温泉旅行から帰って来て、もうすぐ三ヶ月が経とうとしていた。
私は相変わらず背筋を伸ばして歩くようにしている。
仕事も、少しくらいゆっくりしても定時には片付くくらいには慣れてきて、最近は細々と新しい仕事を頼まれるようにもなっていた。今も変わらず、男性は怖い。でも、ただ震えて逃げて泣くようなことはなくなった。顔は未だに憶えられないし、触れることなんて論外だけれど、前よりは少しだけ普通に話せるようにはなっていると思う。勿論、当社比程度だと認識してほしい。

午後五時。終業のチャイムが鳴って、ほっと一息。
今日は、おそ子先輩と夕飯を食べに行くことになっている。行くのは近くのファミレスだ。本当は個室があるところを提案されていたのだけど、私がそれを断ったのだ。少しでも、普通に生活したい。最早意地と呼べるものだったと思う。恐怖心で潰れそうな心臓を抱えながらでも笑えるようになったのは、こういった地道な努力のお陰でもあった。

「お疲れ様、なまえちゃんもう行ける?」
「おそ子先輩、お疲れ様です!行きましょうか!」

最近、私がにっこり笑って見せると、おそ子先輩は複雑な表情を作る。おそ子先輩も聡い人だから、なにかを感じ取っているのだと思う。けれど、私はそれを無視して明るく振舞うのだ。
少しでも、ずるく生きたかった。嘘と誤魔化しに塗れれば、少しは生きるのが楽になるはずだ。馬鹿正直でいるだけ、損をする。心が嘘をつくと、体はそれが真実だと思い込む。それをゆっくりと馴染ませれば、心も嘘を真実と思えるようになるはずだ。私は、そんな生き方を選ぶべきなのだ。

会社近くのファミレスはそれなりに混んでいたけれど、喫煙席なら空いていると言われたので、おそ子先輩に確認を取って空いている席に案内してもらうことにした。
本当は煙草なんか嫌いだし、食事中に喫煙する人の心理を疑うくらいには、食事と喫煙の関係性を理解出来ない。けれど、おそ子先輩が平気だと言うのだから、私も平気。それくらい、なんてことない。

「あー、ファミレスって久しぶりだわ」
「私、実は初めて来ました」
「えっ!?そうなの?なまえちゃんって、実はお嬢様?」
「え?あはは、なんでですか」
「だって、子供の頃だって…、あー…私の子供の頃は、ファミレスなんて本当にご馳走だったのよ?もう、行けるだけで嬉しい!みたいな」
「ふふ、私は家で食べるご飯のほうが好きだったんだと思います。両親も忙しい人たちでしたし、小学校からは全寮制だったので、ただ機会が無かっただけかもしれませんけど」
「そうなの?あ、早く頼まないと結構待たされるかもしれないわね」
「そうですね、なににしようかな…」

おそ子先輩の優しさに触れながら、平然を装う。メニュー表に視線を滑らせていると、視線を感じて顔を上げた。

「?おそ子先輩?どうかしました?」
「…ううん、決まった?」
「あ、はい、この和風御膳っていうのが美味しそうだなと」
「じゃあ私は…たらこクリームオムライスにしようかな」

店員さんを呼んで、注文を告げる。男性だったけど、少し体が震えるだけだった。まぁ合格点じゃないかな。
お冷を飲みながら、ファミレス特有の雰囲気が物珍しくて少しキョロキョロしていると、また視線を感じる。見ると、やはりそれはおそ子先輩からのもので、私は、観念することにした。

「おそ子先輩、私、おかしいですか?」
「えっ、いえ、べつにおかしいってわけじゃ…ないのよ」
「でも、なにか心配掛けてますよね…?」
「……ごめんなさい、ついお節介が働いちゃうのよね」
「謝らないでください。凄く、嬉しいです」

私が笑うと、おそ子先輩も曖昧に笑い返してくれる。

「…あのね、聞いていいのか分からないんだけど…」
「はい、なんでしょう?」
「あー…、あのね、その、もしかしてなんだけど、…一子と、なんかあったのかなって」

少しだけ、口角が硬くなった。でも大丈夫、私はまだ笑えてる。

「一子さんと?どうしてですか?」
「温泉旅行から帰って来た辺りから、あの子様子が変っていうか、なまえちゃんも…無理してるように見えるから」
「無理…?うーん、思い当たるところが無いですけど…」
「それなら、良いんだけど…」
「…一子さん、様子が変って、どんなふうにですか?」

掘り下げなくて良い話題を掘り下げてしまった。これは殆んど無意識に口から出てしまったのだ。ああ、なんて未練がましい。

「なんていうのかな、心ここに在らずっていうか…、ここ一月くらいはずっとイライラしてるみたいだし」

イライラ。そっか、一子さんはきっと私のことを後悔して、イライラし始めている段階なのかもしれない。それから、それすらも馬鹿らしくなって、そのうち綺麗さっぱり忘れてくれる。いつかふとした瞬間に私のことを思い出しても、少し無駄な時間を使ってしまったなと思うくらいで、どんどん私の存在なんかは一子さんの中から風化し、消えていく。
それでいい。それが、いい。
ぐっ、と奥歯を噛み締めた。反応しそうになった涙腺は、瞬きと少し長めの呼吸で落ち着かせる。大丈夫、大丈夫だ。これが、私の望んだ結末なのだから。

「バカじゃないの」

ハッと、顔を上げる。一子さんの声が聞こえた気がして、つい辺りを見回してしまった。まさか、こんなところに居るはずない。
前に顔を戻すと、おそ子先輩が少し困った顔をして私を見ていた。

「なまえちゃん、多分後ろの席…」

おそ子先輩が指差したのは、私の後ろのパーテーションで区切られたボックス席。振り向いても、当然ながら見えるはずがない。
この三ヶ月間、連絡も取らなかったし、街で偶然会うこともなかった。それが私にとっては救いだったのに。そりゃ、同じ街に住んでいれば、いつかはこういうこともあるだろう。でも、それはもっと先が良かった。私はまだ、一子さんの顔を見て普通に話せる気がしない。まだ私は、嘘と誤魔化しに染まりきっていないのだ。

「バカってなんだよ。仕方ないだろ、仕事が忙しかったんだから」
「それにしたって、三ヶ月も時間が取れないってなに?バカにしてる?」
「だいたい、俺じゃなくても良かっただろ?お前こそ、その格好で来るのやめてくれる?」
「こっちだってバイト上がりでそんまま来てんのよ!」

真後ろの席だ。どうしても会話が筒抜けに聞こえてきてしまう。相手は男性のようだ。ああ、でも、一子さんの声だ。一子さんの、声だ。

「なまえちゃん…?」

溢れるものを止められず、両手で顔を覆った。幸いなことに、おそ子先輩が声を潜めてくれているお陰で、向こうはこっちのことに気づいていないみたいだ。口振りからしても、こっちの様子に気を配っている余裕も無さそうだ。

「向こうの、あれがカラ子が言ってた一子の彼氏、なのかしら…」

そんな話もあったな、とぼんやり思った。例え、そうだったとしても、もう私には本当に関係の無い話だ。あのとき、一子さんが言っていたことが嘘でも、私にはもう関係無い。

「…なまえちゃん、あなた、もしかして…」

おそ子先輩の言葉に、なにも返せない。私はもう顔を覆って俯いていることしか出来なかった。
例えば、私の拙い嘘や誤魔化し、それにまともな判断力や取り繕った体裁なんかを壊したかったら、簡単なことだ。私の前に、一子さんを連れて来れば良い。それだけで、脆い本来の私が顔を出して、勝手に崩れ落ちていく。

「つーか、なに?二十年も前のことが聞きたいって」
「十九年前、私が仲良くしてた女の子居たわよね?」
「え?そんなことあった?」
「ちゃんと思い出さないと、ぶっ殺すわよ」
「なんなのお前、人に質問する態度じゃないんだけど」
「質問してんじゃないの、尋問してんのよ」
「あーはいはい、…んで、なに?誰?」

カチ、す、はぁ、と男性が煙草を吸う音さえ聞こえてくる。
私は、こんなところで、二人の会話に聞き耳を立てていて良いのだろうか。いや、良いはずなんかない。
でも、心が言う。聞いていなさい、と。それは、幼い私の声だった。

「みょうじなまえ、憶えてるでしょ」

ドキリ、心臓が一度大きく跳ねて、そこからずっと強く打ちつけ始めた。呼吸の感覚も狭まる。
なんで、私の名前が出てくるの?

「なまえ…って、あー…、あれは…」
「知ってんだな?」

一子さんの声が、聞いたこともないくらい低いものになった。いや、寧ろ今の声を一子さんのものだとは思えなかったのだけど、会話の流れや人数からしても一子さんが発言していないとおかしい。

「いや、でも、もう二十年も前の話じゃん…?」
「話せよ。こっちは、終わってねぇんだよ」
「はあ?つ、か、その姿で凄むのやめてくれる?」
「……………」
「…分かったよ、でもあのときは俺ら子供だったし、」
「おれが風邪引いて公園に行けない間に、なまえちゃんは居なくなってたんだ。いくら待っても、もうあの場所に来なかった。てっきり、心変わりされて飽きられたんだと思ってた。でも、本人に聞いたらおれが知ってる話と違うんだよ。…チョロ松兄さんなら知ってんだろ?」
「本人って…、あいや、だから、あれは…はぁ…、言いだしっぺはおそ松兄さんだかんな…。俺らは、その…だから、……はぁ、…お前が風邪で倒れてるとき、おそ松兄さんが、このままじゃ一松が盗られて、俺らがバラバラにされるって…言い出して、それで…、そのなまえちゃんって子に、ちょっと、嫌がらせっていうか…」
「……………」
「俺らもガキだったし、面白半分で、まさか本当に居なくなるなんて思わなかったし…」

心臓を、口から吐き出しそう。
気持ち悪くて、眩暈がする。なに、なんの話?なんで、なに、どういうこと?なんで、一子さんが私の話を、私の知らない人としてて、一子さんが、なんで、なにが、どうなって

「ごめん、一松」

いちまつ
まつの いちまつ
『なまえちゃん、おとなになったらぼくとけっこんしてくれる?』
『うん、いいよ。わたし、いちまつくんとけっこんする!』
『じゃあ、やくそく。これは、えんげーじりんぐ…』
『ありがとう、わたしも、えんげーじりんぐあげる!』
『…すきだよ、なまえちゃん』
『うん、わたしも…』

すきだよ、いちまつくん

私は、二人の席の前に立っていた。見下ろした一子さんは、愕然とした表情をしていて、向かいの男性は固まっている。

「なまえ、ちゃん…」
「…えっ!?あ、え、この子が…?!」

一子さんの顔で、私の聞いたことのない声で、聞いたことのない呼び方をする。この人は、いったい誰なの。なにが本当で、どれを信じたら良いの。
不思議と、足は震えていなかった。心臓は、どこかに行ってしまったように静かだ。今自分がどんな顔をしているのかなんて分からない。でも、頑張って取り繕ってきた笑顔は忘れてしまった。
どこかさっぱりとした心持ちの中で、一子さんに最初に言われたことを思い出す。そうして合点がいった。あのときから、きっと出会ったときから、一子さんは私が誰か知っていて、自分が私になにを偽っているのかも理解していたのだ。だからこその、あの言葉だったのだろう。

「一子さんが、最初に言っていた“私を後悔させる”って、こういうことだったんですね」
「あ…の…、なまえ…、あのね、…」
「それならそうと言ってくれれば良かったんですよ。最初から」
「なまえ…」
「そしたら、後悔もなにも、一子さんのこと好きになんかならなかったです」
「ッ…、ご、ごめ…」
「謝らなくていいです。もう…、もうなにを言われても、誰のことも、もう、信じられない、から」
「なまえ…っ!!」

もう立っていられる気もしなくて、走り出す。私は、またしても逃げ出した。
本当なら、もっと話し合うべきなのかもしれない。でも、もうなにを話したって理解出来ない気もしていた。だって、今だって混乱して、なにがなんだか分からない。視界も溺れて、前だってよく見えない。頭は冷え切って冷静なはずなのに、なにも考えられない。今の私は、いったいなにを原動力にして動いているのか、それすらも真っ白だった。

「あ痛てッ!」

前も見ずに走っていたら、ドンッ、と勢いよくなにかにぶつかって、後ろに転んでしまった。地面に突いた手やお尻が痛い。誰かにぶつかったのだろうから謝らなきゃと思うのに、私は電池が切れたようになにも言えず、その場に座り込んだまま立ち上がることも出来なくなっていた。頭も体も、なにも働かない。

「ちょっと、前見て歩いてよ〜」
「いやいや、めちゃくちゃ走って来てたの避けなかったのお前じゃん」
「いやあ、OLの大疾走に見惚れちゃって」
「あーはいはい、スカートだしね」
「つーか、君、大丈夫?」
「あれ?この子、」

顔を覗きこまれて、びくりと体が反応する。男性だ。声からしても、三人は居る。そこまで思い至ったのに、体が硬直して動かなかった。なぜ、なんで、なんて思うけど、答えは簡単だ。私は、恐怖で動けなかったのだ。

「ねぇー、この子アレじゃない?この前、俺らに啖呵切って走って逃げた子」
「あ?ああー、おそ子さんのときの?マジで?」
「マジマジ、ちょっと可愛いから憶えてたんだよねぇ」
「んで、なに。この子マジでどうしたの?」
「泣いてるみたいだけど、なんかあった?」

喉が張りついて声が出ない。どうしよう、どうすれば放っておいてもらえるだろう、なにか、なにか上手いこと言わないと。

「もうさ、この子で良いんじゃね?」

腕を掴まれて、無理やり立たされた。けれど、当然のように足に力が入らず座り込みそうになる。それを後ろから抱かれて、支えられた。怖い、なに、なんなの、なんで、放して。口からはなんの音も出ず、頭でばかり焦りが募る。逃げなきゃ

「あー、三人イケる?」
「大丈夫じゃん?」
「つーか、お前らそれバレたらやばいだろ」
「いいよもう、研修延長してくるクソ会社とかマジねーし。自分で企業立ち上げたほうがマシ」
「俺も、実家の農家継ぐのもアリかなーって」
「いやいや、俺は?」
「バレたら俺のとこで働かせてやるって」
「うわ、頼りねェ!」
「とか言っちゃって〜、もうカンペキホールドしてんじゃん」
「正直、腰細いのは好みだよね」
「俺はヤれれば良いかな!」
「だからお前は節操を持てって」

馬鹿みたいな笑い方で笑い合う彼らを、呆然と見つめる。こんなに怖いのに、体は動かないし、声も出ない。助けを求めようと周りを見てみても、人気の無い場所らしく通りすがる人も居なければ、建物も無い。公園のような場所だ。いったいどんなところまで走って来てしまったのだろう。自分が居る場所も分からないなんて、私はどこまで馬鹿なんだ。

「んじゃあ、そこのベンチの裏とかは?少し奥行ったら見えねぇべ」
「まぁこの公園外灯あんま無いし、誰かに見られても酔っ払いの介抱って言えば大丈夫じゃねぇの」
「それじゃあ、移動すっか。この子全然動かねぇの、大丈夫かな?」
「なにー?彼氏にフラれて傷心とか?」
「あはは、それなら俺らが慰めてあげるよ」
「怖くて動けないとか?」
「俺そういうの組み敷くの大好きだよ!それならそっちのが好都合だねぇ」
「お前ってほんと下衆いよなぁ」
「どうでもいいから早くしようぜ。俺マジでムシャクシャしてっから、ちょっとイライラしてきた」
「あーあ可哀想にね、さっきの女子大生口説けてればなぁ」
「お前が顔にヤりてェって書いてっからだよ」
「嘘はつけないんだよなぁ」
「「あはははは!」」

逃げ、なきゃ。

「あ?なに、ちょっと抵抗し始めた」
「え、俺そういうのも好きだよ?」
「お前、母ちゃんの腹ん中に節操置いて来ただろ」
「ほらほら、大丈夫、痛くしないし、ちょっと協力してくれればすぐ終わるからさ」
「おい、すぐとか言うな」
「……ぃや、…っ」
「お、喋った」
「えー、じゃあアレだ。君が突っ込んで来て俺が痛い思いしたから、それの慰謝料みたいな」
「もういいじゃん、口押さえろ」

体に、男性の手が触れている。嫌だ。汚い。足に力を入れてみたけど、まったく効果無く、持ち上げられるように連れて行かれる。絶対的な力の差を前に、私は為す術が無い。このまま、本当に、本当に、本当に、本当に、

「っ痛ァ…!?」
「…ッ、たす、ケテ…ッ、」

口を押さえた手に噛みついて、声を絞り出した。叫んだつもりなのに、実際に出たのは蚊の鳴く程度の声。それでも、このままなんて絶対に嫌だ!!

「っいちこ、さん…ッ!!」

結局、本能的に縋ってしまう人は決まっていたのだ。
もうこれ以上現実を見たくなくて、強く目を瞑った。そのとき、突然強い風が吹いて、男性たちの短い悲鳴が聞こえてきた。

「てめ…ッ!なにしやがる!!」
「おい、まずい…っぐアァ!?」
「なッ、なにもんなんだよお前!!グぉ?!」

次の瞬間、私のよく知る温かさに包まれる。この匂いも、抱き寄せる腕の強さも、記憶にあるままの、私が心の底で求めていたものだ。

「…っ、なまえっ!」
「…ぃ、ち、こさ…ん?」

ゆっくり瞼を持ち上げると、息を切らせた一子さんが目の前に居た。夢を、見ているのかもしれない。
恐る恐る後ろを振り向くと、絨毯のような毛の塊が三つ、男性たちの悲鳴や呻き声が聞こえてきた。ちゃんと見えているにも関わらず、それらの情報をまったく処理出来ない。
そう思っていると、ふっと抱き上げられた。

「嫌だろうけど、場所移動するから。ごめんなさいね」

そう言って一子さんは私を抱き上げたまま、信じられない速さで走り出した。信じられないのは速さだけじゃなく、超人的な動きで建物の屋上にぴょんぴょんと飛び上がり、ビルとビルの間もぴょんぴょんと移動して行くのだ。ああ、これは夢だ。私はそう確信した。話が出来すぎているし、人間がこんな動き出来るわけがない。私はきっと今、あの男たちにひどい目に遭わされて、精神が崩壊してしまったんだ。ああ、やだなぁ、もう死んでしまいたい。

一子さんと一緒に着いたのは、私のアパートの部屋の前。くるりと屋根から廊下に降りたときは、心臓が引っくり返るかと思うほどヒヤッとした。なんだか、なにもかもがリアルすぎる。

「鍵、持ってる?」
「…あ、はい…」

言われるまま鍵を探すけれど、そういえばバッグごとファミレスに置いて来てしまったことに思い至った。でも、これが夢なら都合良く鍵が出てくるか、玄関が開くかと思ったけれどそんなことは起きなかった。不便な夢の中だ。

「…じゃあ、嫌だと思うけど、…私の家に来ない?一時的な避難だと思って…ね?」
「あ、…じゃあ…」

そう言うと、また軽々と抱き上げられて、来たときと同じように屋根に飛び上がると、またもぴょんぴょんと夜の街の上空を移動する。凄い夢だ。顔に当たる風も、一子さんの腕の力も、温かさもちゃんと感じる。でも、夢だと思うからこそ、私は一子さんと普通に話せる気がした。きっと、ちゃんと話し合うことを心の底では願っているのだ。子供の頃のことも、今のことも、全部ちゃんと話せたら良い。納得出来なくても、理解出来なくても、ちゃんと話を聞いて、それから考えたい。今までのこと、これからのこと、私はちゃんと向き合いたい。本当は、いつだって逃げ出したくなんかなかったんだ。

着いたのは、平屋の木造アパートだった。こう言ってはなんだけど、一子さんのイメージとは程遠いボロさだ。中に入らせてもらうと、内装もなかなか年季が入った作りで、敷きっぱなしの煎餅布団がこの雰囲気に拍車を掛けている。私の中の一子さんのイメージってこんなのだったんだろうか、もっと洗練されたデザイナーズマンションみたいなところに住んでるイメージだったんだけど、夢ってのは思うとおりには実現しないものらしい。

「ごめんなさいね、汚くて…、適当に座って?」

適当に、と言われて、とりあえず赤く日焼けした畳の上に正座する。壁には一子さんらしい服が掛けられていたり、小物や化粧品が一纏めに置いてあるけれど、それ以外は質素なものだ。これが本当に一子さんの部屋だとしたら、なんというか、…外面が良いにも程がある、かもしれない…。

「あ、チョロ松兄さん?ああ、見つけた。今、一緒に居る」

びくり、一子さんの姿で低い声を出されると、やはり頭の中で処理が追いつかなくなる。一子さんは虚ろげな表情でスマホを片手に、電話向こうの人に話しかけている。きっと、さっきファミレスで一緒に居た男性だ。一子さんのお兄さんらしい。多分、一緒に私のことを捜してくれていたのだろう。申し訳ない。

「森林公園とこ、早く行って。なまえちゃん襲ってた奴ら、そこに残して来たから。猫に任せてるから逃げてないよ。ああ、すぐ見つかる」
「…あ?なに、冷静に聞こえんの?一発ずつしか殴れなかったんだよ?てめぇ、警察だろ、殺してもみ消せよ。はあ?んなことおれが知るわけないでしょ。つーか、クソ松とか呼べよ暇だろアイツ」
「あと、言っとくけど、お前ら全員許したわけじゃないから。覚えとけ、次帰ったら全員ボコボコにしてやっから。あはぁ…逃げられるとか思わないでよ」

そう言って電話を切る一子さん。
こ、怖い!!
目の前に居る人は、私の知る一子さんでも一松くんでもない!!本当に誰なのこの人!?
あいやでもこれは私の夢なんだから、変な登場人物が居ても不思議じゃないっていうか、いやそれにしたって本当に誰なのこの人!!

「なまえ…」
「はっ、はひ…!?」
「痛いところはない?怪我とか、アイツらにどこまでされたの?言いたくないのは分かるけど、それが分からないと対処のしようもないから」
「お、落ち着いてください、一子さんっ」

怖い顔でじりじりと近づいて来た一子さんを、両手を突き出して止める。そのとき、ズキリと両手首が痛んだ。

「ッ!?痛いの!?どこ?手?クソ、アイツら…っ、殺すだけじゃ手緩いな」
「あ、いや、これは、転んだときに…」

…あれ?…なんで、痛いの?だって、夢の中って、感触とかはリアルだけど、痛みだけは感じない…はず…

「…あ、…え?…えっ?なん、なんで…?」
「なまえ?」
「これっ…、これって、夢、ですよね…?」
「…え?」
「これは、全部私の夢で、本当は私は、もっとひどいことに…なってて…」
「なまえ、」

優しく、両手首を撫でられた。

「大丈夫、ちゃんとなまえは無事よ。あんな下衆共にはなにもされてないし、そんなの私が絶対に許さない」

どうやら、今ここに居ることが現実らしい。
はらはら、堰を切った安堵感が溢れて次々に零れていく。

「…こ、こわ、かった…、怖かった…ッ」
「よしよし…、もう大丈夫よ…、大丈夫」
「っう、ひっぐ、い、いちこさん…っ、」

一子さんの胸に頭をつけると、びくりと驚かれた。それから、恐々と頭や背中を撫でられる。その手つきに戸惑いを感じながらも、私は心の赴くままに一子さんに縋ってしまった。
子供をあやすような優しい仕草で撫でられ、次第に落ち着きを取り戻した私の中には、今まで家出していた感情や気持ちが一気に溢れ帰っていた。そのひとつひとつを処理しなきゃいけないことは分かっていたけれど、まずは心が言うままに、一子さんの背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。手首がちょっと痛いけど、気にしない。そうすると、一子さんは面白いくらいビクついて、心臓もバクバクと聞こえるくらいの音を立てている。あのクールな一子さんが、こんなに取り乱しているなんて珍しい。

「っ…なまえ、…あ、あの…」
「一子さん…、」
「な、なに、かしら?」
「私、色々聞きたいことがあります…、それはもう山程、いっぱい」
「……う、ん」
「まず、聞いてもいいですか…?」
「………どうぞ…」

一子さんの腕の中で、困惑気味の一子さんの顔を見上げる。

「なんで、ビルの屋上に飛べたり、建物の間をあんなにぴょんぴょん移動出来るんですか…?」
「そこ!?」
「あと、ここって本当に一子さんの部屋なんですか?言っちゃなんですけど、ボロすぎやしませんか?」
「そこは大きなお世話よ!!」
「いや、だってあまりにも人間離れしてるしイメージ違うしで、夢かと思っちゃったくらいです」
「…ははっ、も、ほんと…なまえって、」

くしゃりと笑う一子さんの顔は初めて見た。もしかしたら、私が知らない表情はもっといっぱいあるのかもしれない。さっきの電話での笑い方だって聞いたことないし、まるで地獄の底から聞こえてくるような笑い声だった。

「それから、」

一子さんから離れて、座りなおす。一子さんは、少し呆けた顔をした。もしかしたら、一子さんじゃない表情は、一松くんが混ざった表情なのかもしれない。一松くんのことが平気かと聞かれれば、それは難しい問題だ。やはり私は、男性である一松くんのことは、怖い。でも、他の男性に感じるそれとは、違うような気もする。

「これはゆっくりで良いので、ちゃんと聞かせてください。一子さんと、…一松くんのこと」


The first duty of love is to listen.

―Paul Tillich

愛の第一の義務は、耳を傾けることである。
―パウル・ティリッヒ
(2017.03.20)


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