽になろう!ね?ねっ?」
「……ッぇ、ぐ、」
「偉いねぇチョロちゃん、頑張ろうねぇ」
背中をさすっていた手を、徐に取られる。チョロ松が袋から顔を上げてこちらを見ると、その顔はやはりドロドロだった。
「なまえ、」
「チョロ松…?」
「おれ、もうおまえにめろめろだから」
「め、めろめろ?!」
「……いまキスしたら、怒るでしょ」
「うん!さすがに!」
どうやら少し落ち着いたらしいチョロ松が、ティッシュで口やらを拭ったので、ペットボトルの水をキャップを外して手渡した。口をすすいで、ごくごくと飲んでいる様を見て、もう一本買って来ようと思い立ち上がる。けれど、またも私のコートの裾が掴まれた。
「お水買ってくるだけだよ」
「いらない…、ここに居てよ」
「本当にすぐだから」
「どこにも行かないで、」
そう言われてしまっては仕方ない。私はまた同じように屈んで、チョロ松と視線を合わせる。ゴミも放り込んだ袋の口は縛っておいた。
コートの裾を掴む手を掴んで、手を繋ぐ。冷たい手を温めるように指を絡めた。
「まだ吐きそう?」
「ううん、…大分落ち着いた、ごめん、ありがとう」
「そっか、よかった」
「なまえ」
「ん?」
「ほんとに、…俺、もう、はぁ…」
「???ど、どうした?」
繋いだ手がぎゅうっと握られる。チョロ松の顔を見ようとしたら、それよりも早く抱き締められた。がさり、という衣摺れの音が辺りの静寂を破ってびくりとする。
「チョロ、まつ…?」
「んー……」
「おーい、寝るなよー」
「……うんん…」
「ちょっと?」
抱き締められた体は凄く温かい。寒空の下でそれは凄く有難いことではあるのだけど、このまま寝てしまわれたら困る。私にはチョロ松を抱えて帰る力なんてないのだ。
「ちょーろーまーつー!起きてってば」
「んん、…起きてる」
「じゃあ、とりあえず家行こうよ」
「…………」
「…ん?起きてるんだよね?」
「起きてる」
「立てる?」
「…うん、でも待って…、今お前の匂い嗅いでるから無理」
「意味分かんないし気持ち悪いんで、やめてもらっていいですか?」
「すーはーすーはー」
「おいやめろ」
「…俺さ、今までもお前に捨てられたらどうしようとか、嫌われたらどうしようって色々悩んでたんだけど…、もう無理」
「え?」
「もう絶対、死ぬまで放してやれない」
「……そ、れはさ、前にも同じようなこと、聞いたよ」
「うん、でもあの時よりも“絶対”だから」
「………ふぅん…」
「なに、もしかして照れてる?」
「そんなわけないでしょ」
「そ、今お前の顔見れないの残念だな」
「真顔です」
「あ、そう…ふーん?」
「…………」
「なまえ」
「……なに」
「愛してる」
「ッ、……あ、ぁ、そう…?」
「うん。俺、これからの人生でなまえ以上の女の子には絶対出会えないと思う」
「そんな」
「だから、もう一生放したくない」
そんなことないよ、なんて言葉はチョロ松のパーカーに埋もれてしまった。酔いって感染るものなのだろうか、抱き込まれたチョロ松の温かさの中で私までくらくらしてきたみたいだ。私たちは、それから体が冷えてしまうまで抱き合っていた。今思えば馬鹿みたいだけど、チョロ松は動かないし、私は動けないしで仕方なかったのだ。
□
次の日、二日酔いで目覚めたチョロ松は朝から土下座で、寝起きの私を迎えてくれた。きっちりと立て替え分の飲み代と皿の弁償代を請求して、あとは特にお咎めなしにした私に、チョロ松は平身低頭謝り倒し、しばらくは酒絶ちすると宣言していたけどいつまで持つものやら。それに、酔っ払いのチョロ松はちょっと可愛かったし…たまになら良いかなとも思う。吐くのは体が心配だから嫌だけどね。
「あ!写真!忘れないでね?」
「…ああ、ぼくらの?うん、明日持ってくるよ」
「やった!」
「そんなに喜ぶことかな…」
「喜ぶでしょ!チョロ松だって私の写真見てガチ泣きして喜んでたじゃん」
「いや本当に天使降臨だったから」
今朝チョロ松がしたことと言えば、私に土下座をするか、改めて確認した私の写真を見て号泣しながら崇めるかのどちらかだった。彼の情緒が心配でならない。
「一生の宝物にします」
「それはそれで恥ずかしいな…」
「他の誰にも見せないから」
「兄弟には見せてもいいよ?」
「んなことしたら速攻で強奪されるに決まってるでしょ。焼き増しされて、それこそなにに使われるか分かんないよ」
「肌身離さずいてくださいね」
今回のことも、元はと言えば私が私の写真を燃やしたことが発端だし、写真を渡したことで落ち着いてくれれば万々歳だ。まぁ私はまったく悪くないけどね、やり過ぎたことは認めるけど、全然悪くないからね。
でも、私の写真ひとつで目を輝かせて喜ぶチョロ松を見るのは、まったく悪くない気分だ。
閑話・童貞の夜明け
あー、六つ子の幼少期写真楽しみだなぁ
(2016.11.25)