みんなは、経験あるだろうか。

胃の辺りがキンと冷えて、内側からじわじわとした痛みを感じる。脈拍が上がるのと同時に、熱い息が鼻腔を抜けて吐き出される。体の中は冷え切っていると思っていたのに、吐く息は妙に熱く、吸い込む空気は妙に冷たい。

これは、温泉旅行から帰ってきた二人を見たときの僕だ。
大量のお土産を持ってきたなまえちゃんを笑顔で迎えて、久しぶりに間近で彼女の可愛らしい微笑みを見る。心臓がひとつ鳴る毎に喉元を登ってくるような感覚。
最近連絡くれないね、なんてなまえちゃんは言う。僕は、最近忙しくてね、なんて返す。するとなまえちゃんは、ニートがなに言ってんのと笑うのだ。幸せな笑顔に一瞬だけ心が温かくなって、そしてすぐ冷える。
二人のスマホからぶら下がる同じ形をしたシルバープレートが目に入って、どっちが言い出したか知らないけど痛いコトするなぁ、なんて少し笑えてしまった。二人の幸せが、形を成してそこに鎮座している。
明確に見える壁の向こうで、チョロ松兄さんとなまえちゃんが笑ってる。僕が望んだ景色を前に、しかし望んだ通りに気持ちは動かなかった。

それで幸せ、それが幸せ、君の幸せが僕の幸せで、僕の幸せは君と共にはありえないという不幸せ。

「なんで、自分自身すら思ったようにはならないんだろう」
「え?」

カランと音を立てた氷が、飲みかけのカシスオレンジの海で踊っていた。マドラーでカラカラ遊んでやり、楽しそうに水遊びをする様を眺める。
顎を上げてテーブルを挟んだ向かい側を見ると、どこか呆けたような、しかしいつもとなんら変わらない表情のあつしくんが僕に視線をくれていた。

「そういえば、この前の社員旅行で松野のお兄さんとその彼女さんに会ったよ」

興味もなげに、あつしくんは手持ちのハイボールを呷る。

「チョロ松さんはなんていうか、ネズミみたいだよなぁ。チーズを盗られまいと必死な感じ」
「そんなの本人に言ったらぶん殴られるよ」
「松野はウサギみたいだ」
「可愛いところが?」
「ビクビクしてるところが」
「あ、そう」

僕を臆病者呼ばわりしたあつしくんは、僕の反応が不満なのか片眉を持ち上げて僕を見下ろした。

「あつしくんはさ、もしもこうしていたら、なんて思わないでしょ」
「そんなこともないけど、取り返しがつくなら今からでもやるかな」
「さすが、一軍様の言うことは違うよね」
「関係無いだろ、後悔は覆せないんだから、上から良い結果を上塗りしてイーブンにするしかない」
「どうやったって良い結果を出せないと分かったら?」
「そうしたら、別の道で良い結果を出す。どうしたって過去は変えられない、でも現在や未来はどうにでもなるし、立ち止まってたって時間は過ぎる。結局置いて行かれるくらいなら、必死に走るしかないと思ってるよ」

淡々と話すあつしくんは、刺身に手をつけて、またハイボールを呷った。

「失敗したな…、松野、ピザ頼んで良い?チーズ食べたい」
「いいよ、どうせあつしくんの奢りだし」
「あ、ここ盛合せもあるのか…、松野はどっちがいい?」
「んー、お腹は空いてるよ」
「じゃあやっぱピザ頼んで、ワイン飲めるだろ?ボトル頼んで切り替えよ。今俺の口は洋を求めてる」

テキパキと決めて注文を終えたあつしくんは、御通し程度に頼んでいた刺身をパッと食べ終える。僕はその様子を氷と遊ぶ片手間に眺めていた。

「刺身で後悔したら、ピザとワインか…」
「え?」
「ボクも、あつしくんみたいな性格だったらなぁ」
「なに言ってんの、松野は俺よりドライでしょ」
「うっわ、心外!ボク、絶対あつしくんより優しくて可愛いよ!」
「可愛いは関係無いだろ…」

運ばれてきたワインとピザを二人で分け合って、僕はアルコールでぐらつく頭を巡らせ、そして一つの答えに辿り着いた。


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「過去に戻る機械、だスか?」

次の日、二日酔いを抱えながら訪れたのはデカパンのラボ。
僕は、もしもこうしていたらを実現しようと思ったのだ。過去に戻って、僕となまえちゃんの関係をやり直す。それしか、今の僕には思いつかなかった。

「カラ松くん、」
「トド松です」
「トド松くん、過去に戻るということが、どんなことか分かっているだスか?君だけじゃない、他の人の現在や未来を崩してしまうことにもなりかねないんだスよ?」

チョロ松兄さんとなまえちゃんの笑顔が脳裏を過る。それを振り払うように僕は大きくかぶりを振った。

「…それでもボクは、どうしてもやり直したい…ッ」

膝についた両拳がギリリと鳴る。食いしばった奥歯が同じように鳴って、僕は俯いた。

「ホエホエ…、事情があるのは分かっただス…。残念だスが、此処には過去に戻る機械は無いだス」

申し訳なさそうに眉を下げるデカパン。僕は自嘲気味に肩を竦めた。
やっぱり、そんな上手い話あるわけない。

「…でも、過去に戻る薬ならあるだスよ」
「…っえ、エッ!?本当に!?ぶっちゃけボクも半信半疑っていうか、酔っ払いのノリで来ちゃった感じだったんだけど、マジで?!」
「この薬は、“もしも薬”。トド松くんが過去にこうしていれば、ああしていればと思っていることを追体験出来る薬だス」
「追体験、ってことは現在に影響は出ないってこと…?」

デカパンを見ると、デカパンは少し難しそうな顔をしていた。

「トド松くん、現在というのは、いくつもの過去の連なりを束ねたものなんだス。パラレルワールドというものを知ってるだスか?現在や未来というのは、いくつもある可能性を束ねた一つの世界であり、世界というのはとても微妙なバランスで成り立ってるものなんだス。その過去の一つが変われば、当然現在も変わることになるんだス」
「…?」
「つまり、トド松くんが過去の追体験の中でなにかを大きく変えるとするだス。それはトド松くんの中だけで起こる出来事だスが、そもそもこの世界というのは一人一人の記憶で成り立っていると言っても過言じゃないんだス。だから、トド松くんの記憶が塗り替えられれば、少なからず現在や未来にも影響が出る可能性があるんだス」
「…ほう、?」
「先程も言っただスが、現在や未来は多くの過去の連なりで出来ているとても強固な存在なんだス。それを変えるのは、例えタイムマシンがあったとしても難しいことをよぉく覚えておくだス」

デカパンの深刻な声に、僕は出来るだけ神妙に頷いて見せた。
実際、僕はデカパンの言うことの半分も理解していなかったけれど、そんなことはどうでもいいのだ。無責任?今更こんなクズになにを求められるっていうのだ。僕は私利私欲のために、過去を変えたい。その事実を僕は弁解するつもりもない。

「“もしも薬”、ください」
「ホエ、…分かっただス。トド松くん、ちょっと来るだス」

デカパンに案内されてやって来たのはラボの奥の一室。診療室のようなそこには簡素なベッドが一つ置かれていた。
まさか、薬代は体で払えとか冗談じゃないこと言い出したりしないよね?いくら僕が可愛いからって、こんなおっさん相手に童貞も処女も捨てる気無いんだけど?!

「ここに寝るだス」
「ひえっ!?」
「どうしただス?」
「いや、あの…、な、なんで…?」
「“もしも薬”を飲んだあと、トド松くんの体は眠りにつくんだス。これは記憶の旅のようなものだスから、トド松くんの追体験が終わるまで、ここで寝ていくといいだス」
「アッなんだぁ!そういうこと!オッケーオッケー!」

ああ、よかったぁ!いつもパンツ一丁のおっさんだから、そういう非人道的でエロ同人みたいなことも平然とするかと思って本気で心配したよ!

「“もしも薬”を飲んだら、戻りたい時代を強く念じるんだス。夢の中を歩くような感覚だと思うダスが、その内向こうでの意識がはっきりすると思うだス」
「うん、分かったよ。デカパン博士」
「トド松くん、トド松くんはきっとこの体験で得るものがあるはずだス」
「得るもの…?」
「過去を大事にするだスよ」

そう言って、デカパンはシャーレに置かれた一つのカプセル薬と水のコップを僕に差し出した。僕はなにも分かっちゃいないのに深く頷いて、目の前の薬をヒョイと摘み上げてコクンと飲み込んだ。
枕に頭を預けると、徐々に意識が朦朧とし始める。僕は不安と期待を半分ずつ抱え、目を閉じた。
僕が戻りたい時代、僕が戻りたいのは、そう

高校二年の、あの夏の日。

「…トド松?」

茜色の教室。
僕は誰のかも知らない席に座っていた。机を挟んだ目の前には、こちらを向いて座るなまえちゃんの姿。茜色の世界はとても綺麗で、埃がキラキラと光る様が幻想的だった。
外からは運動部の掛け声、放課後の校内放送が鳴り止んだ余韻を僕は楽しんでいた。

これは、あの夏の日だ。

「トド松ってば」
「……っえ!?」
「ぼーっとしちゃって、大丈夫?」
「…あっ、…え、…と」

ぼんやりとした意識がゆっくりと収束する。僕の前に居るのは、高校時代のなまえちゃん。このシチュエーション、この時間、この時代、これは僕が初めてなまえちゃんに告白をした日だ。

「ごめんっ、寝惚けてた…かも?」
「もう、しっかりしてよ」

カラカラと笑うなまえちゃんを眺めながら、僕は頭の整理をしていた。
美化委員であるなまえちゃんの花壇が荒らされる事件があってから、恐らく一週間と経たない頃だ。
僕がなまえちゃんに告白しようと思った切っ掛けは、正にこの事件が発端だった。
僕は、僕に好意を寄せる女の子の存在を知って少しばかり良い気にもなっていたし、なによりカラ松兄さんが一番になまえちゃんを励ましたことがとても悔しかったのだ。事前に気づけなかった自分にも腹が立って、彼女をもっとそばで守りたいと思った。
だから、今日この日、なまえちゃんの教室で彼女に告白をした。気恥ずかしさから冗談混じりになったことは後悔していたけれど、告白しようと思った気持ちを後悔したことは一度だってない。

けれど、それでは同じ結果だ。
僕が未来を変えるためには、ここから違う過去を演じなければならない。

僕は、今日この日から過去を変えるのだ。


君とワンモアタイム
あの夏からまた始めよう
(2017.12.19)


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