あの二日酔いの日から一週間。
髪と化粧を変えた私は、この一週間で少しだけ背筋を伸ばして歩けるようになっていた。それは一子さんと並んで歩けるように、一子さんに恥じないようにと色々意識した結果でもあった。オドオドとどもる癖に気をつけたり、身の回りや服装なんかにも気を配っている。それが自分への自信に繋がるように、たまには頑張る自分を褒めたりもした。
そうして一週間頑張ってきたことが実を結んだのだろうか。私のデスク周りに度々来ていた男性たちが、いつ頃からか現れなくなったのだ。理由は分からないけれど、嬉しいことに変わりない。面白いもので、男性が周りに来なくなると私に嫌味を言っていた先輩たちも、自然と私に興味を無くしてしまったようだった。
これらの好転は全て一子さんのおかげ、助言してくれた十四子さんトド子さんのおかげ、そしてなによりそんな素敵な人たちとの出会いの場をくれたおそ子先輩のおかげだ。
そんな平和な日々を過ごす平日のランチタイム。
私はおそ子先輩に誘われて、近くのカフェにランチを食べに来ていた。量に値段が見合わないランチプレートが運ばれて来て暫くはランチタイムを楽しんでいた私たちだったのだけど、おそ子先輩が徐にフォークを置いたことで、空気が一変する。
「なまえちゃん…」
深刻そうな声で静かに名前を呼ばれ、私の喉がごくりと鳴った。
おそ子先輩の思いつめたようなこんな顔、見たことがない。余程のなにかがあるのだと察した私は、ランチプレートなどそっちのけでおそ子先輩を見詰め、その後の言葉を待った。
「もしかしてと思うんだけど…」
「……はい、」
「彼氏、出来た?」
「…………はい?」
首を90度は傾げて、おそ子先輩を見る。おそ子先輩の神妙な面持ちは変わらない。しかし、私は聞かれたことを頭で咀嚼してみても、なんの話なのか分からなかった。
「いえ…、出来てませんけど…?」
「ほんと!?」
「っ!?え、はい、本当に、」
目の前の席から身を乗り出したおそ子先輩に、ガシッと両肩を掴まれてビクリとしたけれど、嘘は言っていない。疑問符を浮かべる私の顔を暫く見つめたあと、おそ子先輩は空気が抜けるように席にすとんと戻る。なにがなんだか分からずきょとんとする私に、おそ子先輩は深い溜め息を吐いた。
「ごめんなさいね、私の勘違いだったみたい…」
「構いませんけど…、えっと、どうしたんですか?急に」
「…だって、なまえちゃん最近変わっちゃったんだもの」
「えっ…?」
変わった。確かに、ここ一週間私は変わろうと必死に努力していた。それは、もっと自分に自信を持つためであり、もっとおそ子先輩や一子さんに良く思われたいと思ったから。つまりは向上心によるものだった。でも、おそ子先輩の口振りでは、私の変化はおそ子先輩にとっては良いものではなかったのかもしれない。
「あの…、おそ子先輩、」
「だから、彼氏でも出来たんじゃないかって思ったの」
……ん??
やはり、ここが分からない。改めて首を傾げるも、私の頭では“自分を変えること”と“彼氏が出来たと疑うこと”がどうにも結びつかないのだ。
「最近のなまえちゃん凄い楽しそうだし、ウキウキしてるし、可愛くなるし、はっきり物事言うようにもなってきたし、そんなのもう誰がどう見たって男が出来たと思うじゃない!?実際周りの男共も遠巻きに指咥えて見てるだけになっちゃうし!!」
「え、そうなんですか?」
「そうよぉ!もう私色々すっごい悩んで、最近そのことばっかり考えてたんだから!!」
「す、すみません…?でも、第一に私に彼氏というのは有り得ませんし…、おそ子先輩をなにで悩ませてしまったのかも分からないのですが…」
「そう!なまえちゃんって男がダメなはずなのに、もし彼氏が出来てたとしたらもしかして悪い奴に騙されてるんじゃないかとか、それともなまえちゃんが好きになっちゃうような高スペックイケメンが現れた!?それはそれで悔しい!とか色々考えちゃって!!もぉー…頭の中ぐっちゃぐちゃよ!!」
「それって…」
じわり、心がほんのりと温かくなる。
「おそ子先輩、もしかして…心配、してくださったんですか…?」
「あっったりまえじゃないの!!…はぁー…でも、なにも無いなら良かったわ…」
本気で心配してくれて、本気で安心してくれた。おそ子先輩のオーバーリアクションとも取れるような挙動から、それがひしひしと伝わってくる。
「…もう、なに笑ってんのよ。本当に心配してたんだからね?」
「はい…、すみません」
笑うなってほうが、無理な話だ。心が温かくなると、人は自然と笑顔になってしまうものなのだと、最近学んだのだ。おそ子先輩は、ほっとしたら食欲が戻ったのか、あまり手をつけていなかったランチプレートの残りをぱくぱくと食べ始めた。その切り替えの早さに可愛さを感じて、また笑ってしまう。
「でも、じゃあなんで最近そんなに変わっちゃったの?」
笑う私を、おそ子先輩はじとりと見やる。
「変わった、と言って頂けるのは凄く嬉しいです。実は、」
一週間前の出来事を掻い摘んで説明し、一子さんと十四子さんトド子さんのおかげで、自分を変えていこうと思えた、それを実行していることを話す。髪型や化粧なんかも、見よう見まねでなんとか頑張っていると言うと、おそ子先輩からセンスが良くなったと褒めてもらえたのが嬉しい。
「へぇ…そっか、一子がねぇ…」
「はい、一子さんには感謝してもしきれません」
「…良かった」
「え?」
「なまえちゃんのこともそうだけど、一子のことも」
「一子さんのこと、ですか?」
「ええ、あの子って斜に構え過ぎてて取っつき難いでしょう?バイト先でも上手くやってるのか分からないけど、なーんか誰とどこに居ても一人になりたがるっていうか…、まぁ、ちょっとだけね、心配してたところがあったの」
一子さんと初めてバーでお話しさせて頂いたとき、一子さんはおそ子先輩のことをお節介で世話焼きだと言っていたことを思い出した。きっと、一子さんはおそ子先輩から心配されていることを分かっていたのだと思う。そしてそれを、多分ちょっと気恥ずかしく思っているのかもしれない。そう考えると、なんだか二人の関係が微笑ましく思えてしまった。まるで野良猫の心配をする優しいお姉さんだ。
思わず、ふふと笑ってしまうと、おそ子先輩がきょとんと小首を傾げる。
「すみません…、きっと一子さんはおそ子先輩のそういう世話焼きなところ、好きなんだろうなって思って」
「えー、そう?結構うざがられてると思うけど」
「そんなことないですよ。一子さんって素直じゃないところありますし」
「あら、随分一子のことを分かってるみたいね?」
「あ、いえ…分かってるなんてそんなことないんですけど…、でも、一子さんと一緒に居るとき、時々おそ子先輩と一緒に居るような安心感があることがあるんです」
「安心感?」
「はい、こう…気に掛けてくれてるなぁとか、お世話やご面倒を掛けているのに、温かく見守ってくれてるみたいな…。私が頼りないからっていうのもあるんだと思うんですけど、きっと一子さんはおそ子先輩の面倒見の良いところを尊敬して真似してるのかもしれないなって、…今思ってみるとなんですけど」
「うーん…どうなのかしらね、あの子は私のお節介を馬鹿にしてると思うけど…」
口ではそう言うものの、おそ子先輩は嬉しそうに目を細めながらどこかに視線を投げる。照れているのかもしれない。
和やかな空気を楽しんでいても、時間は過ぎるもので。ちらりとスマホを見ると、もうそろそろ会社に戻らなければいけない時間になっていた。私たちは早々にお会計を済ませて、カフェを出る。
会社までは十分と無い距離だけれど、おそ子先輩は私の腕を自分の腕に絡めて引き寄せてくれる。お昼は人通りも多いこの道で、少しでも私が怖がったりしないようにという優しさだ。ランチに使ったカフェだって、男性の入りにくい雰囲気の女性向けなおしゃれなお店だった。おそ子先輩は、本当に優しい。お節介だなんてとんでもない、凄く面倒見の良い素敵な先輩だ。
「あ、そうだ、言い忘れてた」
「はい?」
会社に戻る道すがら、おそ子先輩が思い出したようにそう言って、私の顔を見た。
「なまえちゃん、来月の土日どこか空いてる?」
「?はい、今のところなにも予定無いですけど…」
「ほら、前に会った面子居るでしょ?あの五人と温泉旅行に行く計画立ててるんだけど、なまえちゃんも一緒にどうかなって」
「えっ!?いいんですか?!」
「だってなまえちゃん、もう一子や十四子とトド子とも仲良いんでしょ?それに、なまえちゃん居たほうがうちらの緩和剤にもなりそうだし」
「かっ緩和剤頑張ります!行きたいです!」
「あはは、頑張らなくていいわよ。じゃあ決まりね、また連絡するわ」
「ありがとうございます!!」
興奮でドキドキした心臓を押さえる私に、おそ子先輩はカラカラと笑う。まさか、皆さんの旅行にお呼ばれするなんて、とんでもないことだ。とんでもなく、嬉しい。それに、旅行に行くのは初めてなのだ。最近、私の人生初めてのことだらけで、こんなに幸せで良いのだろうかなんて思ってしまう。誰か、これでいいのだと言って欲しい。
部署に戻っておそ子先輩と別れたあとも、私はウキウキした気持ちでデスクに向かっていた。昼休みが終わるまであと少しあるけれど、今から仕事を頑張ってこの興奮を鎮めたい。そんな気分だ。
不審者張りにニヤニヤ顔を抑えられずにいると、スマホが振動してチカチカと光る。着信だ、と思って画面を見た途端、私はトイレへと走っていた。
女子トイレの個室に滑り込んで、ドッドッドッと高鳴る胸を撫でつけながら、なんとか画面の応答をタップ出来た。相手は、一子さんだ。
「は、はい…」
『…もしもし?今時間大丈夫?』
「は、はいっ!あと少しあるので、大丈夫です!」
『ふふ、声でかいわねぇ』
「すみっ、すみません…っ」
『ごめんなさいね、こんな時間に』
「いえっ、全然、いつでも大歓迎ですので…!」
『ふふ、そう?』
耳元に、一子さんの艶めいた声がダイレクトに響く。それだけで、私はぽーっとなってくらくらした。脳の機能が停止してしまったように、なにも考えられなくなる。一子さんの声の魔力は怖い。
「あ、あの…それで、なにか、その、なんのご用なのかなって…」
『あら、用事が無くちゃ掛けちゃダメ?』
「いいえまさか!そんなことないです!凄く嬉しいです!」
『あはは、ちょっとからかっただけよ』
「……っ…」
だめだ、きゅーんと胸が鳴る。自分の心臓の音が耳元で鳴って、一子さんの声が少し聞こえづらい。もっとちゃんと聞きたいのに、自分の心臓に邪魔されるなんて悔しい。
『私はこれからお昼なの。時間見たらまだアンタもお昼休みなんじゃないかと思って』
私のことを思ってくれただけじゃなく、電話を掛けてくれたことが嬉しい。一子さんだって忙しい中での貴重なお昼休みのはずなのに。
『ダメね、そう思ったらつい…声が聞きたくなっちゃって』
ずきゅん。
比喩でもなんでもない。漫画でしか見たことも聞いたこともない音が確かにした。私の胸がなにかに確実に撃たれた。心臓を一子さんに貫かれた。
「…私も、一子さんの声聞きたかったです…」
『ふふ、ありがとう』
「いつも、聞いてたいです。四六時中聞いてたいし、いつでも会いたいって思ってます…」
『……………』
一子さんが電話の向こうで黙ってしまったのを聞いて、ハッとした。しまった、私はなんて気持ち悪いことを言ってしまったんだ。どう言えば先程の自分の発言を有耶無耶に出来るのかとわたわたして、頭を抱え込んでしまいたい気持ちに駆られていると、一子さんの溜め息が耳をくすぐった。
『…あんまり可愛いこと言うと、今すぐ会いたくなるからやめてちょうだい』
「…っ、あ、あの…」
『今日の夜は会いに行けないから、明日は空いてる?』
「あっ、空いてます!」
『じゃあ、明日の夜。会社まで迎えに行くわ』
「は、い…お待ちしてます…」
そこでタイミング悪く始業のチャイムが鳴ってしまい、私は慌てて一子さんに詫びを入れて電話を切ると、ダッシュで自分のデスクへと戻った。おそ子先輩に温泉旅行に誘われたのに加えて、一子さんからの電話と明日の約束で、私の心は羽がはえたように浮き足立っている。明日はなんとしても早く帰宅したい。そう思うと、無心で仕事に励むことが出来て、気づくと終業時間を疾うに過ぎていた。
ハッと周りを見回して見ると、オフィスには残業組がまばらに居るだけになっている。ちょっと無心になりすぎていたけれど、おかげで明日の仕事を大分減らすことが出来た。急な仕事が舞い込んだとしても、明日は定時きっかりに退社することが出来るだろう。
明日は一子さんに会える。そう思うだけで頬がだらしなく緩んでしまう。
さて、そろそろ帰ろうかと鞄を肩に掛け、オフィスを後にホールを目指した。
「すみませんっ!なんかどぉーしても終わりそうになくって…っ!マジですみません!」
通り掛かった休憩スペースの前で、男性の声が耳に飛び込んできて肩が強張った。恐る恐る見てみると、どうやら電話口の相手に謝っているようだ。三人の男性が固まっているけれど、足元に鞄があるし仕事に戻る様子もない。残業で約束を反故にしたとかじゃないのか、と首を傾げるも、まぁ私には関係無いしいいかと格好悪く震え始めた足をなんとか前進させる。
「あーもう、マジうっぜー」
「なに、なんか言ってた?」
「分かんね、なんか言ってたぽいけどうるせぇから切っちゃった」
「ははは!お前、いくらなんでもそりゃセンパイに失礼だろー」
「いいよいいよ、どうせ研修でこの支社来てるだけだし。あと三ヶ月もしたら俺本社だから」
「俺なんか次は多分北海道だよ、まぁ地元戻りたいって言ったの俺だけど」
「つーか、誰だっけ?おそ子サン?良かったのかよ、顔そんな悪くないって言ってたじゃん」
ぴたりと足が止まる。
「いや、悪くないとは言ったけど、口うるさいのとか無理だし。つーか年増無理でしょー、今日の合コン向こうの同い年で集めたらしいし。人数も六人って!多いわ!!集める気すら起きねぇって」
「うは、じゃあなんで合コン受けたのお前」
「いや向こうが勝手に決めたんだっつの!」
「姐さん姐さんって媚売ってっからだよ」
「フツーお世辞って分かるだろ、それを真に受けて合コンとか…あー考えるだけでちょっとトリハダ」
「でも食っとくのも有りだったんじゃねぇの?大人のオンナのほうが後腐れなくね?」
「いやいや!あんなの食ったらマジどこまでもついて来そうだから!無理無理!」
「つーか、今日の女子大生との約束は?何時から?」
「あーそろそろだわ。んじゃ、行くかぁ」
「俺は後腐れ無く食えりゃなんでもオッケー」
「お前はもうちっと見境つけろっての」
「ぎゃははは!言えてる!」
三人分の足音が、こっちに向かってくる。それでも、私の足は地面に縫いとめられたように動かなかった。恐怖から、ではなかった。ふつふつと脊髄から頭にかけて沸騰するようにイライラする。喉奥から、言葉が溢れそうになって唇を噛んだ。そんなことをしている間にもどんどん足音と気配が近づいて来て、ぐぐっと鞄の持ち手を握った拳には手汗がひどい。
足音と気配が背後に近づいたのを感じ、意を決して顔を上げて振り向いた。
僅か数メートルのところに、名前も知らない男性が三人も居る。突然振り返った私を不思議そうに見て立ち止まった。
「なに、君?」
「ん?知り合い?」
「知らね、なんか用?」
喉が熱した鉄でも流し込まれたように熱くなって、カラカラにへばりつく。それでも、必死に男性たちの顔を見上げて、声を絞り出した。
「お…おそ子、せんぱい…は、」
「え?なに、あ、もしかしてさっきの話聞いてた?」
「あー、なんだこの子、おそ子さんの部署の子か」
「まぁどうでもいいけど。あのさ、さっきの話だけど、」
「おそ子先輩は、凄く素敵な人です!!あ、あなた達みたいなのにおそ子先輩やみんなの良さが分かるわけありません…!!だ、だから…っ、そのみんなに会わないでくれて良かったです!!ざ、ざまみろぶぁーかッ!!」
利き足を支点にくるりと振り返り、全力で逃げた。
男性たちがぽかんとしていたのも分かったし、自分がなにを口走ってしまったのかも頭では理解していた。なんて馬鹿なことをしてしまったのか。いや、もっと馬鹿なのは向こうの人たちなのだし、後悔は無い。無いのだけど、恐怖で心臓が縮み上がっている。全身がドクドクと脈打って、歯がガチガチと音を立てていることが恐怖心に拍車をかけている。
一目散に前も見ずホールを抜けて、外に通じる自動ドアを通ったところで、誰かにぶつかってしまった。倒れそうになるところを、ぐっと力強く腕を引かれて、咄嗟に相手が男性だと分かった。パニック状態の頭ではなんの判断もつかず、お礼も謝罪も口から出ず、掴まれた手を振り払おうと必死になる。
「なまえ!落ち着いて!」
その声に、ハッとする。恐る恐る見上げると、そこには居るはずのない一子さんが、不安げな表情で私を見下ろしていた。どうして、なんで、言葉はやっぱり出てこなくて、代わりに私は一子さんの胸に飛び込んだ。
優しく受け止めてくれた一子さんが、頭や背中をゆっくりと撫でてくれる。呼吸も脈拍も整わない私は、ただがむしゃらに一子さんの胸に縋りついて、震えるばかり。
「場所を変えましょう…、なまえ、すぐそこにタクシー停めてるから、ちょっと歩くわよ…?」
こくこくと頷いて、抱えられるようにして歩く。タクシーに乗せてもらった後も、一子さんに縋りついたまま。行き先は私の家で、部屋に入るまで、いや入ったあとも、一子さんは私が落ち着くまでなにも言わずに背中や肩なんかを撫で続けてくれた。
やっと、ゆっくりと顔を上げられるようになると、一子さんが首を傾げるように顔を覗きこんでくる。その顔を見るだけで、心から安心出来た。
「…落ち着いた?」
「…は、い…、すみ、ませ…」
「いいのよ、良かったわアンタのところ行ってみて」
「…なんで、一子さんはあそこに…?」
そう、本当ならきっと、一子さんもおそ子先輩と一緒に合コンの会場で待ち惚けを食っているはずだ。一子さんが合コンに出ていたことには少し胸が痛むけれど、恋人でもない私が一子さんの行動を制限するなんてのはおかしな話だ。
「ちょっとした虫の知らせ、かしら」
「虫の知らせ…ですか…?」
「そう、おそ子がアンタが珍しく残業してたって言ってたから」
「あ…、おそ子先輩見てたんだ…」
「真剣にやってたから声は掛けなかったけど、遅くなるなら心配だって言ってたわよ」
「ダメですね…私はみんなに心配を掛けてばかりで…」
「どうして?それだけ大事にされるなんて良いことじゃない」
「でも、やっぱりもっとしっかりして、皆さんに心配を掛けないようにしないと…」
「いくらしっかりしたってね、心配なもんは心配なのよ」
優しく背中を撫でさすって、一子さんは微笑む。
「心配して良かったわよ、一人で泣かれたら嫌だもの」
一子さんの言葉に、鼻がつんとして、私は再び一子さんの胸に擦り寄った。ぎゅうっと抱きつくと、同じ力で抱き締め返してくれる。今、この温かさがそばにあるなんて、本当に、これはなんて奇跡なんだろう。
それから、ぽつぽつと私は事の顛末を話し始めた。おそ子先輩が合コンの約束をした男性たちが、おそ子先輩を馬鹿にする発言をしたことに耐えられなかったこと、つい啖呵を切ってしまったこと、でも結局は怖くて逃げ出したこと、一子さんは私のまとまらない話を相槌を交えながら最後まで静かに聞いてくれた。私も話し終える頃にはすっかりと落ち着いて、一子さんの温かさに甘えながら、話したことで少しすっきりとした気持ちになっていた。
「…そう、それはまた思い切ったことをしたわねぇ」
「…はい、自分でも馬鹿なことしたって思います…」
「まぁでも、私だって同じことするわよ。アンタはよくやったわ」
「一子さん…」
「でも、もし会社でそいつらに会っても無視するのよ?本当なら、そんな奴らには関わらないのが一番だわ」
「はい…、関わりたくもありません…」
良い子良い子と頭を撫でられて、ふいに喉が鳴りそうになる。一子さんの前じゃ、私はまるで一子さんのペットのようだ。
良かった、勇気を出して。おそ子先輩や一子さんみたいにとはいかないけれど、それでも、私は少しでも私の憧れる存在に近づけただろうか。
「ところで」
「んっ…はい?」
「アンタは、私が合コン行ってたことについてはどう思ってるのかしら?」
「え?」
予想もしない質問に、きょとんとする。どう、どうって、そりゃ思うところが無いわけじゃない。でも、一子さんとは、ただキスをして抱き締めてもらっただけの関係だ。私がただ熱心に懐いているだけ。そう、それだけなのだ。世の中には色んな恋愛の形があると思う、だから同性同士っていうのもべつに間違ったことではないと思っている。でも、それは私が男性恐怖症だからそうなっただけであって、そうじゃない一子さんはきっと普通に男性が好きだろうし、そう、必死に懐いてくれるペットが可愛くてついキスしちゃったくらいの、そんなものなのかなとも思うのだ。
悲しいとか、もっと欲しいなんて、私は思っていい立場じゃない。
「……べつに、合コンに行くのは一子さんの自由ですから…」
こうやって今、一緒に居てもらえるだけ、私は恵まれている。
「あら、私の欲しい答えとは違うのね」
「えっ…?」
「もっと嫉妬してくれるかと思ったんだけど」
「しっ、嫉妬って、そんなの…する、資格が無いと思うので…」
「そう?普通は恋人が合コンなんか行ったら怒るもんでしょ」
「こい、びと…?」
「いくら付き合いで行ったとしても、好い気はしないでしょう?」
「えっ、え、待って、待ってください、…え?一子さんと私って、恋人同士…なんですか?」
「アンタ、なんでもない相手ともキスするの?」
「しませんよ!と、というか…その、キ、キス、も一子さんとしかしたことない…ですし…」
「あら嬉しい」
一子さんの妖艶な笑みにドキリとする。いや、違う違う。今はそうじゃなくて、そんなことはどうでもよくて
「だって、私…っ、一子さんからなにも言われてないです…っ!」
「?なにもって?」
「そ、の、…好き、とか、そういうの…」
「あら、言ってなかったかしら?」
「聞いてません!」
「でも、後悔しないかって聞いて、後悔しないって答えたじゃない」
「え、それはそう言いましたけど…えっ!?アレって、えっ…?そういう、意味なんですか?」
まさかあれが、付き合おうというお互いの了承を取っていたなんて思いもしない。一週間前のことを思い出しては右往左往する私を、一子さんはうふふなんて優雅に笑って見ている。いやいや、笑ってないで!
「私は、そういう分かりづらいのじゃ、全然察したり出来ません…っ!」
「そうみたいねぇ」
「いっ、一子さんは、ずるい…!」
「ふふ、丁度良かったわ」
「なにがですか…?」
「ほら、怒った顔しないで。可愛い顔が台無しよ?」
そう言われたって、怒ってはいないけど、不満が無いはずもない。だって、私ばっかり好きで好きで仕方なくて、ただただ追いかけていたのに、それがまさか両思いだなんて…もっと早く知りたかった。今、心の中はきらきらとした光が差し込んで、天にも昇ろうというところだけれど、それを素直に出すのはなんだかちょっと癪だ。そんな一子さんも妖艶で素敵、なんて、思ってない、思ってないもん。
「ほら、もし今日のことを思い出すとしたら、怖い思い出じゃなくて、私との思い出になるでしょう?」
ずるいくらい優しく艶めかしく、一子さんの指先が私の頬を撫でる。それだけで懐柔されそうな頭を、ぶんぶんと振って、つんと横を向く。気を抜いたら頬が緩んでしまう。
「嫌なことがあったときは、それよりもっと刺激の強いことで上塗りすると良いのよ」
顎を持たれて、顔を一子さんのほうに向かされる。見上げると、あの綺麗な瞳が私を真っ直ぐに捕らえていて、目を逸らせない。
「なまえ…、触るわよ」
「えっ…ッ、んぁ…っ」
顎を持ち上げる手とは逆の手が、素肌のお腹を撫でた。いつの間にスーツの中に手を入れられたのかも分からないし、視覚的に見えないことに心臓がこれでもかと暴れだす。くびれや背中を一通り撫でる一子さんの少し冷たい手のひらに、びくびくする。小さく声が漏れるたびに、目の前の一子さんが薄っすらと微笑む。よく見れば、一子さんの頬は上気して淡く色づいている。目元も潤んで、…なんだか、
「ふふ、なまえの目…可愛い、すっかり欲情した顔しちゃって」
そう、欲情しているような顔。きっと私も、今見えている一子さんと同じような表情をしているに違いない。それは、なんて恥ずかしい。
「安心なさい、ここから上も下も触らないから…」
そう囁いて、一子さんの顔が近づいた。自然と瞼が降りる。
上も下も触らないという一子さんの言葉に、がっかりしている自分に気づいて、頭がおかしくなりそうなくらい恥ずかしかった。
気づけば私は床に転がっていて、一子さんが上に覆い被さっている状態だった。角度を変えて何度となく唇を合わせながら、腹部をくすぐったいくらい優しく撫でられ腰が浮き上がる。感じたこともない、知らないなにかが体を走り回って行き場をなくしている。でも、私はそれをどうにかする術を知らなかった。
「んぅ、っは、いちこさん…っ」
「なまえ…、」
全身が沸騰するような感覚。頭がぼんやりして、一子さんしか見えない。
「…好きよ」
「……っ」
一子さんの言葉に、全身が震撼する。溢れ出した涙で、視界が一気に歪んだ。それを一子さんは優しく拭ってくれる。
そのまま、何度か啄ばむようなキスをされて、唇を舐められた。びくりと震えると、小さく笑われる。
「可愛い…」
「いっ、いちこさん…っ、ず、ずるい…っ」
「んー…?どこらへんが?」
「ど、こって…ぜんぶ…、なんか、すごく、なんか…っ」
「ん…?」
「…いやらしい」
いっぱいいっぱいで搾り出した私の言葉に、一子さんは一瞬ぽかんとして、次の瞬間には凄く可笑しそうに笑い出し、私の肩口に顔を埋めてしまった。一子さんが笑うたびに首筋に掛かる息が、くすぐったくて、恥ずかして、生唾を呑むほどドキドキする。
「わ、笑わないでください…!私は、本当に、そういうのに慣れてなくて…っ」
「ふっ、ふふ、あは、ごめんなさいね…っ、でも、ほんと…っふふ」
笑いを収めるために吐かれる長い吐息を感じて、身をよじる。顔を上げた一子さんは、まだ可笑しそうに目尻に涙なんか溜めちゃって、私は少しだけムスッとした表情を作った。
「可愛い」
「……あんまり、嬉しくないです…」
「あら、褒めてるのに?」
「…………」
「ふふ、…ねぇなまえ、愛してるわよ」
「っ、いち、こさん…っ」
「だから、私といやらしいキスしてみない?」
「えっ…ッ」
返事は聞いてくれないらしい。噛みつくように顔が近づいて、べろりと舐められた唇を割って一子さんの舌が滑り込んでくる。逃げようとしても頭を押さえられて逃げられず、口の中を好いように懐柔していく一子さんの舌に、腰が何度も震えた。
知らない感覚が怖くて、一子さんに縋りつく。温かな体がぴたりとくっついて、気持ちいいのに逃げ出したい。呼吸すら貪られ、酸欠で頭がくらくらしてきた。抵抗も出来ない私は一子さんにされるがまま、目を閉じて、ひたすら波に耐える。つらいのに、気持ちいい。嬉しいけど、逃げ出したい。一子さんの胸を控えめに押してみると、やっと呼吸の合間を与えてくれた。
呼吸というより咳き込んで、一子さんから距離を取ろうとするけれど、それは許してもらえない。頭を撫でられるのと一緒に、何度か少しだけ深いキスをした。それだけですっかり疲れてしまった私は、もうくたくたのぐったりで、呼吸を整えながら一子さんの胸に顔を埋める。ここに居れば、キスで呼吸困難にされることはないだろう。もう、限界だ。
「はぁ、はあ…っ、い、一子さん…っ、も、むり…っ」
「残念ね…、キスしてるときのなまえすっごく可愛いのに」
「かわ、可愛くないです…っ」
「可愛いわよ」
「そんなこと言ったら、一子さんのほうが…っ、セクシーすぎて困ります…っ!私の心臓を潰す気ですかッ!」
始終ドキドキしっぱなしで、心底身のやり場に困った。一子さんを少し睨むように見上げると、目を細めて微笑まれた。…なんだか、一子さんは私が反抗的な態度を取るたびにそれを楽しんでいるような顔をしている気がする。気のせいだろうか?
「ねぇ、明日も早いんでしょう?」
「え?はい、まぁ…」
「じゃあ今日はもう寝ましょう、泊まって行って良いでしょ?」
「えっ、えっ!?」
「あら、ここまで来てこんな夜中に帰す気?」
「ま、まさか!どうぞどうぞ!ちょっと待ってください、ちゃんとお風呂とかご飯とか…っ」
時計を見るともう二十二時を回っていた、早く準備しなきゃと思い立ち上がると、くいと腕を引かれた。
「お腹空いてる?」
「あ、いえ…特には」
「じゃあ、シャワーだけ借りても良いかしら」
「あ、ちゃんとお風呂溜めます!」
「いいわよ。それに、早く寝たいもの」
「一子さんが、それでいいなら…」
渋々頷いて、私は着替えなどの準備を始めた。
一子さんの勧めで先にシャワーを終えた私は、髪を乾かしてベッドで待っていたのだけど、よく考えたらこの狭いシングルベッドに二人で寝るのだろうかと思い至る。来客用の布団など無いこの部屋で、寝れそうな場所なんかこのベッドしか無い。一子さんをベッドで寝かせて、私は床にクッションを並べて寝るしかないだろうか。エアコンを入れておけばなんとか風邪を引かずに朝を迎えられるのでは…?
「なにか考え事?」
「はい、私はどこで寝ようか、と…」
見上げた一子さんの破壊力たるや、凄まじいものだった。
湯上りの火照った姿、私のパジャマを着て、髪はもう乾かしたのか後ろに軽く流している。なにより化粧のない一子さんの顔は、少し幼さがあってちょっと可愛らしい。正直に、ドキドキした。
「どこでって、どこで寝るつもりだったのよ?」
「あ、一子さんはベッドで、私は床でなんとかいけるかなって…」
「アンタ、馬鹿?」
「えっ!?」
「普通に考えて、アンタが寝るところなんて私の腕の中しかないでしょ」
「ないんですか!?」
一子さんは、当たり前だと言い切るようにベッドに上がってきて、さっさと布団に潜り込んでしまった。呆気に取られる私を見上げて、ここに来なさいとばかりに腕を広げる。
ああ、こういうとき、きっと男性なら…なんて思考が飛んで、首を振る。部屋の明かりを消した私は、言われるがまま一子さんの胸に擦り寄った。ぎゅっと体を包む温かい体と腕は、湯上りだからこんなに優しい温かさなのだろうか。
「…聞いたわよ、なまえも来月の温泉旅行来るのよね?」
「あ、はい、おそ子先輩に誘われて…」
「楽しみね」
見上げると、暗い室内でも一子さんが優しい表情をしているのが分かった。本当なら、今まで仲良くしていた六人グループの和を乱す私の存在なんか邪魔なはずなのに。おそ子先輩も、一子さんも、きっと他のみんなも、温かく私を迎え入れてくれる。不思議な人達だ。不思議だけど、とても素敵で、知り合えたことをこんなにも心から喜べる人達と出会えるなんて。私は、なんて幸せ者なんだろう。
「はい、とっても楽しみです」
素直な気持ちと、少しの気恥ずかしさから、一子さんの胸に擦り寄ると、温かな手で優しく頭を撫でられた。
―Benjamin Franklin
愛されたいなら、愛し、愛らしくあれ。
―ベンジャミン・フランクリン
(2017.03.20)