約束の土曜日が来てしまった。
スマホの画面に映るのは、一子さんの電話番号。
終電に乗る前に交換したこの番号に、私は未だダイヤルしたことがない。
今日この日が来るまで、私は相当浮き足立っていたらしく、背景にお花畑が見えるとおそ子先輩に言われてしまったときは顔から火が出るかというほど恥ずかしい思いをした。
迅速にポーカーフェイスを学ぶ必要がある。
ああいやそんなことよりも、今大事なのは一子さんとの待ち合わせだ。
ご存知の通り、私は男性という存在が怖い。他のなにに例えられないくらいには、怖い。
仕事を始めて少しはマシになったと思っていたのだけれど、それは名前の分かる職場の男性のみに限られ、当たり前だけど街を行く男性全てとの接触が可能になったわけではなかった。
じゃあ通勤の往復をどうしているのか?と思われる方も居るかもしれない。
朝は必ず女性専用車両に乗り込み、会社のあるビルまでは一目散に早歩き。帰りは女性の比率が多い車両にしか乗れないので、時には何度も電車を見送り、乗れないときはタクシーで帰ることも少なくない。勿論、女性運転手をわざわざ手配する。
そんな私に、往来の多い駅の入り口なんかで一人ぽつんと立っていられるわけがなかった。
人の少ない始発に乗るため、待ち合わせの五時間前に赤塚駅に着いたところまではよかった。北口の目立つオブジェの前に立ってから一時間もすると人通りが増え始め、私は行き交う男性が視界に入るだけで変な汗を掻き始めていた。それが過呼吸に変わる前に、私は精神の安寧を求めて近場の女子トイレへと逃げ込んでしまった。そして今に至るまでの四時間、個室に籠城している。
お分かり頂けただろうか、只今の時刻は十一時…一子さんとの約束の時間だ。
でも、恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいいっぱいになり今にも潰れてしまいそうな私は、一子さんになんの連絡も入れられないでいる。かと言って待ち合わせ場所に向かうのも怖い。ここから出ることを思うと、情けないことに足が竦むのだ。自分の不甲斐なさに泣きながら、ただスマホを眺める。
どうしよう、いやどうしようじゃない、せめて連絡しなくちゃ。きっと一子さんはもう待ち合わせ場所に来ているはずだ、でも、外が怖くて出られないから迎えに来て、なんて言えるわけがない。
結局は堂々巡り。今日の予定をキャンセルしたって、こんなんじゃ家にも帰れないし、なによりそんなことをして一子さんに嫌われたらと思うと、体が動かない。
「……ッ!」
ヴーッ、ヴーッ
スマホが震えて、表示されたのは一子さんの名前。一子さんからの着信だった。
心臓がバクバクする。スマホを握る手が震えている。出ないわけにはいかない。
気持ちを落ち着けるように息を吐いて、画面をタップした。
「………は、い…」
『…あ、出た。今どこ?』
「あ、あの…すみません一子さん…」
『謝罪はいいわ。もう着いてるんでしょ?』
「あ、そ、そうなんです、けど…」
ああ、もう、完全に怒っている。怒らせてしまった。そりゃそうだ。ちらりと時間を見れば、もう約束の時間を十分以上も過ぎている。
電話の向こう、コツコツと早歩きをするような音が聞こえる。一子さん、帰っちゃうのかな。そりゃ、当然だ。
「すみ、ません」
『謝らなくていいって言ってるでしょ?』
「で、でもっ、あの、本当に…」
ぼろぼろと雫が膝の上に落ちていく。声も震えて、鼻水が出てきた。慌ててカラカラとトイレットペーパーを出して鼻水を止める。どうしよう、涙が止まらない。
『なまえ、怒ってるわけじゃないのよ』
「…………」
『さっきおそ子に聞いたわ、あなた一人じゃ街中歩けないって。…ごめんなさいね、待ち合わせ場所とかちゃんと考えてあげられなくて』
「ちが、違うんですっ!い、一子さんはなにも悪いことはなくて…私が…っ、私が、不甲斐なくて…」
『…ねぇ、電話越しで泣かないでちょうだい」
一子さんの声が二重に聞こえた。
顔を上げると、コン、コン、と優しくドアがノックされる。
「居るんでしょ…?」
言葉を返せず、代わりに鍵を開けて四時間以上も立て籠もっていた個室のドアを開けた。
「ふふ、ひどい顔ね」
「ずび…ど、どうして、」
「場所が分かったか?簡単よ、一人になれる場所はどこかって考えたの。それに、電話越しにカラカラって音が聞こえたからね。もう、あんたトイレットペーパーで鼻かんだでしょ、赤くなってる。女の子なんだからティッシュくらい携帯しなさい」
「ずびまぜ、」
一子さんが出したティッシュで鼻をつままれる。
一子さんの顔を見上げれば、優しい笑みを浮かべていて、緩んでいた涙腺が決壊してしまった。
「っふ、うぇ、うぅ〜…っ」
「ちょ、なんで泣くのよ!?」
「ごめんなさいぃ…っ」
「ああもう、化粧もぐちゃぐちゃ」
今度はハンカチで顔を拭われる。二十歳も越えてなんて醜態を晒しているのか。
呆れながらも、一子さんは私を見捨てることはしなかった。それが嬉しくて、また泣いてしまう。
「まぁ、ちょうどいいわ」
「…ふぇ、?」
「言ったでしょ?今日は女の楽しみを教えてあげるって。ほら、行くわよ」
「あっ…」
一子さんの柔らかな手が私の手を引いて歩き始める。私は少し遅れて一子さんを追いかけるように並び、繋がれた手を見下ろした。
「…ん?なに?」
「あ、いえ…」
「こうしてれば、もう怖くないでしょ」
一子さんの言うとおり、あんなに怖かったトイレの外の世界に、まったくなにも感じなくなっている自分が居た。これは、一子さんマジックだろうか。一子さん曰く“リード”を引かれて、私は先ほどとは真逆の気持ちで駅の中を歩いていた。現金すぎる、でもだって仕方ない。もしかして今、私の背景はお花畑なんじゃないだろうか。
連れられてやって来たのは、香水のような良い香りのする駅地下のお店だった。
ビューティサロンと書かれた看板を見上げながら、一子さんに手を引かれてその入り口をくぐる。
「あっ、一子さんじゃーん。今日はお友達も一緒?」
みっともなくキョロキョロしている私の前に、すらっと背の高い男性がひょこりと現れた。咄嗟に一子さんの背中に隠れると、繋いでいた手をぎゅっと握られて、途端に安心してしまう。
「今日は私じゃないの、予約入れてたでしょ?」
「はいはい、今確認しまーす」
「あなた、店長なんだからしっかり管理しなさいよ」
「あははごめんごめん、そういうのは結構任せきりで…」
一子さんと店長さんの親しげな会話を耳にしながら、店内の様子をキョロキョロ。ヘアメイクやネイルなどのポスターが貼ってあるから、ここはそういうお店なのだろう。
恥ずかしながら、私は美容院というものが初めてだった。髪なんて、母に頼むか自分でしか整えたことがない。
「はいはーい、あったよー。今日はフルコースね」
「ええ、この子をね」
ぐいっと手を引かれて、一子さんの前にまろび出る。目の前に男性の姿を認めて小さな悲鳴が出た。
「オッケー!じゃあ俺も暇だし、」
「チェンジ」
「なんで?!一子さんの担当も俺だし、」
「女の子のスタッフ居たでしょ、案内も全部その子にお願いするわ」
「話も聞いてくれない!…ちぇー、いいよじゃあ呼んで来るから待っててねー」
不満を漏らしながらも、その人は店の奥へと消えて行く。程なくして現れた可愛らしい女性の店員さんに案内され席に座ると、一子さんは待合席のほうへと行ってしまった。奥から出て来た店長さんが一子さんのそばに寄っていくのが見える。
「一子さんはカットしないの〜?そろそろ前髪作っちゃってもいいんじゃない?」
「そういうの押売りっていうのよ、知ってた?」
「いやいや、俺のはただの提案だって!絶対似合うからさぁ」
つい、聞き耳が立ってしまう。店長さんが親しげに一子さんに話しかけて、一子さんも嫌な顔せずに対応している。一子さんにとって当たり前のそれが、私にはとても高度なコミュニケーションに思えた。
「一子さんって、ミステリアスな人ですよね〜」
私の視線を追って、店員さんがそんなことを言った。
「美人でクールで、身長も高いし…なんだか凄く興味を惹かれる感じがあると思いません?」
「そう、ですね…私もそう思います」
「うちの店長なんか一子さんの予約入るとちょっとウキウキするんですよ」
「えっ!そ、そうなんですか?」
「あ、既婚者なんでそういう意味じゃないと思いますけど、一子さんは男心も理解してるから話しやすいみたいで」
「なるほど…」
「憧れちゃいますよね、独特の雰囲気があって」
「そうですね…」
一子さんを魅力的に思うのは、やっぱり私だけじゃないみたいだ。店長さんからなにを言われても靡かない顔つきでツンとして、でもたまに笑顔を見せて目を見る。ふぅむ、一子さんはやり手だ…
「話し込んじゃってすみません、お待たせしました!今日はどんな感じをご希望ですか?」
「あの…」
「はい!」
「…私、い、一子さんみたいに…、…一子さんの隣に立ってても不自然じゃない女に、なりたいんです」
「不自然じゃない、ですか?」
「はい、だから、あの、自分に似合うか分からないんですが、もっと…あの…なんて言えばいいのかな…」
「ううん、分かりました!じゃあ、腕によりを掛けてイメチェンさせちゃいますね!」
「お願い、しますっ」
「ちょっと待ってて下さいね、テンチョー!」
「はーい?」
「ちょっと時間長くなりそうなので、奥で一子さんにネイルのモニターお願いしたらどうですか?」
「あっ!いいねー!一子さん一子さん、モニターしてよ〜お金取らないから!」
店長さんは半ば強引に一子さんを私から見えない奥の部屋へと連れて行ってしまった。
その成り行きに驚いていた私に、店員さんはにっこりと可愛らしい笑みを見せる。
「素敵にイメチェンして、一子さんを驚かせましょう!」
「!あ、なるほど…」
「ふふ、劇的ビフォーアフターにしますからね!」
「お手柔らかに…」
苦笑まじりな笑みが出たけれど、内心私はドキドキしていた。こんな私でも、一子さんの隣に立って見劣りしないような女になれるのだろうか。不安と期待に胸が膨らむとは、まさにこのことなのだと思った。
ヘアカタログやカラー見本を参考にしっかり方向性が決まり、カットが始まると、私は出来上がりを想像して既に緊張で胸が高鳴っていた。イメチェンした私を見たとき、果たして一子さんはどんな反応をするのだろう、なんて思うのだろう、気に入ってくれるのかな、ちゃんと綺麗になれるのかな。
こんなこと、今まで考えたこともなかったのに。
「メイクとネイルもカットの雰囲気に合わせますね〜」
「あ、メイクもするんですね…?」
そういえば一子さん、化粧が崩れた私を見てちょうどいいって言ってたっけ。
店員さんはカットの手を休めずにニコニコと話しかけてくれる、私が緊張してるのが分かってるのかな、手を動かしながら話せるなんてさすがプロだ。
「そうですよ、うちのフルコースメニューですから!一子さんなにも言わなかったんですか?」
「はい…なにも聞いてなくて…」
「ふふ、そういうところは男の人っぽいですよねぇ」
「そう…なんですか?」
「思いません?いやに女らしいところもあれば、時々男っぽくてサバサバしたところもあるなーって」
「実は…一子さんと会うのは今日で二度目なので…まだあまり一子さんのこと知らないんです…。それに、男っぽいとか男らしいとか、そういうのも分からなくて…」
「そうなんですか?手を繋いで来店されたので、かなり仲良しなのかと」
「あっ、あれは私が不甲斐ないばっかりに…、…あれ?来たときに居ましたっけ?」
「ここ、防犯カメラが入口にあるんで、奥で見てたんですよー。一子さん、可愛い子連れて来たなーって」
溌剌と笑いながらそんなことを言われたら、私はもう赤面するしかなかった。あの店長さんにも手を繋いでいるところを見られたわけだし、奥に居た人にも見られていたなんて。恥ずかしい。それに、私の顔を見れば泣いてたこともバレバレだ。穴があったら入りたい、出来ればそのまま埋めてほしい。地中深くに、どうか
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恥ずかしさのあまり前後不覚状態で時間をやり過ごしていたらしい。飛んでいた意識がハッと戻ったのは、終わりましたよ、と肩を叩かれてからだった。
「うふふ、少し眠っちゃってましたか?」
「すみ…ません…?」
「いえいえ!あ、それでですね、メイクはアイラインをしっかり入れました、でもあまりケバくならないように……ネイルのほうは……」
店員さんが親切に説明してくれているその内容を、私は少しも頭に入れることが出来なかった。
目の前の鏡に映る自分と思われる女性に目を奪われて、動けない。自分で言うのも不思議だけど、鏡に映るその人は今まで私が見てきた鏡には映ったことがない素敵な人で、驚きに言葉を忘れてしまったかのようだ。
「……で、どうです?イメチェンのご感想は」
「…あ、…いや、すごい…な、って」
「お気に召しませんでしたか…?」
「え、いえ…っ!そうじゃなくて、本当に、別人だなって…あの、凄く素敵にして頂けて嬉しいです…!」
「よかったぁ〜! お顔のイメージからかけ離れないように気をつけたんですけど、こちらこそ気に入って頂けて嬉しいです!じゃあ私、店長と一子さん呼んできますね」
「あ、はい…っ」
店員さんが奥に消えるのを見送って、鏡の前に立ってみる。服こそそのままだけど、髪も顔も指先も、今までの私と全然違う。もちろんそれは全て良い意味でだ。伸ばしっぱなしだった髪や、無くても問題ないような薄化粧、深爪の指先、今までの私がどこにも居ない。
「おっ、すごい、思い切ったねー!」
男性の声に驚いて振り返ると、そこには店長さんと先ほどの店員さん、それに一子さんの姿があった。
「でしょでしょ、ほんっと久しぶりに腕によりを掛けましたよ!」
「いやそれはいつも掛けなさいよ。でも、いやぁ、うちの店って綺麗になって帰ってもらうところだけど、いやぁほんと、見違えちゃったなぁー!あ、これ悪い意味じゃないからね?ビフォーアフターの写真撮っておくんだったなぁ」
「店長、あんま迫らないであげて。怖がられてるよ」
「あれれ、なんで?!」
二人の仲の良い掛け合いに苦笑しつつ、不思議な緊張感を纏ったまま、なにも喋らない一子さんを見た。
「一子さん、どう、でしょう…?」
「…そうね、悪くないわ」
その一言で、その笑顔だけで、心が熱くなった。
「それじゃ、次は服ね。なまえ、行くわよ」
「は、はい!っあ、あれ?一子さん、お金は」
「「ありがとうございましたー!」」
明るい声に見送られて店を出て、一子さんの後を追いかけた。
「一子さんっ、お金、いくらだったか知らないんですけど…!」
「私が勝手に連れて来たのに払わせるわけないでしょ」
「ええ?!いや、そんなわけにはいかないですよ!」
「なまえ、いま何時?」
「十四時ですけど、話を変えないで下さい一子さんって十四時!?す、すすすすみません!!こんなに長く待たせていたなんて…ッ!!」
「アンタ、忙しい子ねぇ」
「だってもうなにから言えばいいのか…!!」
一子さんにさっきの代金を払いたいし、まさか三時間も経ってたなんて思わなかったし、元はと言えば私が引き籠もって泣いてたから…あれ?でも予約入れてたって言ってたし…なんで私、ヘアメイクからネイルまで全部やってもらったんだろう?一子さんがすることならって少しも抵抗しないでいたけど、今更ながら一子さんの意図を私は全然理解していない。
「あの、一子さん、私なんで」
「ねぇ、なまえ」
ぎゅっと、手を握られた。
私はどうもこれに大変弱いのだ。一子さんの体温を感じるだけで、途端になにがどうでも良くなってしまう。これはやばい。
「髪も顔も爪も、綺麗にしてもらってどうだった?」
「どう…どうって…、それは…」
初めての体験だった。髪だってこんなにバッサリ切ったことはなかったし、染めたことだってない。自分の顔が化粧でこんなに変わるとも思ってなかったし、ネイルなんて人生において不必要だと思ってた。
でも、店員さんと相談しながら髪を整えてもらって、化粧もネイルもこんなに綺麗にしてもらえて、なにより一子さんのためにそうなれたことが嬉しくて、そして楽しかった。
「全部…初めての経験でした、今まで特に気にしてなかったことが、こんなに楽しいなんて…」
「そう、綺麗になれて楽しかったでしょう?」
「はい!とても!」
「ふふ、じゃあそれでいいわ」
「いいって…?」
「あそこの代金、元から払わせる気なんかないし」
「いいえ!そんなわけには…!」
「つべこべ言わない。アンタはこれから私の着せ替え人形になるんだから、アレくらい安いもんよ」
「着せ替え人形!?」
「ほらちゃっちゃと行くわよ。あ、その前に軽くランチとりましょ。食べないのも太るのよ、それにお肌に悪い」
「い、一子さん…っ」
「リードは引いてあげるわ。すぐ近くに美味しいオーガニックのカフェがあるの、行きましょ」
「うぅ…わ、わんっ!」
新しくラベンダー色のグラデーションに彩られた一子さんの指先が、私の指に絡む。相変わらず手を引かれて、釈然としない思いを抱えながら、それでも私はウキウキとした気持ちで一子さんの後を追いかけた。
―Charles Dederich
今日という日は、
残りの人生の最初の日である。
―チャールズ・ディードリッヒ
(2017.02.24)