こんな緊張、したことがない。
オシャレなスツールの上で縮こまりながら、私は自分の図々しさに対する恥ずかしさにぎゅっと目を瞑った。


私に、“女”を教えてください

事の発端はまさにその発言からだ。
引き潮のように、一瞬でしんと静まり返った室内。最初に呼吸を取り戻したのは、他でもなく私自身だった。

「あッ、あっ、いや、ちが、違うんです!べつに深い意味は無くてですね!?その、あの…なんて言えば…っ」

涙目で慌てる私は、それまでの勢いはどこへやら力無くストンと腰を下ろし、肩を竦めて縮こまる。

「すみませんでした…」

場の空気を壊しておきながら、そんなことしか言えない自分がどうしようもなく恥ずかしく、そして不愉快な存在に思えて仕方ない。

「良いんじゃない?」

その声は隣から聞こえてきた。恐る恐る顔を上げると、おそ子先輩がいつもの太陽みたいな笑顔でにっこりと微笑んでいる。その暖かな笑顔にまた涙腺が緩んだ。

「そうしましょうよ」
「そう、ってあの…どう?」
「だから、一子から女を学ぶの」
「は、はあ?ちょっと、アンタなに言ってんのおそ子!」
「なにって、一子が言ったんでしょ?女には女の楽しみがあるって、それをこの子に教えてあげなさいよ」
「それは、ものの例えで…っ」
「そうねぇ、一子から学ぶのが一番良いんじゃないの?」
「まぁ、適任っちゃ適任よね。一子も男を毛嫌いしてるところあるし」
「十四子もさんせー!」
「ふふ、まぁ一子なら偏ったこと教えなさそうだし、なまえちゃん的にも安心的なー?」
「ちょっと!アンタらまでなに言ってんの!?」
「はいはーい、じゃあ決まりね!」

おそ子先輩が手を叩くと、その話はそこで終わりのようだった。
それからその話題には一切触れられず、各々好きな料理やお酒を頼んで、宴もたけなわ、それじゃあお会計をして帰りましょうと居酒屋を出たとき、私はおそ子先輩に背中を押されてたたらを踏み、誰かの肩に鼻をぶつけてしまった。

「す、すみませ…っ」
「それじゃあ頼んだわよ、一子」

振り返ると、それぞれに手を振る五人の姿。
見上げると、少し不機嫌そうで、でもなにを考えているのか分からない暗鬱とした瞳が、そんな五人の背中を見送っていた。
途端に申し訳なく思うも、後の祭り。もう一子さんには既にご迷惑を掛けた後で、どうしたらいいのか分からずおろおろしていると、一子さんは踵を返して行ってしまった。

ああ、そうだよな、初対面で迷惑ばかり掛けてしかも優柔不断におろおろしてる奴なんか、見捨てられて当然だよな。
なんて、いやしくも悲しくなったりなんかして、本当に私って奴はつくづく駄目な奴だ。
一子さんから見えなくてもいい、めいいっぱい頭を下げて謝って逃げよう。

「なにしてんの、行くわよ」

頭を下げかけていたら、思わぬ声が掛かった。呆けて見れば、立ち止まって待ってくれている一子さんが、首を傾げて私を見ていた。

「付き合ってくれるのよね?二件目」
「は、はい!お付き合いします!させてください!」

慌てて駆け寄る私に、一子さんは一瞬目を大きくしたあと、肩を揺らしてくすくすと笑ってくれた。

そうして着いた二件目は、広いラウンジから都会の夜景が広がるとてもオシャレなバーだった。まさに大人の女が嗜んで然るべき雰囲気。これが大人の女の匂いかと思うと、くらくらした。もしかしたらアルコールの匂いだったのかもしれない。

そんなこんなで縮こまってばかりの私は、注文したオレンジジュースをちびちびと舐めていて、隣の一子さんは名前も分からないショートカクテルをオシャレにそして優雅に指先で弄んでいた。
一子さんを見ていると、マスターが男だという理由でビクビクしている自分が情けなくなる。

「一子さんは、このバーにはよく来られるんですか…?」
「ん?んー…そうね、たまに程度よ。自分を見つめ直したいときとか、たまに」
「へ、へぇ…一子さんでも、そういうときがあるんですね」

なんだろう、一子さんの勿体つけるような口振りや、カクテルグラスをなぞる綺麗な指先に、なんだかドキドキする。
手元のグラスを見る。これは、オレンジジュース、ただのオレンジジュースのはずだ。アルコールは、なんパーセントだろう…?

「っいや、オレンジジュースだし!アルコールフリーだし!」
「なまえ?」
「あっ、いや、ごめんなさい!なんか、思考が絡まってしまって…あらぬことを…」
「ふふ、なにそれ」
「あ、あは、なんなんでしょ」

乾いた笑いを誤魔化すように、オレンジジュースをがぶりと喉奥に流し込む。恥ずかしさに溶けてしまいそうだ。

「おそ子ってさ、」
「あ、は、はい、おそ子先輩?」
「考えなしよね」
「…そう、でしょうか?」
「そうよ、だって普通女同士だからって初対面同士を二人きりにする?」
「それは…」

確かに。

「それにお節介。しかも世話焼き」
「私は、おそ子先輩のそういうところに助けられましたけど…」

おそ子先輩を思い浮かべて笑うと、一子さんも僅かに口角を上げて見せた。

「でもおそ子って、世話焼いてる自分が好きなだけなのよ、姉御肌って言われるからそうしてるだけ」
「えー、そうなんでしょうか?もともと包容力のある方なんだと思いますけど…」
「あーあー包容力なんて、そんな良い表現したら駄目よ。だって、おそ子はあんまり頼られるとパンクしてすぐ怒るから。包容力のある人っていうのはもっと心が寛大なはずでしょう?」
「それは、」

それはべつに、誰だって自分の容量以上のことを求められればパンクするはずだ。
私だって…、
そこまで考えてハッとした。

「誰だって求められればそれに答えたくなっちゃうものだけど、頑張ったって答えられないときもあるのよ。でも、私はそれで良いと思うの。完璧を求められて答えられる人間なんて、居るわけないんだもの」

一子さんは、おそ子先輩のことを話しているのか、それとも、
一子さんの視線は半分ほど残ったカクテルグラスに注がれていて、その真意は見えない。けれど、一子さんの声を聞くたび、一子さんの口から言葉が紡がれるたび、私は少し泣きそうで、そしてとても嬉しくて、やっぱりなぜだかドキドキした。

「生きるって、ソウルとボディのバランスよね。意味、分かる?」
「どちらも欠けちゃ駄目ってことでしょうか…?」
「そう、それに満たされても駄目」
「えっ?」
「言ったでしょ、バランスなの。どちらが良くても悪くても駄目なのよ。心も体も、どっちも大切にしなきゃ」
「な、なるほど…」
「だから、どちらの声も聞き逃しちゃ駄目よ?」
「こえ…?」
「ほら、よく聞くじゃない。体が悲鳴をあげてるとか、生理的に無理とか、そういうのには正直に従うべきだと私は思うわけ」
「…心と体の、声…」
「どっちの声に従うかはアンタ次第だけど、後悔の無いようになさい」

そう言うと、一子さんはカウンターにお札を置いてスツールを降りた。振り向きざま、絹のような黒髪に間接照明の明かりが反射してさらりと揺れるのがとてつもなく綺麗だった。

「そろそろ行くわよ、終電無くなっちゃうから」
「…えっ、もうそんな時間なんですか?!」

スマホの時計を見ると、日を跨ぎそうな時刻が表示されていた。そんなに長い間一子さんと話していたのだろうか、私にとってはあっという間すぎて、とても物足りない。けれど、これ以上ご迷惑を掛けるわけにもいかない。
私は縺れる足をなんとか進めて、お店を出て行く一子さんの後を追った。
ビルを出たところで、ハッと気づいて鞄から財布を取り出し、一子さんに駆け寄る。

「あっ、お、お金!」
「いいわよ、ここは私の奢りで」
「そういうわけには!」
「アンタ、オレンジジュースしか飲んでなかったじゃない。それくらいも奢れない女だと思ってるの?」
「そういうんじゃ…!」
「甘えるのも、優しさよ。相手の顔を立てるってこと」
「あっ、…じゃあ、あの、ご馳走様です」

もう遅いけれど、すごすごと財布を鞄にしまいながら、やってしまったなと反省。こういうところも、私が社会不適合者たる所以なのだと思う。

「…………」
「…………」

駅までの道のりは無言だった。
前方を歩く一子さんの後ろを、少し遅れて私が歩く。本当は隣を歩きたいのだけれど、私の中で燻る思いがそれを邪魔して、足を遅くする。

まだ、駅に着きたくない。
これで、一子さんとの関係は終わりなのだろうか。いや、終わりもなにも一子さんはおそ子先輩のお友達なだけで、私たち二人の間にはなんの関係も始まっちゃいない。
子供染みた理由で、足は重たくなるばかり。一子さんとの距離が開くたび、元からなにも無いのに空虚感が募っていった。

「あら、そうだ」

一子さんが振り返った。まるで私がそう念じたからそうなったように。心に言い表せない嬉しさが溢れてくる。なんだ、なんでだろ、なんで私こんなにこの人のことが

「ちょっと、なんでそんな遠くに居るの?」
「あっ、すみ、すみませんっ」

今までの距離を取り繕うように慌てて駆け寄って、隣に並ぶ。一子さんは、納得のいかない表情で私の顔を覗き込んだ。

「飲みすぎた?わけないわよね、アンタ、オレンジジュースだったし」
「だ、大丈夫です!酔ってません!」
「でも無理はしないでちょうだいよ。あ、それから、これからはお酒が苦手ならちゃんとそう言わないと、アンタみたいに気が弱いとすぐ飲まされるから」
「えっ、なんで…」

確かに私はあまりお酒が得意じゃない。でも、それは誰にも言った覚えのないことだった。もしかして、お酒の席で嫌な顔でもしていたのだろうか。
両手で顔を挟み、今日の一連の流れを思い起こしてみるも、思い当たる節がない。

「ばかね。見てれば分かるわ、そんなこと」

顔を潰す私の両手を解きながら、一子さんが微笑む。
どきりとする程のいい女。頭に浮かんだのはそんな低俗な言葉だった。
一子さんって凄い。知りもしないくせに、さすが、なんて思ってしまった。

「あ、そうそう忘れるところだった。結局、今日は時間が無くて女の楽しみってやつを教えてあげられなかったでしょう?」
「あ、そういえばそういう趣旨でしたね」
「だから、次の土曜日空けときなさいよ」
「…え、次の土曜日って…」
「なに?おそ子と休みは一緒でしょ?あ、それとも先約がある?」

一子さんが首を傾げると、綺麗な黒髪がさらりと細身の肩から流れ落ちた。街灯も乏しく、辺りはあまり明るいとは言えないのに、私には一子さんの姿がはっきりと見えていた。
その自然な動作で紡がれた土曜の約束に、私の胸は軽やかに踊り出してしまう。

「あっ、空いてます!!土曜日大丈夫です!」
「じゃあ、朝十一時に赤塚駅の北口集合、でいい?」
「はい!お願いします!」
「っふ、アンタって…なんだか犬みたいよね」
「いぬ…犬ですか、初めて言われた気がします…」
「そう?今日見てて、ずっと思ってたけど」
「……一子さんは、犬、お好きですか?」
「んー…、私は犬より猫派ねぇ」
「そう、ですか……」

そんなどうでもいいことで、馬鹿みたいに落ち込んだ。
あからさまに肩を落とす私の手を、するりと滑らかで冷たい手が奪っていく。あるわけない耳と尻尾が、ぴょこんと顔を出したみたいに体が跳ね上がった。

「ふふ、ほら、リードを握っててあげるから行くわよ。終電逃したら、タクシー代馬鹿にならないもの」
「わ、わん!」
「!…っぶ、ふふ、ア、アンタって、おかしな子ねぇ」

変なことしてるっていう自覚はあった。でも、一子さんが笑ってくれるなら、私は一生おかしな子でも良いと思ってしまった。

繋がれた手、私のほうが少しだけ体温が高い、一子さんの手は少し大きい。でも綺麗。
駅までの道を、少し引っ張られながら歩く。私たちはまた無言だったけれど、今度は虚しくもなんともなかった。

一子さんは、ソウルとボディのバランスで人は生きているのだと言った。
どちらの声も大切で、どちらの声に従うかは私自身だとも。

それなら、私は自分の心の声に従いたい。
一子さんをもっと知りたい、もっと彼女の考えや価値観に触れてみたいと声をあげる、この心に。


Change before you have to.

―Jack Welch

変革せよ。変革を迫られる前に。
―ジャック・ウェルチ
(2017.01.29)


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