近所の公園に遊びに行くと、よくベンチ裏の草陰で猫を構っている男の子が居た。
面倒見が良くて、真面目なことばかり言うその子は、私とは違う幼稚園に通っていたか、私より年上だったのだろう、公園以外の場所で彼を見かけたことはなかった。
私は毎日その公園へ行き、彼と一緒に猫を構ったり、彼とお話しするのが大好きだった。私たちにとって、ベンチ裏の草陰は秘密の場所。二人きりで会える特別な場所だった。

彼は、私の初恋だった。

堪えきれず気持ちを伝えると、彼は驚いたあと、照れ臭そうに私と同じ気持ちだと言ってくれた。私は、幼心にこの人が運命の人なのだと思った。大きくなると、女の子はみんなお姫様になるのだと思っていた私は、彼がまさに私の王子様なのだと信じて疑わなかった。それは、幼少期の幸せな幻想だ。
白詰草の指輪を作って贈り合い、将来の約束を交わし合う。子供の幼稚なごっこ遊び。それでも、私は幸せだった。

あれは、そんな約束を交わし合ってから少し経った頃だと思う。
いつもの公園の、いつもの草陰。そこに、彼の姿が無かった。不思議に思いつつも、そのうち来るだろうと私は彼を待ったのだ。
そうして少しして、思った通り彼は来た。見たことないニヤニヤ顔を浮かべた彼に、私は腕を強く掴まれ草陰から引っ張り出された。
困惑するままの私が立ち尽くしていると、突然彼が私のスカートを勢いよく捲ったのだ。呆然とした。
子供の頃、男の子の間でスカート捲りが流行っていたのは知っていたけれど、私はそういうのに怒れる性格でも、されるほど仲の良い男の子が居たわけでもなかったから、それが初めての体験だったのだ。驚いて、困惑して、スカートを押さえたあとに彼を見ると、最初と変わらないニヤニヤ顔を浮かべていた。
彼がこんなことをするなんて信じられず、やられたことの事実も受け止められず、その日は走って逃げ出した。
次の日、昨日のはなにかの間違いなのではないかと思って公園に行くと、彼は秘密の場所ではなく砂場のところに居た。思い切って声を掛けてみると、彼はハッとした顔をしたあと、私に小さなバケツいっぱいの砂を掛けてきたのだ。
私のなにがいけなかったんだろう。彼はその後も執拗に私をいじめてくるようになった。時には頭に毛虫をつけられたり、追い回されたこともある。
すっかり秘密の場所には近寄ることも無くなり、気づけば、私はその子のことも、他の男の子も男の人も自分の父親でさえ怖くて仕方なくなっていた。

心から好きだった男の子に、理由も分からず嫌われて、あんなに優しかった彼がこんな簡単に豹変するのだから、周りの男性という存在は、みんな私が嫌いで危害を加えて来るのだと思った。その恐怖は、筆舌に尽くしがたい。

今でもたまに思うのだ。
もし、あの子を好きにならなかったなら。
ただの近所の嫌な男の子に嫌がらせされただけだったなら、その子を嫌いになるだけで済んでいたのかもしれない。
あんなに好きにならなければ、好きだと言われなければ、今だって、

一子さんから、逃げ出したいなんて思わなかったかもしれない。


□


ふっと、白から黒に視界が切り替わる。
夢を、見ていたらしい。
寝起きにしてははっきりと開いた目で、きょろりと辺りを伺ってみる。ここは旅館の一室で、まだ夜明け前だろう暗闇の中、みんなの寝息が聞こえる。
もぞりと上半身を起き上がらせると、布団に水が落ちた。
目元に触れると、濡れている。昔の夢に魘されるなんて、情けないなと思いながらそれを拭った。
ふと顔を上げると、広縁の椅子に誰かが座っているのが見えてビクリとした。よく見てみると、一子さんが窓の外を見ているだけのようだ。

起き上がって、近寄る。
一子さんは、開いた窓の向こうを眺めるだけで私には振り返らなかった。
一子さんの視線を追って私も窓の外を見てみる、窓の外には夜明け前特有の青の世界が広がっていた。建物も木々も空も、全てが青一色の世界。不思議と無音のこの世界を、一子さんはなにを思いながら眺めているのだろう。

「ねぇ、なまえ…」
「…はい、」
「少し、話せる?」

見下ろすと、見上げられていた。言葉を返す代わりに頷いて見せると、ゆっくりと立ち上がった一子さんは掛けていた上着に手をかけた。コートを差し出されたので、黙ってそれを受け取り袖を通す。手を引かれ、私たちは部屋を後にした。

一子さんに連れられてやって来たのは、旅館の裏手、あの露天風呂から見える海だった。浜辺は風が強く、旅館の浴衣にコート一枚じゃさすがに寒い。

「やっぱり冷えるわね…、平気?」
「…はい、ちょっと寒いですけど、平気です」
「そう?でも、私が平気じゃないのよね」

そう言って、抱き寄せられた。人気のない夜明け前の浜辺とはいえ、いつ人の目に触れるか分からない場所で抱き締められるのは、凄くドキドキする。一子さんは、こうやっていつも私を翻弄するのだ。力強い腕の中、擦り寄ると更にきつく抱き締められる。この温かさや安心感に、私はいつも甘えてばかりだ。

「聞いたわよ」

静かな声で、一子さんは言う。見上げると、目が合った。

「私に彼氏が居るとか、カラ子が言ってたんですって?それで、アンタ昨日おかしかったんでしょう」

なにも言えず、ただ一子さんの目を見つめる。優しい、いつもの眼差し。辺りはまだ暗く、周りの景色すらおぼろげなのに、一子さんの表情や姿だけははっきりと認識出来る。

「バカねぇ、あんな話鵜呑みにして。彼氏なんて居たら、アンタとこんなことになってないわよ。私、そこまで器用じゃないもの」

安心させるように、頭を撫でられる。まだ眠気が残っているのか、ついうっとりと目を閉じてしまいそうになる。

「それに、昨日の電話のことだけど。…あれは、私の家族のことで、ちょっと話しづらかったのよ。私も言い方がきつかったわよね…ごめんなさい。べつに大したことじゃないの、両親のために月々お金を入れてるんだけど…その入金が遅いって兄にせっつかれてただけ。隠すことでもないのに、…ちょっと過敏になりすぎてたみたい。許してくれる…?」

一子さんは、ずるい。
私の不安や不満の棘に逸早く気がついて、ひとつひとつを優しく抜いていってしまう。なにも言っていないのに、全て気づかれて、結局は一子さんの優しさに甘えさせられる。大切にされて、甘やかされて、愛される。私は、小さなことひとつで一子さんを疑ったり、自分を見失ったりするのに、一子さんはそれでも私を許そうとしてくれる。
一子さんの胸に顔を埋めると、壊れ物を扱うような仕草で優しく頭を撫でられた。一子さんは、本当にずるい。優しくて、心が広くて、ただ愛してくれて、どうしていいのか分からなくなる。
頬を撫でる指先は、夜風に濡れて冷たい。それを掬って、指を絡めた。

「一子さん…、キス、してもいいですか?」

一子さんの指先に軽く唇を当てて、きゅっと絡めた指に力を入れる。心臓が、喉元で脈打つような錯覚。吐きそうなくらい、ドキドキする。
近づく一子さんの唇を、首を伸ばして迎え入れる。ゆっくり食んで啄ばむと、呼吸を呑まれるように噛みつかれた。肩が浮いて逃げ腰になるけれど、するりと後頭部に手が差し込まれ逃げられなくなる。自分から差し出した舌に、一子さんのが絡んで呼吸がままならなくなった。

「…っん、ぅッ…」
「んっ…なまえ、…ねぇ、なまえ、」
「っ、ふ、い、いちこ、さん…っ」
「…お願いだから、…泣かないで」

ぼろぼろ、ぼろぼろと、大粒の雫が頬を転げ落ちていく。
これは、私の中から溢れた“一子さんを好きな気持ち”だ。ぼろぼろと、零れて、落ちていく。

「ごめ、なさ…、一子さん…っ、ごめん、なさい…っ」
「なまえ…」
「わたし、今まで、気づかない振りをしてました…、分かってたのに、本当は、こうなるって分かってたのに、それからも逃げてた…ッ」

嗚咽混じりの私を、逃がさないようにきつく抱き締めてくれる一子さんが、愛しくて、悲しい。好きだからこそ、怖くて仕方ない。結局、私は自分の弱さに負けて、一子さんまで傷つけるんだ。

「…っ、子供の頃、好きな子が居たんです…、本当に好きで、将来の約束だってしたくらい、子供の約束です、それくらいは分かります、でも、私は本当に嬉しかった…、だけど、その子、急に、私のことを嫌いになってしまったようで、…嫌なこと、いっぱいされて、私、それで、…気づいたら、男性みんなが怖く、なってました…」

一子さんの胸元が、私の溢した好きで濡れていく。私の心と体のバランスが崩れていくのが手に取るように分かった。体は、一子さんに反応して好きだと叫び続ける。抱き締められれば喜ぶし、キスしただけで幸せになれる。でも、心は一子さんから逃げ出したくて悲鳴をあげているのだ。これ以上はもうダメだよ、とあの日の幼い私が言うのだ。また、同じことを繰り返したいのかと聞いてくる。

「わたし、わた、し…っ、一子さんのこと、好きで、本当に大好きで、愛してるのに…っ、だめなんです、昨日、彼氏の話が出たとき、私は一子さんを疑うことしか出来ませんでした、裏切られるのが怖くて…、一子さんが私のことちゃんと愛してくれてるって分かってるのにッ、同性となんか、生半可な気持ちじゃ付き合えないってことも分かってるんですっ、遊びじゃないって、それが分かるくらい一子さんは優しいし、私のことを大事にしてくれてる…っ」

それが分かってるのに。それでも、私は自分の保身しか考えられず、どうしたら自分へのダメージが減る考え方が出来るのか、そればかりにしか頭が働かない。

「ごめんなさい…っ、私、一子さんが、いつか私を嫌いになったとき、耐えられないんです…ッ!わたし、も、もう、…っなにかを怖がって、生きていたくないの…!!行動も、感情も、全部制限されてッ、まともな人付き合いも出来なくて…ッ、そんな自分が嫌いで、大嫌いで、…変わろうとしたけど、上辺だけで、本当は全然なにも変わってなくて、…っつらい…っ」

あまりにも自分勝手で、私の主張は全部自分のことばかりで、最低だ。本当は一子さんに嫌われたくないし、その努力をしていきたい。でも、どんなに頑張っても、本質的に私はひどく脆いのだ。無意識に逃げ道ばかりを探しているし、自分が一番可愛くて、傷つきたくなくて、どれだけ上辺を取り繕っても私は、あの日、初恋の男の子に裏切られて殻に閉じ籠ってしまった私のままなのだ。

「……ごめんなさい、…一子さん、ごめんなさい、…弱くて、ごめんなさい…、一子さんのこと信じてあげられなくて、本当に、…ごめんなさい」

一子さんの腕の中から逃れると、それでも優しい一子さんは私の腕を掴む。一子さんを今まさに裏切っているのは私なのに、きっと一子さんはそんな私ですら許そうとしてしまう。

「…なまえ、…ごめん、なさい」
「…なんで、一子さんが、謝るの?」
「……………」
「……一子さん、今まで、ありがとうございました…」

腕は、するりと簡単にほどけた。私は旅館の部屋に戻り、一子さんは浜辺に残った。
涙でぐちゃぐちゃの顔を洗って、広縁の窓から見える外を見た。昇り始めた朝日が、目に眩しい。

「あれ…?、なまえちゃん…?」
「おそ子先輩、おはようございます」
「おはよう…、ふわあ…はぁ、なんだ…まだこんな時間じゃない…」
「ふふ、でも朝日が綺麗ですよ」

きっと、私は上手く笑えていたはずだ。


There is strong shadow where there is much light.

―Johann Wolfgang von Goethe

光が多いところでは、影も強くなる。
―ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(2017.03.20)


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