なまえと付き合うようになってからの僕は早起きだ。
にゃーちゃんのライブチケ先行に並ぶため以外での早起きはしたことがなく、初めはつらかったけれど、なまえの生活習慣に合わせるようにしていくと自然と早く目が覚めるようになった。もう僕の体内時計はなまえと暮らしていく準備が整っていると言っても過言ではない。

朝の七時。起床から一時間が経ち、なまえへ朝のLINEも送ったし、仕事に行く父さんも見送って、パートに行く母さんも見送った、身支度も整っている。
僕の家は朝の十時頃に郵便物が届くのだが、ここ数日、僕はとある郵便物を待ち続けている。上手くいかないことのほうが多かったし、今までは悪い結果しか貰えなかった。あとひとつ、頼みの綱にしている郵便物を、僕は今か今かと待ちわびている。

カコン

それから微動だにせず数時間待って、ポストに郵便物が投函される音が聞こえてきた。あいつらが昼まで寝ていてくれるクズニートで心底良かった。お陰で、静かな中で気持ちを整えることが出来た。大丈夫、どんな結果でも、僕は大丈夫だ。

ポストから郵便物を取って、居間に戻る。関係のない郵便物を仕分けしていくと、僕宛の待ちわびた封筒がそこにあった。
恐る恐る、封を切る。
何度目にもなる瞬間に、心臓をヒリヒリさせながら、三つ折りの紙を開いた。

膝から崩れ落ちる。

なんてことだ。
まさか、いや、そんなまさか。

「な、内定…がっ…ッ取れたァアアアアア…!!!」

勝利の雄叫び。僕は、僕はやり遂げた!!何社も何社も当たっては砕け当たっては砕け、時には砕け散って、そうして僕は勝利を手に入れた!!ああどうしようこの喜びをなまえに伝えたい!!LINE、いや電話…っいや!直接会って伝えたい!!
さらばニート!!松野チョロ松は、この春から社会人になりますヒャッホーウ!!!

「チョロ松兄さんうるさい…、なに、またカラ松兄さんが誘拐でもされたの…?」
「トトトトトットットトットッティ…!!!」
「うわなに気持ち悪い」
「お、おれぇ…っ!」

待て、松野チョロ松。ここでトド松にこの喜びを伝えてどうする?本当にこの喜びを共有したい相手はトド松か?いや違う!!!この時この瞬間はなぜあるのか?それは全てなまえのお陰なんじゃないのか?そうだ、今の僕があるのも全てはなまえのお陰、なまえの恵み、マイプレシャス!僕の女神!その彼女に一番に伝えるべきなんじゃないのか松野チョロ松!!

「…っふ、なんでもないさブラザー」
「いや確実になんかあったよね?!」

寝起きのくせに喧しく喚くトド松は無視して、問題はなまえにいつ会えるかだ。本当は今すぐにでも会いたいが、なまえは仕事。昼休みに少し会えないか聞いてみようかな。うん、なまえの終業時間まで待てる気がしない。そうと決まれば、まずは連絡だ。さっと取り出したスマホの画面を見ると、なまえからLINEの返信が来ていた。

「…えっ?」

返信の内容は簡素で、「今日は会社休むから、迎えはいらない」という一文だけだった。
会社をなぜ休むかも書いてないし、なまえなら一言“ごめん”なんて言葉を添えそうなものなのにそれも無い。なにか、あったのかもしれない。
即座に返信を打つけど、なかなか既読もつかないし、なんだか心配になってきた。電話、しても良いんだろうか…

「ちょっと、チョロ松兄さん聞いてんの?!」
「…ん、ああ、なに?今それどころじゃないんだけど」
「なんだコイツ。もういいよ」
「あ、なぁトド松、なまえのことなんだけど」
「知らない。勝手にしなよ」

そう言って、トド松は二階に上がって行ってしまった。
おかしい。今まで、なまえの名前が出ればどんなことにでも反応していたトド松が、勝手にしなよ?そりゃ勝手にするさ僕の彼女だもの。いや、でもさ少しくらい意見求めたってべつにいいじゃないか、なんだあの態度。

「…ま、いいか。それより、電話…」

都合が悪ければ電話にも出ないだろう。そう踏んで、とりあえず僕はなまえに電話を掛けてみることにした。
永久にも感じる呼び出し音の後、ふっとそれが途切れ、電話が繋がった。でも、なまえは声を発さず、静寂の音が耳にぞわりと届いた。

「もしもし、なまえ…?…心配になって電話してみたんだけど…、大丈夫?」
『………ん、…ごめん、大丈夫』

苦しそうな緩慢とした声だが、なまえの声に間違いない。僕はほっと胸を撫で下ろした。誘拐でもされたんじゃないかとか、最悪の事態まで想像していた脳みそが、少しだけ気を緩めた。

「具合悪いの?なんかあった?」
『…ん、大丈夫だから…』
「いや、大丈夫って言われても…、今家だよね?行っても良い…?」
『…………来なくていいよ、…なんでもない』

いや、さっきから全然なんでもないって声でも雰囲気でもないんだけど。

「心配だから、行きたいんだけど」
『……ええ…、…いいよ…』
「じゃあ今から行くね、なにか欲しい物とか必要な物はある?」
『…………あぁ……そっちの意味じゃ…ないんだけど…』
「…なまえ?本当に大丈夫?」
『……ごめん、………ごめん、も、……うぅ』
「えっ、ちょ、なまえ?!だいじょ」

僕が言い切る前に電話は切れていた。なんだ、いったいなまえの身になにが起こってるんだ?!風邪?体調不良?なにか大きな病気なんじゃないだろうな?!そうだ、救急車…!!救急車呼ばないと…!!!

「ふあぁ、へ、チョロ松なにわたわたしてんの…?」
「おおおおおっそ松兄さん…!!なまえが…!し、死んじゃう…!!救急車!救急車呼ばなきゃ…!!!」
「はあ?なに、なんの話?」
「なまえが会社休んで電話したら凄い苦しそうで電話途中で切っちゃうしやばいよ!!あああどうしよう?!119番って何番だっけ!?」
「待て待て待て、落ち着けチョロ松」
「おちっ、落ち着けるかッ!!」
「いや、とりあえずさぁ、なまえん家行ってみれば?苦しそうだったんでしょ?まずはお前が助けに行ってやれよ」
「そっ、それもそうだね?!ぼく行ってくるよ!!」
「ああ、ついでに湯たんぽとか氷嚢とか持ってけば?ただの風邪かもしんないし」
「そうだね!!あとなんだ、薬?!なんか薬あったっけ、ええいもういい全部持って行く!!」
「おー、なまえによろしくなー」

色々掻き集めてリュックに詰め込み、僕は家を飛び出した。なんかあのダメ長男を久しぶりに尊敬したかもしれない。とかどうでもいいことを考えたりしながら、電車に飛び乗る。なまえの家の最寄駅までここからだと二駅だ。もしかして走ったほうが早かったかもしれない。モヤモヤした気持ちと、いつもより遅く感じる電車のスピードにイライラしつつ、やっと着いた駅からなまえの家へ一目散に向かう。合鍵で玄関を開けると、朝だというのに部屋はカーテンが締め切られて随分と暗かった。

「お、お邪魔します…なまえ?」

声を掛けながら室内に入り、なまえの姿を探す。ベッドにうつ伏せて蹲るような体勢のなまえを見つけて、僕の肝が一気に冷えた。

「なまえッ!!大丈夫?!なに、なにがあったの!?具合悪いの?!」
「…ぅぐぐ…チョロ松、うるさい…」

ゆっくり顔をこちらに向けたなまえは、忌々しそうな目で僕を睨んだ。なんか、凄く安心する。

「…ほんとに、来たの」
「いや、来るだろ普通!!あんな電話の切れ方したら、も、心配で心臓が潰れるかと思ったよ!!」
「うるさい」
「ご、ごめん…」
「………寝る」
「あ、うん!あ、湯たんぽとか色々持って来たんだけど使う?ご飯は?食べてないならなんか軽く作るよ…って言ってもレトルトだけど…」
「…湯たんぽだけ、ちょうだい…ご飯はいらない」
「わ、分かった!すぐ用意する!!」

苦しそうに目を瞑ってしまったなまえが気に掛かるけれど、所望の湯たんぽをすぐに用意するため、電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。本当になまえは大丈夫なのだろうか。あ、そうだなにか薬は必要じゃないのかな。

「なまえ…具合悪いのに何度もごめん…、あの、薬とかは?家から色々持ってきたんだけど、解熱剤とかもあるし…」
「…はぁ、チョロ松、」
「な、なに?!なんでも言って!」

だるそうにゆっくり起き上がろうとするなまえを介助して、蒼白くも見える顔を下から覗き込んだ。熱はあるのだろうか、やっぱり救急車が必要なんじゃないのか、僕の頭はこれからどう動いたら良いのかを必死で考え続けている。

「…薬は飲んだし、体調悪いのも明日には少し良くなるはずだから、平気。チョロ松が心配するようなことはなにも無いから、湯たんぽ置いて帰って」
「……えっ?!」
「うるさい…」
「いや、こんなつらそうにしてるお前を置いていける?!鬼かよお前!?」
「あーもう…!ほんと、寝かせて、黙って帰って」
「え、ちょ、なんで…っ」
「こういうのが嫌だから来てほしくなかったのに…!」

苛立ちに満ちた声でそう吐き捨てたなまえは、ガバリと布団を頭まで被って僕に背を向けてしまった。
全身で拒絶されたことがショックで、なまえへと伸ばしかけた手が行き場を失くす。体調が悪そうでもあるけれど、それ以上に機嫌が悪いらしいなまえは、終始嫌そうに僕に応対している。それがちょっと可愛いとか思ってる余裕はどうやら無いようだ。心配な気持ちと、不安な思いで、僕はどうしたら良いのかと身動きが取れなくなってしまった。だって、このまま置いて帰るなんて出来ないし、でもしつこくして嫌われるなんて以ての外だ。だいたい、なまえがどういうふうに苦しんでいるのかも分からないのだから、動きようもない。

どうしたら良いのか悩んで立ち竦む僕の前で、布団がモゾリと動き、のそりとなまえが起き上がった。真横に立つ僕を睨みあげてなまえが手を伸ばしてきたので、僕も反射的にその手を取ってしまう。いったいどうしたんだろう。

「…チョロ、まつ、」
「なまえ?どうしたの?つらい?」
「と、いれ、つれてって」
「え!?トイレ!?」

訳は分からなくても切羽詰まったものを感じ、なまえに負担が掛からないよう慎重に抱き上げて、トイレへと連れて行った。
便器に崩折れたなまえは、そのまま便座に上半身を預けるような格好でえずき始める。僕はもう焦るばかりで、少々ガサツになまえの背中をさすることしか出来なかった。なんだ、なんでこんなつらそうなんだ。二日酔い?いや、そんな様子ではなかったし、なんか重い病なんじゃないの!?本当に大丈夫なの?!
やがて便器に項垂れるなまえを前に、まだ僕はあたふた。クソ、全然頭が回らない。どうしてあげたらいいんだよ!?

「……つわり…」

ボソリと、なまえが言った。
意識は朦朧としているようで、再びえずき始める。え?つわり?ツワリって、悪阻?あの、妊娠した女性がなるっていう、え?

「………え、なまえ、え?…だ、だれ、だれの…?」

咄嗟に出たのはそんな問い掛けだった。だって、僕じゃない。僕なわけがない。じゃあ、誰、誰なの。なに、ちょっと、分かんないんだけど、え?なにこれ、え?

「ちょ、まじで、なまえっ!?だれ?!エッ、俺、えっ!?」
「ぇぐ…っ、ふは、ぁ、ちょろまつ、うるさい…ッぇ」
「いや!今凄く大変だよね?!それは分かるし本当はつらさを緩和させてあげたいんだけど、だって、え?!いや、悪阻!?ふざけんなよ!?誰の子供だよ!?」
「っうぇ、ぇ、…っは、え、つわり?…ぁ、つわり、も、こんなつらいなら、やだなって…ぅぐぅ…ッ、ちょろまつ、せなか、ごめん、つらい…っから、」

言われて、さすっていた手が止まっていことに気づく。少々手荒なほうが良いのか分からないが、こうしていると少しは楽になるらしく、催促を受けた。呆然とした頭でさすり続けていると、弱々しい手で止められる。どうやらもういいらしい。便器に項垂れるなまえは、見ているだけでなんだか痛々しくて胸がつらい。

「…といれっとぺーぱーとって」
「あっ、うん…!」

カラカラとトイレットペーパーを多めに取って、なまえに手渡す。前に僕が吐いてたとき、なまえは色々上手く立ち回ってくれていたのに、それがどれだけ有難いことなのかを思い知らされる。どう動いていいかなんて、頭が真っ白になって全然思いつかないもんだ。

「…で、あの、え、悪阻、なの?え?」
「……つわり、じゃないよ…、ちょろまつともしてないのに」

よく分からない部分にある僕のセンサーがキュンとした。

「ちょろまつ、出てって、トイレしたい…、ドアの前で待ってたら、殺す」
「アッ、ハイ!」

言われるまま、僕はなまえの部屋の真ん中に正座して待っていた。ついでにケトルのお湯で湯たんぽも作っておいた。これが僕の精一杯だと思うと、なんだか泣けてくる。あ、水も用意しておこう。
テーブルの上に湯たんぽと水のペットボトル。まるで捧げ物のようなそれらで、果たしてなまえの機嫌を回復させることは出来るのだろうか。いやそれは無理でも、せめて少しは楽にしてあげたい。…本当に、悪阻じゃないんだよな?
疑心暗鬼に囚われながらなまえを待っていると、ゆらり、なまえが扉を隔てたワンルームに姿を現す。暗い室内で、まるで幽霊のように現れたなまえに、少しだけ心臓が跳ねた。
ゆらゆらと僕の前まで来たなまえを見上げて、ゴクリと生唾を呑み込む。なんだ、この緊迫感は。
なまえは、ふっと落ちるように僕の目の前に座り込んだ。そしてそのまま、僕に襲いかかって…ッ!!

「………あ、の、大丈夫?なまえ?」

しな垂れ掛かるように僕に抱きついてきたなまえは、恐らく全体重を僕に預けているのだと思う。その軽さに少々不安を覚えながら、ずり落ちてしまいそうな体を抱き寄せた。抱き上げたときも思ったけど、こいつちゃんと飯食ってんのかな。

「…なまえ、とりあえずベッドで横になろう?あ、その前に水飲む?喉つらいだろ、嫌でも少し飲んでおいたほうが良いかも」
「…………っ…ちょろ、」
「っ、……どうした、なんかあった?」

じんわりと肩口が温かく濡れていく。体調が悪いのか、それとも僕の知らないなにかがあったのかもしれない。なまえの周りのことで僕が知らないことは多い。未だに交友関係も知らないし、会社での出来事も知らない。なにより、昔からあまり弱音を吐かない奴なのだ。恨めしいことに、僕にはそういう物事を察知する能力というのが無い。もっと、気配りの出来る奴なら良かったのに。

「…ごめん、チョロ松」
「いいよ、もっとぼくのこと頼ってよ」
「………あの、ね、」
「うん…、」
「生理がつらくて、」

…え?生理?

「腰もだるいし、お腹痛いし、吐き気の波がくるし、頭も重たい、」

話には聞いていたけど、生理ってそんなにひどいものなのか。男の僕には他人事としてでしか受け止められないけれど、でも目の前でこんなまざまざと苦しんでる姿を見せられると、今までの考え方が変わる。
女子が生理痛で授業を休むのを見て、女って月一で公式にサボれていいなと思ってた高校時代の僕よ、お前は明らかに間違っている。

「全部にイライラするし、全部にモヤモヤするから、…チョロ松に、会いたくなかった…」

それで、僕に来てほしくなくて、早く帰ってほしかったのか。それすら察することが出来なくて、僕の存在がなまえに追い討ちを掛けていたのかと思うとなにも言えない。しゃくるように泣くなまえの背中を撫でながら、僕は悔しさに歯を食いしばった。内定が取れたと浮かれるよりも先に、どうしてなまえの変化に気づいてあげられなかったのだろう。こうして体調を崩すってことは、きっとその兆候があったはずなのに。

「……でも、…チョロ松が居て、良かった…」
「…っ、ほ、ほんとに?」
「ぐずっ…ごめんね、迷惑掛けて…」
「迷惑なんて、思ってるわけないだろ?」
「っう、ふ、…っうぅ…」
「つらい?吐きそう?」
「はかない…、…っ、ごめん…、」
「謝ることないだろ、…ごめんってのはぼくのほうだよ、なにをしてあげたら良いのか全然分かんなくて…。だから、なんでも言ってよ、なんでもするから」
「…じゃあ、ベッド…寝たい…」
「ん、分かった」

力無いなまえの体を抱き上げて、ベッドに運ぶ。毛布も布団も掛けて、濡れた頬を撫でた。

「それから?水飲む?湯たんぽも作ったけど」
「湯たんぽ、ちょうだい。…お水は、少しだけ」
「ん、」

体を支えて水を飲ませて、布団の中に湯たんぽを入れた。なまえは湯たんぽをお腹に抱え込んで、苦しそうに息を吐く。代わってあげられたら良いのに。

「……ちょろまつ、」
「ん、なに?」
「一緒に寝て…、…抱いて…」
「…………………………ファッ?!」

え?えっ!?えぅぁぇええア!?!?
い、いいいいまッ、だ、抱いてって言った?!抱いてって言った!?ちょ、え?いや、え?生理中、なんだよね?え?……………なまえってそういう趣味が……っじゃないよね!!聞き間違いか勘違いだよね!!焦ったぁ…っ!!童貞拗らせすぎて幻聴まで聞こえるとか、ほんと僕って救えない奴だな、ほんとまじで。

「……ちょろ、はやく…」
「ッ!あ、えと、ごめん、よく聞こえなかった…」
「…一緒に、寝てほしい…」
「アッ、うん!ただちに!」

だよね!そうだよね!そういう人肌恋しいみたいなやつだよね、体調悪いときとかってメンタルも弱るから誰かと一緒に居たいみたいなやつあるよねソレだよね!!
なまえの布団に潜って、苦く目を瞑る顔を目の前にする。そうだよ、こんな苦しそうにしてるのに、僕はなんでそういうことばっかり考えちゃうんだろう。脳みその変換回路まで童貞なんだから、まったく嫌になる。
もぞりと動いたなまえが、僕の胸に顔を埋めてくる。その仕草はまるで猫みたいでほっこりするけど、今は和んでいる場合じゃない。

「…うぅん…、……ちょろぉ…」

…治まれ。治るんだ僕。違う違うそうじゃない。反応するな。
安易に抱き締めてしまうと、色々問題がある気がして動けない。お腹付近がぼんやりと温かいのは、なまえがお腹に抱えてる湯たんぽの熱だろう。

「………だいて…」
「……………………」
「ちょろまつ、…腰、つらい…」

腰がつらいのに、抱いて、だと!?ふざけてんのかぶち犯すぞコイツ…!!

…ッハ!お、落ち着け、なんか今物凄い勢いで理性が居なくなるところだった。なんとか帰ってきてくれたけど、ほんの些細なことで居なくなりそうで怖い。

「…ね、…はやく……なんでもするって、言った…」
「……あー……うん…」

とりあえず、ゆっくり抱き締めてみる。どういう力加減をして良いか分からず戸惑うが、擦り寄って来てくれたのだから、ある程度は引き寄せても大丈夫だろう。そういえば、腰がつらいって言ってたな…。そう思い至って、手探りでなまえの腰を撫で、パジャマの隙間から手を差し込み、素肌の腰に手のひらを這わせた。いや、決してやましい気持ちは無い。断じて無い。ほら、“手当て”って言うだろ?あれは手のひらの湿度や温度、そして微弱な静電気による温湿布効果とツボ押し効果がもたらす治癒的作用から来た言葉だという俗説もあって、つまり今の僕はまさにその“手当て”を行なっているだけなのだ。賢い君なら分かってくれるだろう?…僕は誰になにを弁解しているんだ…

「んっ…ぅ、……その、まま…抱いてて…ほしい…」
「抱いて“て”ほしい…?」
「……ん、…このまま……」

諸君、ここで国語の問題だ。日本語とは斯くも難しい。
「抱いてほしい」と「抱いて“て”ほしい」これらの言葉は同じようで全く別の意味を持つことをお分かり頂けるだろうか。前者には、およそ二十代の健全な男子がムフフと妄想するような、今後の展開を匂わす魅惑の響きがある。しかし後者には、継続の意味が含まれる。つまり、現状の延長、発展の中断、妄想で繰り広げたもの全てをそこで終わらせる魔法の言葉。いや、既にその状況であれば喜んで延長しようじゃないか、だがしかし現状僕に与えられた任務は「このまま、なまえが良いと言うまで抱き締めるだけに留め、一緒に寝ていてほしい」ということなのだ。それになんの不満があるかって?そうだ、拗らせ童貞クズニートである松野家三男松野チョロ松にとっては、それだけで天国、それだけでこの世のユートピア、まさにジパングであったに違いない。だが、僕は今なまえの彼氏という地位を得て、更には社会復帰に片足をズッポリ入れた状態なのだ。

正直、もう許されても良いんじゃないか。

そんな考えが過ぎってしまうことを誰が止められようか。だって今まで我慢してきたし、お預けだって何度食らったかも分からない。今僕が野獣になろうとも、許されるべきなのではないか。それはもう、恋人同士の許容範囲なのではないだろうか。

「…っ…ぅ、………ぅう…」

…でも、さすがに生理中で苦しんでる彼女を襲うほど、僕は落ちぶれてない。いくら世のカースト最底辺クソ闇地獄にしっかりと嵌っていようとも、好きな子を更に苦しませてどうする。というかそんな理由でフラれたらすぐ死ねるけどね、樹海で首括って切腹しながら沼に入水するけどね。
僕の野獣は、野獣になれず萎れていった。

「……こいぬ、のくせに…」
「コォッ!?こここっ子犬じゃないよ!!もう少し獰猛だよ…ッ!!」
「…ん、うんん…寝てた…、なに…どしたの…?」
「…いや、ごめんちょっと取り乱してた…」
「ああ…いつもの発作か…」
「発作ってなんだよ!!…って、あ、ごめん、うるさくして…」
「んんぅ………ん、…少し、回復、した…」
「ほんとに?」
「うん…、でも……」
「…うん、ずっと一緒に居るから」

擦り寄るなまえの頭を撫でて、確かめ直すように抱き締める。弱っているときに頼ってくるなんて、超絶可愛いじゃないか。それだけで、幸せなのだ。

「…チョロ松、」
「ん?」
「話したいことがあるの、だから…このまま、聞いてくれる…?」
「え、うん。いいよ?」

そういえば、僕もなまえに伝えたいことがある。でも、もっと元気なときに伝えて、一緒に喜んでもらいたいと思ってしまうのは、僕のわがままだろうか。

「……………」
「…なまえ?」
「……私ね、チョロ松に…話せてないことがあるんだ…」
「うん…?」
「それを言えないことで、ずっと不安があって…それで、チョロ松のこと疑ったりとかして…、…ごめんね」

疑ったり、されていたらしい。でも、それは僕もなまえに就活してたことを隠していたから、それでなまえを不安にさせたこともあったのかもしれない。就活に焦ることで、自分自身余裕も無くなっていた。実際、なまえを蔑ろにしたことだってあったのではないだろうか。だから、謝られたりするのは違うような気がした。

「べつに、謝ることはないよ。僕だって最近余裕無くて…あー…その…僕も、話したいことがあるんだけど…でも、今じゃないほうがいいかなって思ってるんだけど…」
「……?どんなこと?」
「あいや、…なまえの体調が回復したら、」

腕の中で僕を見上げるなまえと目が合った。それだけなのに、なんだか変な感じだ。
なまえが居なければ、僕はずっとクズニートのままで親の脛を齧り尽くして路頭に迷った挙句、その辺の犬の糞と一緒に野垂れ死んでいたんじゃないだろうか。容易に想像つく人生の最期に、身震いする。
改めて、なまえの存在に感謝した。
そうすると不思議なもので、保留にしようとしていたことを、今伝えたいと思った。きっとなまえなら、いつ伝えたって同じように喜んでくれるに違いない。だって、なまえはそういう奴で、そういう奴だからこそ、こんなにも愛おしいのだ。

「…ぼく、就職決まったんだ…って言っても内定貰っただけなんだけど…春から多分ちゃんと働けると思う」

とろんと微睡みで開けきっていなかったなまえの目が、ゆっくりと見開いていく。唇も無防備にぽかんと開いて、思わずキスしそうになったのを思い留まる。

「ほ…ほんとに…?」
「…うん、今まで就活してたの隠しててごめん。ちゃんと出来るか不安で、決まってから言いたかったんだ。…だから、そういうのもあって、態度が冷たくなってたりとかしてたなら、ごめん…」
「……そ、か、そっかぁ…」
「…なまえ、…」

ぼろぼろ泣きながら、弱い力で抱き締められる。優しく拭っても拭っても溢れる雫が愛しい。

「良かった…凄く、嬉しい…嬉しいよ…おめでとう、チョロ松…ッ」
「ありがとう、全部なまえのお陰だよ。お前はなにもしてないって言うかもしれないけど、ぼくはいつもお前に助けられてて、頼ってばっかりで、だから、ぼくもなまえにいっぱい頼られたいんだ。いっぱい甘えて、いっぱい頼ってよ。わがままもいっぱい言って?なまえのためなら、きっとぼくはなんでも出来るよ」

心からの言葉をぶつけると、なまえは更に泣き出してしまい、話せる状態ではなくなってしまった。本当に、僕の就職を心から喜んでくれるなまえを見て、言って良かった、就職して良かったと心から思えた。タイミングは最悪なのかもしれないけれど、でもきっと、いつ言っても心優しいこいつは僕のために泣くんだろうなと思った。
なまえを慰めながら、体はつらくないかと心配になる。泣きすぎて頭痛くなったりしないだろうか。

「大丈夫?ごめん、ぼくいつもタイミング悪くて…頭痛くなったりしてない?」
「…だい、りょぶ…」

背中や腰を撫で続けると、涙も引っ込んで一息つけたのか短く溜め息をついたなまえが、僕の胸に擦り寄って眠そうに唸る。

「…あれ、そういえば、なまえの話したいことって?」
「……それは…」

眠そうにしていたなまえが暗く表情を曇らせて、赤い目で僕を見上げる。なんだろう?

「……まだ、待ってほしい…」
「?分かった」
「でも、ちゃんと話すって決めたからら…、ちゃんと…っ」
「えっ!?な、なんで泣くの?!」
「なんれもない…」

余程言いたくないことなのだろうか。散々濡れていた僕の胸を再度濡らし始めたなまえの頭を撫でながら、なまえが僕に言えないことで思いつくことを脳内検索してみた。まぁ、そんな簡単に思いつくわけもないんだけど。…でも、泣くほど言えないことってなんだろう。


………。別れたい、とか?


・
・
・
ッぷアっ!!いやッ!!それは!!違うよ!違うよね?!さすがにそんなまさか!!「チョロ松のこと疑いすぎて疲れたの、もう私たち駄目だと思う。あとお前と居ると私まで臭くなりそうだからそれ以上近づかないで。迅速に別れましょう」とかだったらどうしよう!!どうしよう!?いやでもまさか別れたい奴の胸に擦り寄ったりとか、抱いててほしいなんて言う子が居るわけないよね?なまえはもっと誠実だし、そんなことあるわけないよ!!だろ!?ああやっべ、意識飛ぶところだったやっべぇー、ちょっと脈が止まってたやっべぇー。

「……あの、さ、なまえ…?」
「…ん?」
「ぼぼぼぼくのこと、す、好き、だよね?」
「?うん」
「(即答よっしゃあああああ!!!大丈夫!!これは大丈夫!!なんの問題も無い!!疑う余地も無く大丈夫!!ッシャア!!コルァ!!)」
「…でも、」
「えっ!?で、でも…?!」
「…………ううん、…これも、そのときに言うね…」
「う、うん…分かった…」

釈然とはしないものの、苦しげに息を吐いたなまえに、これ以上追及するのは憚れたし、僕もそうしたくはなかった。果報は寝て待てじゃないけど、あとで話してくれると言うのだし、今はただ、このボンクラな僕が役立つ限りなまえを癒してあげることに集中しよう。

遠くない日に、いつかその日は訪れるのだから。


弱る君の隠し事
…………ぐぅ…
(相変わらず寝顔が天使…)
(2017.04.15)


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