「エッ、十四松?!」

聞き慣れた声に顔を上げると、なまえちゃんが柵を乗り越えんばかりに身を乗り出して僕を見下ろしているのが見えた。

「なまえちゃーん!オッスー!!」
「いや、十四松そこドブ川だから!!早く上がっておいで!早く!!」

凄い剣幕で僕に手を振って叫ぶなまえちゃんに、手を振り返したら「ふざけんな!早く!!」と怒鳴られてしまった。ふざけていたわけじゃないんだけど。言われるまま川から上がって、なまえちゃんのところまで自力で登ると、なまえちゃんは複雑な表情を浮かべて、僕を睨んでいるみたいだった。

「ホイ!上がったっす!なまえちゃん!」
「十四松、とりあえずお風呂入ろう」
「え、セクロスする?」
「違う!!ほら、松野家すぐそこなんだから!ダッシュで行ってお風呂入って!!後から追い掛けるから!」
「なまえちゃん遊びに来るの!?やったー!!」
「これ以上話してると殴りそうだから、早くして十四松」
「分かったー!!」

ビシッと敬礼ひとつ。僕は家へと全速力で向かい、なまえちゃんに言われるままお風呂にどぼんした。浴槽に溜まっていたのは水だったけれど、お風呂に入ったことには違いない。ガシャガシャと頭や体を洗って、バーンとお風呂場を出ると、廊下でカラ松兄さんが立ち尽くしていた。

「カラ松兄さん!なまえちゃん来た!?」
「十四松、脱いだ服を廊下に捨てお前裸じゃないか!?というかなまえが来るのか?!とりあえずお前は服を来てこい!!片付けはしておくから!!」
「分かったー!!」
「おまっ、せめてタオルで体を拭け!!あああ水浸しじゃないか…っ」

カラ松兄さんに言われるまま服を着て一階に戻ると、不機嫌そうなカラ松兄さんがタオルを持って待ち構えていた。有無を言う前に居間に座らされて、でかいバスタオルで頭をガシガシと乱暴に拭われる。脳みそがシェイクされていくみたいに、ぐわんぐわんと僕の頭はされるがままだ。

「十四松、風呂から上がったら体を拭いて服を着るのは常識だろ?」
「なまえちゃん来るから早くしなきゃと思って!」
「女の子が来るなら尚更、服を着なきゃ駄目だ」

それからカラ松兄さんは、汚れた服を放置しないとか、脱衣場が水浸しだとかって話をした。
ふむふむ聞いていると、「ごめんくださーい」と玄関の引き戸が叩かれて僕は頭を上げる。ごちん「痛ァっ!?」カラ松兄さんの顎に当たってしまったらしい。

「勝手に入るよーっと、ん?なにしてんの?」
「アッ!なまえちゃんいらっしゃーい!」
「あ、うん。お邪魔します。…カラ松は大丈夫?」
「ふ、フッ…オレのことは気に「分かった」えっ」

おいでおいでとなまえちゃんを招き入れて、座ってもらう。勝手知ったる僕たちの家だ、久しぶりに来てくれたとはいえなまえちゃんは勝手に座布団を出してきて座ってくれる。その慣れた流れさえ久しぶりに感じて、僕はなんだか少し寂しい気持ちになった。なまえちゃんは、僕らの大事なお友達だけど、それと同時にチョロ松兄さんの大事な彼女でもある。だから、なまえちゃんが僕らの家に来なくなっても、それは仕方のないことなのだ。僕は、そう思える。

「あ、十四松、髪まだ濡れてるよ。ほら、タオル貸して」

なまえちゃんは僕を目の前に座らせて、タオルで頭を拭いてくれる。カラ松兄さんより優しくて温かい手つきにちょっと眠くなってきた。カラ松兄さんのやり方が嫌だったわけじゃない。

「オレは出掛けるけど、二人で大丈夫だよな?」

カラ松兄さんが立ち上がって、そんなことを言った。僕となまえちゃんは揃って首を傾げる。

「ん?なんの心配?」
「…まぁ、十四松なら大丈夫か。行ってくる」
「?いってらっしゃい」
「カラ松兄さんいってらっしゃーい!」

後ろ手に手を振ったカラ松兄さんが家を出て行くと、途端に家の中が静まり返ったように思えた。なまえちゃんも、黙ったまま僕の頭を拭いている。

「昨日ね、チョロ松兄さんの再就職祝いしたんだ」

沈黙も静寂も耐えられなくて、僕はなまえちゃんに昨日のチョロ松兄さん再就職祝い会の話をした。なまえちゃんはうんうんと楽しそうに相槌を打ちながら聞いてくれて、僕もそれが楽しくなって沢山話したと思う。お寿司も食べたしケーキも食べた、お酒もいっぱい飲んで騒いで楽しんだ。二回目の門出だけれど、そんなことはどうでもよかった。僕たちは美味しいものを食べて騒げる機会を逃さなかっただけなのだ。

「そしたらねー、カラ松兄さんが泣き出して」
「あはは、カラ松らしいなぁ」
「あっ、それからね!僕らみんなチョロ松兄さんにプレゼントあげたんだよ!再就職祝い!」
「ほうほう、参考までになにあげたのか聞いておこうかな?」
「んとねー、おそ松兄さんはゴムを一箱あげてたよ」
「ゴム…?輪ゴム?」
「カラ松兄さんはローション!」
「ローション…保湿のやつ?チョロ松、乾燥してるとか言ってたかな…」
「一松兄さんは凄いよ!温泉旅行だって!」
「あ、うん。そうそう、凄いよね一松、凄い運の持ち主」
「僕はサインボールあげたよ!」
「サインボール?野球の?凄いね、それ大事なものなんじゃないの?」
「あれはね、僕が遠投80m飛ばしたときの記念ボールだよ!ちゃんと僕のサインが入ったやつ!」
「アッ、十四松のサインボールかぁ…なるほど」
「トッティも凄いよ、革の名刺入れ!」
「えっ!革の名刺入れ?!え、普通の?」
「うん」
「お店で売ってるやつ?」
「うん」

僕が頷くと、なまえちゃんは驚いた顔で固まってしまった。確かに、僕もトッティのプレゼントには驚いたし、僕じゃ思いつかなかった品物に、凄いなぁなんて感心してしまった。でも、トッティにはトッティなりの意図があったのだと思うと、僕はなんと言っていいのか分からなくなる。

「でもトッティ、チョロ松兄さんにプレゼントあげてすぐ寝ちゃったんだ」
「そうなの?体調悪いのかな…、最近全然連絡くれないし…」
「体は元気だと思う」
「…それなら、良いんだけど」

なまえちゃんは曖昧に微笑んだ。なにかを分かっているようで、なにも分かっていないようだった。

トッティは、なまえちゃんのことが、まだどうしようもなく好きなのだ。

トッティの様子が変なのは、チョロ松兄さん以外のみんなが分かっていたことだった。チョロ松兄さんも変には思っていただろうけど、きっとその理由までは気づいてあげられなかったのだと思う。
昨日、トッティはチョロ松兄さんへのプレゼントを押しつけるように渡して、二階へと引っ込んでしまった。

「なにあいつ…うわ、えっ?!なにこれ!」
「ん?チョロ松、なにを貰ったんだ?」
「…革の、名刺入れ…」
「うわ、高価そう〜…」
「いや高価いでしょコレ!!マジかトッティ…、い、良いのかなこんなもの貰っちゃって…」
「良いんじゃないの、くれるっつぅんだから貰っとけば」
「そうそう、いらないって言うならお兄ちゃんが貰ってあげるよ?」
「いやお前は今後一生使わねぇだろ!!」
「うん!!売る!!」
「おおおおおいクズ松おおおおおい!!やるわけねぇだろ!!大事に使うわ!!」

わいわいと兄さんたちが騒ぐ中で、僕は二階が気になって仕方なかった。見ると、一松兄さんがふらりと居間を出て行こうとするところで、僕も慌ててそれに続くことにした。

「ん?なにお前ら、どうしたの?」
「飲みすぎたからゲロってくる」
「僕もー!」
「なんでもいいけど、トイレは綺麗に使えよお前ら」
「あいあーい!」

居間を出た僕らは二階に上がって、部屋を見たけどトッティはそこに居なかった。一松兄さんがベランダに出る。僕も倣って二人で屋根の上まで行くと、トッティは膝を抱えて座ってた。

「トド松、なにしてんの」
「……べつに。兄さんたちこそ、なにしに来たの」
「ちょっとゲロしに」
「トイレ行けよ!!なんでここ来た?!」

一松兄さんも、僕も、色んなことに気づきながら、それを解決したり意見したりするっていうのが苦手だ。でも、それは半分嘘。僕らは、僕らの言葉で誰かが傷つくのが怖い。だから本当は、トッティのところへ来るべきじゃなかったのかもしれない。でも、放ってもおけないじゃないか。だから、一松兄さんも僕も、来てしまったのだ。

「…今日、商店街でなまえちゃんに会った」
「それが、なに…」
「ちゃんと伝えてきた。明確な言葉じゃなかったけど、気持ちは伝わったと思う」
「……え、なにそれ、告白してきたってこと?!」
「半分くらいは」
「はんぶん…?」
「おめでとうって言ってきた。なまえちゃんも、ありがとうだって」
「…なにそれ、告白じゃないじゃん」
「でも、ぼくはスッキリした」
「あ、そ」
「なまえちゃんは、もうチョロ松兄さんから選択を変えないよ」
「…………」
「だから、ぼくの気持ちもなまえちゃんは受け止めながら、全然なにも変わらなかった。肯定も否定もしないで、今までどおりに笑ってくれた。なまえちゃんは、ぼくらをちゃんと好きなんだと思う。それがぼくらの欲しい好きじゃなくても、関係を大事にしてくれてる」
「………だから、なに、なんで今そんなこと言うのさ…」
「ぼくの恋は終わった。凄く、スッキリする終わり方だったと思う」

トッティは一松兄さんを睨んでた。一松兄さんは、どんな顔でトッティを見ていたんだろう。一松兄さんの後ろに居た僕に、それは分からなかった。

「トド松も、溜め込むくらいならゲロってスッキリすれば?」
「……………」
「なまえちゃんは他人のゲロでも、嫌な顔せずちゃんと受け止めてくれるよ」
「…なまえちゃんに、そんな汚いもん見せられるわけないじゃん」

トッティはそのまま膝に顔を埋めてしまって、一松兄さんは少し黙ったあとに振り返った。視線だけで残るのかと聞かれたので、僕は頷く。やっぱり、放っておけるわけがないのだ。

一松兄さんが居なくなった屋根の上に、僕とトッティだけが残った。僕はトッティの隣に座って、ビルに挟まれた夜空を見上げる。子供の頃見上げた空より、ずっと狭くなったし、星だって前より見えなくなった。でも、この空は僕らがずっと見てきた空に違いない。
全ては時間と一緒に変わっていく。それは確かに怖いことだし、悲しいことでもある。でも、僕はこの狭くなって星のあまり見えない空も嫌いじゃない。なにもかもが変わっていくように、僕たちも変わっていくし、変わらなきゃいけない。それは流されるのではなくて、一緒に歩んでいくということなのだと思う。

「トッティ、ぼくね、思うんだけど」
「…………」
「なまえちゃんは、高校のときと変わったよね」

トッティは、膝に顔を埋めたまま。僕はお構いなしに話したいことを話した。

「仕事もしてるし、化粧もするから、変わったように見えるのは当然かもしれないけど、でもなまえちゃんはやっぱり昔のままじゃないよ」
「…………」
「もっと強くなったし、もっと可愛くなったと思う。チョロ松兄さんの相手が出来るのも、凄いって思うよ」

でも、なまえちゃんはなまえちゃんだ。僕らの好きななまえちゃんであることに、違いはないのだ。

「…っふふ、十四松兄さんの中で、チョロ松兄さんってどんな感じなの…?」

トッティが膝から顔を上げて、可笑しそうに吹き出したものだから、僕は嬉しくなって笑ってしまって、それから精一杯考えた。

「んとねぇ、チョロ松兄さんは、イノシシみたい!」
「イノシシ…?」
「そう!チョロ松兄さんは足も速いけど、それだけじゃなくて、思ったことに一直線って感じ!」
「あー…猪突猛進ってこと?」
「多分それ!トッティはどう思う?」
「えー…チョロ松兄さん?」

顎に指をあてて考える仕草。トッティは少し不機嫌そうで、それから少し楽しそうにも見えた。

「…クソダサヲタク。話も面白くないし、真面目ぶってるけど全然真面目でも頭が良いわけでもないし、アイドルの尻追っ掛けまわしてるばっかりで……、でも、そうだね、一直線に好きなものを追い掛けてるのかなぁ…」
「うん!それを受け止められるなまえちゃんは凄いよ!」
「ははっ、まぁ、確かに…」

眉を八の字にして、乾いた笑いを漏らしたトッティは、笑顔の名残りみたいな曖昧な表情で空を見上げた。僕も一緒に空を見上げる。

「……なまえちゃんとチョロ松兄さんのことさ、祝ってないわけじゃないんだ…」
「うん、知ってるよ」
「チョロ松兄さんの就職も、凄いなって思ってる。もう簡単に辞めないんだろうなって…だから使える物を贈ろうって思えたし、…ボクにはそれでしか伝えられないと思ったんだ。言葉にしたら、なに言っちゃうか分かんないからさ」
「優しいね、トッティ」
「優しい?まさか…まさかだよ…。だってボクはさ、…二人が一緒になることを望んでて、そうなって嬉しいはずなのに、全然…嬉しくなかった。いや、嬉しいし、喜んでた。でも、二人が一緒に居るのを見るのはつらいし、二人からその話だってされたくない。もう、ぐちゃぐちゃなんだ…本当は自分がどう思ってるのかも分からない。でも、二人を嫌いなわけじゃない」

トッティにとって、それ全部が本心なのだ。じゃあ、混乱して悩んじゃうのも仕方ないように思えた。だってトッティは二人のことが好きで、傷つけたくないのに、自分自身の気持ちも抑えられない。もっと上手く生きる人なんかいっぱい居るだろう。けれど、僕らはまだ生きることに未熟なのかもしれない。

「…ボクは今の関係のままが良いんだ。なにも変えたくない…だって、……」
「だって?」
「…だって、ボクは勝ち戦しかしないから…。傷つきたくなんてないし、負けを認めるのだって苦手だ…」

トッティは夜空を見上げたまま、それからなにも喋らなくなってしまった。僕は、そんなトッティを時折見つめたりしながら、夜空を見上げていた。瓦屋根の冷たさにお尻が感覚を無くすくらいになってきた頃、僕はトッティの頭を撫でた。トッティの頭の上で余った袖がくしゃくしゃ揺れた。

「…十四松兄さん、…ボク、どうしたらいいんだろ…」
「うーん…分かんない!」
「ははっ…そうだよね」
「でも、トッティが嘘をつく必要はないと思う」
「嘘…?」
「うん」
「…………」

トッティはまた黙ってしまった。僕は少し考えてから立ち上がる。

「トッティ、そろそろ中戻ろうよ。風邪引いちゃうよ?」
「……うん、十四松兄さん先に戻っててよ。ボクはもう少しだけ、一人で考えてみる」
「ん、分かった!」

僕が居間に戻ると、兄さんたちが楽しそうに騒いでいた。チョロ松兄さんも赤ら顔で凄く楽しそうだった。

ふと、なまえちゃんを見る。僕が見つめると、きょとんと首を傾げて曖昧に微笑むなまえちゃんもなんだか少し変な気がする。ちょっとした違和感。

「なにか、悩み事…?」

意識せず出た問いに、なまえちゃんはハッとした顔をして、バツが悪そうに視線を床に落とした。

「なまえちゃん、ぎゅってしてもいい?」
「…えっ?!」

驚いて顔を上げたなまえちゃんを、引き寄せて腕の中に閉じ込める。小さいなぁっていうのが感想だった。そのまま頭を撫でると、なまえちゃんは更に小さくなった。

「…あの、…十四松…?」
「ぼくはね、難しいことはよく分かんないし、みんな幸せならいいなって思う」
「……うん」
「けど、みんなそれぞれに思ってることがあるよね。上手くいくか不安で、言えないことがいっぱいあるのかな」
「…そうかも」
「ぼくはね、上手くいくか分からなくてもとりあえずやってみるよ!失敗しても、ぼくにはそれを許してくれるみんながいるから。だから失敗が怖くないんだ。成功するまで何度だってやろうって思える」

いつも背中に温かなクッションがあると思えば、何度だって壁にぶつかって後ろに倒れることが出来る。でも、みんなはそのクッションがあるのに気づかないこともあるみたいだ。

「なまえちゃんがもしね、チョロ松兄さんを傷つけるようなことをしたとするでしょ?」
「うん…」
「チョロ松兄さんは落ち込むかもしれないけど、すぐ大丈夫になるよ。だってなまえちゃんがわざとそんなことする子じゃないって知ってるし、それにチョロ松兄さんにはぼくらが居るから、きっと一人で悩む暇もないよ」
「ふふっ、そうかもね」
「だから怖がらなくて大丈夫だよ、もしなまえちゃんが失敗しても、ぼくらみんながなんとかするよ」
「……十四松って、凄いよね」
「エッ!ぼくすごい!?やったー!!」
「あははっ、うん、ありがとう」
「元気出たっすか!?」
「うん、元気出たっす!」

腕の中から顔を出したなまえちゃんは、やっぱり強くて可愛いなと思った。なまえちゃんの小さな頭を撫でながら、僕は全てが上手くいくようにと願わずにはいられなかった。


みんなの大団円を願う
十四松、ドブ川水泳はもうやめなさいね。
え!?なんで?!
(2017.06.24)


前項 戻る 次項

ALICE+