今日はなまえの家で僕の就職祝いをすることになっている。昨日は家族で食えや飲めやの大宴会だった。正直、こんなに祝ってもらうほど大したことではないのだけど、厚意は単純に嬉しい。兄弟は寿司食って騒ぎたかっただけだろうけど、なんだかんだプレゼントは貰ってしまったし、なまえからは祝うのは当然だと言い切られてしまった。まったく、僕は周りの人に恵まれている。
そして今、僕はなまえの家の玄関前に立っていた。
服装は、以前トド松に選んでもらったものを合わせて、防寒装備をプラスした。多分、変ではないと思う。出掛けに歯も磨いて来たし、なんならシャワーも浴びて来た。バッグには念のため泊まり用の準備と、
ちらり
潜ませている長兄二人からのプレゼントに視線をやって、バッグを閉じた。
これは、念のため。そう、念のためだ。そういうアレな雰囲気になってアレしてアレするかもしれないという可能性を考慮して、そう、うん。男の嗜みのような気持ちでそれを潜ませた。下心が無いと言えば嘘になる。でも、なまえはなにか僕に話したいことがあると言っていた。口振りから、あまり良い話でないことは容易に想像ついている。なまえも言うタイミングを窺って、あまり言いたくなさそうだった。
きっと、今日その話が出るのだろう。なんとなく、そんな気がしていた。
正直に言うと、僕はなまえの話を聞くのが少し怖い。だから、こんな玄関前で情けなく立往生しているわけだ。なまえがなにを話したって、僕はもうなまえを手放そうとは思えないし、別れ話なんてされたらみっともなく泣き縋る自信がある。今更、例えばバツイチだったとか、犯罪歴があるとか、人種を偽っていたとか、そんな内容では僕の気持ちは揺るがない。なのに、どうしてか怖いのだ。怖い?いや、違う。僕は、
「ぅわ!?え、ちょ、チョロ松?!居たなら入って来なよ!びっくりしたぁ」
玄関扉から顔を出したなまえに、僕は少しの間声を掛けられなかった。ハッとして、「ごめん、ぼーっとしてた」と言うと、呆れたように笑いながら部屋の中に招かれる。
「時間になっても来ないし、連絡つかないし、探しに行こうかと思った」
「えっ!ごめん、そんなに時間経ってたかな…」
なまえの家に着いたのは約束の時間より五分くらい前だったと思う。僕は随分と長く思考の海に潜っていたのだろう。
「いいよ、過ぎたって言っても二、三分だし」
「そうだったんだ、ごめん気をつけるよ」
「いいって、それよりコート預かるよ」
「ああうん、ありがとう」
何気ない仕草で、コートとマフラーを受け取って、ハンガーに掛けるなまえの姿につい見惚れてしまう。新婚、みたいだな。なんて。
「ご飯準備するから、適当に座ってて」
「…っあ、うん」
ベッドを背凭れにして胡座を掻くも、どこか落ち着かない。
玄関から続く短い廊下に、キッチンがある造りのなまえの部屋。リビングとそのキッチンとの間にはドアがひとつあるのだけど、そのドアはよく開けっ放しになっていて、今も開けられたままだ。
キッチンに立つなまえの後ろ姿を眺めると、凄く抱き締めたい衝動に駆られてしまう。抱き締めたいのは、いつも、なんだけど。
だが、キッチンに立つなまえにそれを実行したことは一度もない。だって包丁とか鍋とか使ってるのに、万が一にも怪我させたらと思うとなにも出来ない。憧れだけが先行し、現実的なビジョンが伴わない。だから、妄想だけに留めている。でもいつかは、上手いこと抱き締められないかなんて…
「今日はお鍋だよー」
鍋敷きや取り皿をテーブルに置きに来たなまえがそんなことを笑顔で言った。なんだこいつ超可愛い。
「鍋持ってくるの?ぼくやるよ」
「えっ、ありがとう」
「なにその、えっ、って」
「いやいや、頼もしいなって」
「今、こいつでも手伝ったりするんだ、とか思ったでしょ?」
「もう、卑屈だなぁチョロ松は」
そう言ってカラカラと笑うなまえが、僕の背中をぱしりと叩いて「お鍋、よろしくね」と笑った。
こんなことくらい、頼れば良いのに。過去の自分を棚上げして、僕はちょっとだけ拗ねた顔つきになっていたらしい。鍋をテーブルに置いて、キッチンに立つなまえのところへ戻ると、頬を抓られた。
「な、に」
「ありがと、チョロちゃん」
「…べつに。これくらい普通でしょ」
「じゃあ、今後もどんどん頼る」
「うん、そうしてよ」
こいつは、多分世界一僕の扱いが上手い。
急に悔しくなって、横に立つなまえを抱き寄せて腕に閉じ込めた。大丈夫、今は包丁もコンロも使ってない。
相変わらず柔らかくて良い匂いのする体を堪能しながら、驚く顔にキスしてやった。そうだ、一緒にキッチンに立てば抱き締めるタイミングを見つけやすい。良い攻略法を見つけて、僕はほくそ笑む。こんなに早く念願が叶うとは思ってなかったな。
「ちょっと、チョロ松…邪魔」
「うん、でも離したくない」
「お鍋冷めるから、ダメ」
俯くなまえの頸がほんの少し色づいていて、照れてるなんて超絶可愛いなと思ったら更に離れ難くなった。でも、このままでいるとそれはそれで怒られるから、名残惜しいけどそろそろ離れないと。絶対にまたキッチンで抱き締めてやる、次は後ろから行ってやると心に決めて、腕の力を解いた。
「昨日、沢山飲み食いしてたって聞いたから、今日は野菜たっぷりの鍋にしたよ。肉団子も入ってるけど、足りなかったら鍋の残りで雑炊作るから」
「ありがとう、じゃあ、いただきます」
「はい、いただきます」
小さなテーブルを挟み、二人で鍋を囲む。なまえの気遣いに、体だけじゃなく心まで温まりながら、僕は美味しい鍋に舌鼓を打った。こういうのが、この先ずっと続いてほしいと願ってしまう。なまえとの未来を、どうしたって望んで、想像してしまう。だってこんなに好きになれる人、この先出会えるなんて思えない。それに、僕はなまえだけで良い。この先どんな素敵な女性に出会おうとも、なまえが良いんだ。
「あ、そうだ。十四松から聞いたよ〜」
「ん?なにを?」
「みんなからの就職祝い」
「んゲホォ!!ゲホォッ!?」
「ちょ、ちょっとチョロ松大丈夫?!」
「だだだだだだいじょうぶ、そ、それより、え、なに、聞いたって、なに貰ったか?なに貰ったか聞いたの?」
「え?うん、そうだけど…」
じゃあ、僕があの腐れ長兄二人からナニを貰ったのかもなまえは知っているのか?!もしかして、今ソレを持ってることすら勘づいていて、遠回しに「お前とはしねぇよ?」という牽制をされているのか?!やだやだやだ!僕は是が非でもするぞ!!
「チョロ松、」
「ナァ!!な、なに…?」
「輪ゴムと保湿ローションが欲しかったの?」
「……ん?」
「言ってくれれば、それくらいいつでも用意したし、保湿ローションなら使ってないのもあるのに」
「…う、うん、」
「乾燥する季節だし、つらいよねー。分かる分かる」
「ね、ねー…」
この子がなんにも分かってなくて良かったー!!なまえの女神フィルターやばいよ、悪しき存在を確実に排除して認識するに至ってない。これはこれで有難いけど、こいつがピュア過ぎて僕の心臓は焼き切れそうだよ。こいつきっと人に与える罪悪感で相手を殺せるよ!!
「チョロ松?箸止まってるけど、口に合わなかった?」
「いっ、いや!もう超美味しいよ!!一生食べていたいくらいだよ!?」
「あはは、一生までは分からないけど、いつでも好きなもの作る努力はしてあげるよ」
なにそれ、プロポーズかな…?
「あっ、そうだ。それで、チョロ松は就職祝いなにが欲しい?チョロ松の欲しい物をあげたくて、まだなにも用意してないんだ」
「…っえ、ぼくの、欲しいモノ…?」
「うん。ほら、一松から温泉旅行券貰ったし、そのときに渡せたら良いなぁって」
食事の手を止めたなまえが、タンスの上の小物入れから封筒に入った温泉旅行券を持ってきた。一松が言っていたとおり、このプレゼントはなまえがセットになっているようだ。いや、確かに一緒に行く相手はなまえくらいなんだけど。兄弟たちの計らいは僕の背を押すものばかりで、じっと旅行券を見てしまう。
この旅行で、僕はなまえから僕の望むモノを貰えるらしい。頭の中は既にピンクの靄が掛かり、僕の中の邪な心がハッキリと欲しいモノを叫んでいる。ていうか、プレゼントってことにして貰えば、なまえも嫌とは言えないんじゃないの?とか考えてる僕を殴ろうとする僕は現れず、脳内チョロ松会議は全会一致での決議となった。
「な、なんでも…良いの…?」
「うん、あっでもあまり高値い物とか現実的じゃない物は無理かな。私が渡せる範囲で考えてね」
「……………………」
「チョロ松?」
ごくん、と空気を呑み込み、意を決して箸を置いた。その手でそのままなまえの手を掴む。顔を見るために深呼吸を二度ほど。顔を上げると、きょとんとした表情のなまえが小さく首を傾げていた。
「…僕は、なまえが、欲しいんだけど」
言った。
僕は確実にこの言葉を、ちゃんと相手に聞こえる声量で言い切った。
けれど、なまえは発言前と変わらない表情で少し止まったあと、そのまま食事を再開させてしまう。怒ったり茶化したり照れたりもしない。まるで、なにも無かったようなその態度に、僕の中に立ち込めていたピンク色の靄は、一転して暗雲へと姿を変えていた。
もしかして、地雷を踏んだのだろうか。
今までそういうことが無かったのは、やはり僕の力量云々ではなく、なまえが意図的に避けていたということなのか。やっぱり、僕に経験が無いことが駄目なのだろうか…、もっと経験豊富で何事も上手く立ち回れるような男なら、なまえとの関係はもっと早く進んでいたのかもしれない。いや、駄目だ。卑屈になるな松野チョロ松、なまえにとっては運命の悪戯であったかもしれないこの付き合いは、なんとかして僕自身が勝ち取ったものなのだ。今更他の男に譲ってやる気は毛頭無いし、なまえだって僕のことを分かった上で僕を選んでくれたのだ。それは何事にも変えられない紛うことなき真実ではないのか。
それじゃあ、この気まずい空気はいったいなんなんだ。
「あのさ、」
「ッ、んぐ、うんっ、なに?!」
突然の呼び掛けに、嚥下する喉が動作を誤ってしまった。とりあえず、再開していた食事を辞め、食い入るようになまえを見る。なまえの視線は床の上だ。
「チョロ松が言ってる欲しいものって、…そういうこと、だよね」
「……は…はい…」
「…………だよね」
アッ、凄い気まずい。ごめ、ごめんなさい、数分前の僕を殴っても良いから、あの発言が無かったことになりませんか。なんなら、一生童貞でも良いから!なまえと居られるなら努力するから!本当は死ぬほどしたいけど!!
「……あ、」
「なっ、なに!?」
「お鍋、具材無くなっちゃったね。雑炊作ろっか?」
見ると、黙々と食べていたからか、少なくなかったはずの鍋の中身が綺麗に汁だけになっていた。お腹が空いていなくもない。でも、なんだか喉を通る気もしない。
「…いや、いいや、ご馳走様でした…」
「そっか、なんか手抜きみたいでごめんね?」
「そんなこと!」
「なんかもっと色々作っておくんだったかなぁ」
食器を片付けるために、なまえは立ち上がって僕に背を向ける。なんだろう、もしかして…拒絶、されてる?
そんなに、重い話題だったのかな。一応僕ら付き合い始めてもう半年近く経つわけだし…そういうアレなことになっていたって全然不思議じゃない、はずだ。おそ松兄さんや一松からも、まだだってことに驚かれたりしたし…、これでも我慢してきたつもりだし、なまえのことを大切に思えばこそ色々な葛藤もあったり欲望に負けそうになったり、アッでも最後には結局はぐらかされてきたのか…。
僕だけ、なんだろうな。
そりゃそうか。僕はただ卒業したいだけ、そう思われたって仕方ないし、男なんて下半身に脳みそついてるようなもんだし。こんなことで悩んでることがいい証拠だ。
黙々と片付けをするなまえを、手伝うでもなく、僕はその背中を見ることすらしなかった。
少しして、蛇口を閉める音が室内に響く。足音と気配で、なまえがテーブルを挟んだ向かいに座ったのが分かった。
「チョロ松、」
「…うん」
「前に、話したいことあるって言ったの憶えてる?」
「うん…、憶えてる」
「今、聞いてくれる?」
ごくり、喉が鳴る。
「…う、うん」
「単刀直入に言うけど、私、処女じゃないんだよね」
「………うん?」
「うん、だからさ…その、チョロ松のことガッカリさせたくなくて、ていうか、嫌われんのも嫌だったし…今更こんなことで罵られるの、面倒っていうか…」
なまえのことを、クソビッチと罵った過去が蘇る。
「でもいつかは分かることだし、ずっと避けてもいられないし、元々隠してたわけでもないんだけど(パンケーキ店で正直に話したし)、…チョロ松が、お互いのそういうこと気にするのは知ってたから、改めて言い出しづらくて…」
僕は、声が出なかった。
それは、なまえが処女かどうかって話ではなくて、自分自身の身勝手さや愚かさに対する自己嫌悪で、なまえに言うべく言葉を考えあぐねていたのだ。謝罪、弁解、僕はなにを彼女に言うべきなのか。
僕が言葉も出せずにいることで、なまえは小さく頷いた。それから、僕のバッグを持って立ち上がる。僕は、情けない顔をしてそれを見上げたと思う。
「温泉旅行ね、三日後に勝手に決めたから。少し遠いから、一泊二日の準備して朝六時の赤塚駅始発乗ったほうが良いかなって思ってる」
僕のコートとマフラーも手にしたなまえは、そのまま玄関に向かっていく。なまえを追い掛けて、僕も玄関へと急いだ。バッグの中身を見られたら困るし、なまえがなにをしたいのかも気になった。
追いついた僕の前で、なまえはくるりと僕に向き直りバッグとコート、マフラーを僕の胸に突きつけた。
「ごめんね、今日は帰ってもらってもいいかな」
「っあ、え、っ」
「三日後の木曜朝、六時に赤塚駅で待ち合わせね」
「…っちょ」
靴を履くのもままならない状態で、押し出されるようにして外の廊下に出る。僕の背中を押すなまえを振り返ると、なんでそんな顔してんだよと言いたくなるくらい、悲しそうな顔をしてつらそうに笑っていた。
「よく考えてくれると、嬉しい。…待ってる」
その言葉を残して、無情にも玄関は閉められた。
僕は、情けなく立ち尽くして、それから、コートもなにも脇に抱えたまま駅へと歩き出した。
あの、待ってるって言うのは、なまえは僕が待ち合わせに来ないことを考えているんだろう。なんでそんな、なんて思わなくもないけど、なまえと付き合う前の僕なら、きっと、なまえのことを拒絶していたのかもしれない。なにも考えずに罵って、簡単に彼女の心を傷つけて、傷つけたことにすら気づかないで、自分は間違ってないなんて言い張るに違いない。
立ち止まる。
ボタボタと次々溢れる後悔や罪悪感、自己嫌悪を必死になって袖で拭う。
今の僕なら、なまえのあの告白に「なに、そんなこと?」って返せる。でも、そんなことを真剣に悩むくらいなまえは僕に嫌われたくないと思ってくれていて、僕は、なまえをそんなことで悩ませるくらい心の狭いクズだったのだ。僕は、なまえの話したいことを聞くのが怖かったのではない。どこかでなんとなく話の内容は分かっていたのかもしれない、いや分かっていなくても、なんとなく感じていたのだ。僕は、なまえに信用されてないんだって。小さなきっかけで簡単に関係が壊れると、そうなまえに不安を与えていて、それを怖がらせて、悩ませて、僕がしっかりしていないばかりに、そんなことで関係がどうなることなんてないんだと信じさせてあげられなかった。
情けない。
ああ、情けない。
僕は、なまえから信用されていないと知るのが嫌だったのだ。もっと早く、僕から色々言えば良かった。自分がなまえのおかげで変われたこと、誤解があるならその全部を話し合うべきだった。信じてもらえないなら、信じてもらえるまで。
結局、なまえを悩ませて不安にさせていたことはもう変えようがない。
なまえにも、僕にも、考える時間が必要なのかもしれない。
三日後、そのときに、ちゃんと答えを見せなければ。
冬の夜空を独り歩く。
その日、泣いて帰った僕に、
声を掛ける兄弟はいなかった。
(2017.06.24)