早朝、五時半。
赤塚駅から旅行券の温泉旅館がある町まで電車やバスを乗り継いで四時間ほど掛かる。
旅館のチェックイン時間である十四時までに着けば良いのだから、本当はこんなに早く出なくたって良かった。それでも私がこんな早朝を指定したのには訳がある。
チョロ松が来なかったとき、一人で電車に乗って泣いてしまったら、周りに人が少ないほうが良いと思ったからだ。温泉旅行は勝手ながら私の傷心旅行となり、それなら早朝の空気の中旅立ちたいと思った。
「…身勝手、だなぁ」
駅の改札口、柱を背にしてチョロ松を待つ。マフラーに口元を埋めて自嘲するのも、なんだか寂しかった。
徐ろに定期入れをポケットから出して、眺める。そこにはチョロ松たち六つ子の子供の頃の写真を入れてあるのだ。元気がなくなると、つい眺めてしまう。これは以前の約束通りチョロ松から貰ったものだ。
見分けのつかない幼い顔の六人が、笑顔で写る写真を指でなぞった。きっとこの右から二番目の子がチョロ松なんじゃないかと私は思っている。なんだか忙しない雰囲気を纏うその子を眺めて、定期入れをポケットに仕舞った。
私は嫌われるのが嫌で、チョロ松のことを信じてあげられなかった。どうしてほしかった、なんてのもない。ただ、伝えなきゃいけないことがあって、でもそれを伝えたら私たちの関係が終わる気がしてなかなか言い出せなかった。そういう後ろめたい気持ちから、何度もチョロ松を疑って、束縛しようと必死な自分をどうにかしたくて、結局は突き放した。
こんなに、誰かとの関係で悩む日が来るなんて思いもしなかった。今まで付き合った人は、可もなく不可もなく、私になにも与えてはくれなかったのかもしれない。好きだから不安になるなんて、そんなこと味わったこともなかった。
でも、それら全部、自分が傷つきたくないがゆえの言い訳にすぎない。
自分が傷つきたくないから、相手を傷つけた。
私は、最低だ。
一泊分の荷物を地面に置いて、膝を抱えるように屈み込む。泣きそうな目を両手で覆った。
このまま泡となって消えてしまいたい。ここ最近ずっと私の中にわだかまってぐるぐると終わりの無い淀み。信じようとしても不安になる、愛情を示されても疑ってしまう、なんだこれ、なんて面倒な感情なんだ。
「なまえ…?」
ハッとするも、動けなかった。両目を覆った手で出来た暗闇の中で、心臓だけがうるさく返事を返す。
目の前で屈む気配、私の手に触れてきた手は温かかった。
「具合悪いの?手、冷たいよ」
そっと手を解く。顔を上げると、やっぱりそこに居たのは紛れもなくチョロ松だった。
「…チョロ、まつ」
「よかった、泣いてるわけじゃないんだ」
「…泣かないよ」
「でも、お前さ、来ないと思ってただろ」
「………ごめん」
ムッとした表情のチョロ松から視線を外して俯く。来ない想像ばかりしていた私は、目の前に現れた本物のチョロ松にどうしていいか分からずにいた。
「ほんとに、信用ないな俺…」
「…ご、ごめん、なさい」
「……ぼく、怒ってるよ」
「うん…返す言葉もございません…」
するりと両手で頬を包まれて、顔を上げられる。怒っていると言うわりに、チョロ松の表情に険しさはなかった。
顔が近づいて、あ、と声を出す間も無くキスされていて驚く。ゆっくり離れていったチョロ松の顔を見て、私は何度目なのか分からない後悔をした。
「…公共の場ですよ、チョロ松くん」
「こんな朝早くに誰も居ないよ」
「駅員さんとか…」
「ぼくは見られても平気」
「………チョロ松、」
「ん…?」
「本当に、ごめん、ごめんなさい…っ」
目の前の首に抱きついて、縋りついた。抱きとめてくれるチョロ松に、心も体も情けないくらいに甘えてしまう。後悔と安堵とが綯い交ぜになって、チョロ松の全部が愛しくて涙が次々に溢れ出した。
「好き…っ、ごめん、ごめんねチョロ松、ごめん…ッ」
「ああもう、なんで泣くかなぁ…はは、…あー…よしよし」
頭と背中を優しく撫でてくれる力強い手に安心する。チョロ松の腕の中に居れば、不安なんかひとつも浮かばないのに。ああ、本当に駄目な奴だ私は。
「…もっとちゃんと、なまえのこと支えるし、信用されるようにこれからも努力するから。勝手に離れようとすんのやめてくれる?」
声も出ないほど力一杯抱き締められて、返事は出来なかった。代わりとばかりに、私も力一杯抱きついて、必死になって頷く。
「あーもう、ずっとチョロ松の腕の中に居たい…」
「そういう殺し文句をサラッと言う癖なんとかして。ぼく、これでも今結構キツいんだけど」
「えっ!アッごめん!苦しかった?!」
「うん、そうじゃないけどまぁいいか。…少しは落ち着きましたか?なまえさん」
「…ハイ、だいぶ落ち着きました。チョロ松くん」
「ん。なにより」
私の頭をぽんぽんと叩いて、チョロ松は立ち上がる。いつの間にか私の荷物まで持ってくれている。
「ほら、始発に乗るんじゃなかったっけ?」
「うん…乗る」
「じゃあ行くよ、乗り遅れる」
切符売り場へ向かう彼の袖を掴む。首を傾げて振り向いたチョロ松は、私の非力な足止めにも立ち止まってくれた。
「あの、あのさ、チョロ松、」
「なに?」
「…あの、ほんとに、良いの…?」
「えっ、なにが?」
「いや、その…」
「エッ、もしかしてまだ不安なの?」
「そういうわけじゃ、ない、んだけど…」
偶像と処女がこの世の至高と言わんばかりにそれらを信仰していた彼が、私一人の存在でそう易々と心根まで変わるものなのだろうか。好きでいてくれるのは嬉しいし、私だってこのままずっと一緒に居たい。でも、なんというか、それとこれとは別なのでは?と思わなくもない。これはチョロ松の気持ちを疑ってるとか信用していないとかではなくて、なんというか、なんと、言ったらよいのだろう…。
「くれるんでしょ」
「えっ…?」
「…就職祝い。ぼくが欲しいものをくれる約束だったよね?」
「う、ん」
「…ん。なまえに言われたとおり、この三日ちゃんと考えたよ」
「……うん」
「それでも、ぼくの欲しいものは変わってない」
チョロ松のコートの袖を掴んでいた手を、反対に掴まれる。そのまま、ぐっと引き寄せられて二、三歩たたらを踏むと、チョロ松を少し見上げるくらいの近さになった。
「全部、ちょうだい。大事にするからさ」
サラッと殺し文句を言うのはどっちだ、と喉まで出掛かった言葉は呑み込んだ。
「…あげる。全部、チョロ松に貰ってほしい」
代わりに出たのは、心からの言葉だった。私に、面倒くさいことをぐだぐだと考える時間を与えないでほしい、心も体も時間さえも、全部私から奪ってほしいと思った。
「…キスしたい」
「さすがに公共の場ではもう無理」
「なんでもっと早くこういう話してこなかったんだろ、あーぼくって本当に我慢強いなあ!チクショウ!!」
突然キレだしたチョロ松は、私の腕を掴んだまま荒々しく切符を買って、その勢いのまま改札を通った。私は手を引かれるままにチョロ松に従った。怒ってるときのチョロ松は面倒だからあまり煽りたくはない。
ホームに電車が来る。始発でも、結構乗客の数は多かった。まぁでも、二人座れるだけの空きはありそうだ。
「どれくらい掛かるんだっけ、旅館まで」
「ゴーグル先生の予測だと四時間ちょっとだったよ」
「…四時間か…。…ねぇ」
「ん?」
「その間、ちゃんと話そう。不安も不満も、ぼくたちお互いに出来るだけ言葉にしてきたつもりだったけど、それでも足りなかったのかもしれない」
「チョロ松…」
「遠慮は無し。なんでも良いから言ってよ。ぼくも、ちゃんと言うから」
すれ違いがあってから、私たちはお互いになんでも言葉にするように努めてきたつもりだった。それでも、私はチョロ松に嫌われたくなくて伝えなきゃいけないことを後回しにした。チョロ松は自分のけじめのために、就活のことを私に黙っていた。ほら、結局そうそう上手くはいかないのだ。
でも、チョロ松という人は、それならば改めて、と何度も歩み寄ってくれる。二人の関係を誰よりも護ろうとしてくれて、私ばかりを大切にしてくれる。こんな良い人、出会ったことがない。というか、チョロ松がこんなに出来る男だとは知らなかった。
六つ子の底力は末恐ろしい。
空いていた座席に並んで座り、電車が動き出す。旅行なんて久しぶりで、電車が動き出すと共に、子供っぽくわくわくと胸が高鳴ってしまった。
「ね、ね!チョロ松、なんか楽しくない?こういう旅行いいね!始まったばかりだけどさ、またしたいね!」
「キスしていい?」
「話の流れ…!!私の興奮をぶった斬るなよ、びっくりしたよ。なんなのどうしたのいったい」
「なまえがこんなにはしゃいでるの初めて見た。クソ可愛いかよ、マジ早くヤらせろ」
「心の声かな?ダダ漏れなんだけど。ていうか童貞のくせにそういうこと簡単に言うなよ」
「良いんだよ、あと数時間後には童貞じゃなくなるんだから」
「なんでも言うってこういうことなのかな!?」
座席の感覚は狭い。個人スペースが護られているからと言って、壁があるわけじゃない。こういった会話だって前後の人には筒抜けのはずだ。まったくもって、恥ずかしい。
「なんか今日のチョロ松、変に堂々としてませんか?私の知る限りもうちょっと初々しい感じだったんだけど」
「有難いことになまえから三日も猶予を貰ったからね、ハゲるかと思うくらい色々なこと考えさせてもらったんだ」
「凄い、サラッと嫌味を言われている」
「結局、ぼくになまえから離れる選択肢なんか無いから、今日のことを色々考えた。考えた結果、色々なものが振り切ったよね」
「いったいなにを振り切ったのか気になるけど、絶対この場では言わないで」
「とりあえずキスしていい?」
「駄目だっつってんだろ!?」
なにこのチョロ松、めんどくさい!
「じゃあ、手、繋いで」
「それくらいなら…いいけど」
ぎゅっと力強く握られた手。腕ごと絡められたので、私はチョロ松のほうへグッと引き寄せられる形になった。
熱い。チョロ松の手も体も、熱いし、力強い。緊張しているのか、少し強張っているようにも感じる。
絶対離すもんかと言われているようで、なんだか少し笑ってしまった。手を繋ぐだけで、幸せになれる。面倒くさいのは断然私のほうに違いない。
「…あのさ、」
「なに?」
「なまえ、キスするときに声出るじゃん」
「ごめん、そういう話は旅館着いてからでもいいかな」
「あれって抑えられるもんなの?」
なんてことをなんて場所で聞くんだこいつ。
「…それは、なんですか、耳触りだから黙れっことですかね」
「いや、可愛すぎるから他の奴に聞かれたくないなって」
「周りの人に聞かれる環境でしなきゃいいんじゃないですかね」
「うーん…、試しに頑張って抑えてみてよ」
「は?」
不意打ち。
私も警戒はしていたつもりだったのだけど、呆気なく後頭部を取られて、チョロ松との距離がゼロセンチ。
従うわけじゃないけど、無意識に声帯が強張った。周りの誰にも気づかれないようにと願いながら、チョロ松の上着に抵抗にもならない皺を作る。
舌が絡んで吸われて舐められて、結局は気持ちいい。
「…っは…、なんだ、声抑えられるんだ」
「っ、はぁ、ふ、ちょっと、マジ、ふざせんな色ボケ松…!」
「でもどうしても音出そうになるよね、こんな慎重にしたの初めてだよ」
「話を、聞いて!あのね、チョロ松くん、そういう暴走する癖は本当に治したほうがいいよ?」
「嫌がらないから、つい」
「嫌がってたよね?!」
「なまえはその可愛いとこ一生治さないでね」
「駄目だ、会話が成り立たない」
これからの旅行が本当に心配です。
前途多難なトラブルトラベル
チョロ松、まずはチョロ松の
嫌いなところから話していっていい?
えっ!?
(2017.06.24)