「そういえばトド松、話あるんじゃなかったっけ?」

なまえちゃんの声を聞いていると、この世界が僕にとっての現実として浸透していくような錯覚を覚えた。
僕の心も、高校生のあの頃に戻ったように感じる。

「…ううん、特にこれと言って話したいことがあったわけじゃないんだ。ただ、なまえちゃんと二人で話したいなぁと思っただけ」
「えー、ふふ、いつも二人で話してるじゃん」
「違う違う、いつもは周りに人が居るけど、二人きりでのんびり話がしたかったってこと!」
「なになに、周りに聞かれたくない話でもあるの?」

どこか揶揄うように、なまえちゃんは悪戯っぽく笑う。
なんだか、懐かしいな。最近はこういう姿を目の前で見ることも殆んど無くなってしまった。
懐かしさが、次第に愁いに変わる。少し泣きそうになって、僕は俯いた。

「え、トド松?どうしたの?」
「…っや、なんでもない、なんでもないよ」

溢れ落ちそうになったのは鼻水で、自分でもその格好悪さに笑いながら鼻をすする。
ふいに、なまえちゃんの手が僕の手に触れ、右手の甲が優しい温かさに包まれた。

「なんでもなくないよ」
「…なまえ、ちゃん、?」
「なんかあるなら言ってよ、私じゃ力になれない?」

なまえちゃんは昔から変わらず優しい。僕はそれが嬉しくて、嬉しすぎて、自分がなにをしようとしているのか見ないふりをするのに必死になった。

「…べつに、本当になんでもないんだよ」
「……分かった。信じる。でも、私になにか相談したいことがあったら、いつでも言ってね」
「うん、ありがとうなまえちゃん」

変わらない優しい笑顔を見つめながら、僕はなにもかもを忘れて微笑んだ。僕の手を包むなまえちゃんの手を、そっと握り返す。
僕たちの間には、ただ優しい時間だけが流れていた。

その日の帰り道。僕たちは遠く藍色に染まり始めた空の下を、二人並んで歩いていた。
くだらない話題は尽きなくて、終始笑い合いながら歩く帰路はとんでもなくしあわせな時間だった。

「それでさ、十四松が先生の質問にどんどん勢いだけで答えるから、先生のほうが根負けしちゃって!」
「はははっ、ほんと十四松兄さんってば、授業にならないじゃん」
「そうなの、だからうちのクラスだけ古文遅れてるんだって」
「あーっ可笑しっ、ボクもなまえちゃんと同じクラスになりたかったなぁ。二年こそはって思ってたのに」
「ふふ、一年目がおそ松で二年目が十四松だからねぇ、私としてはもっと落ち着いたクラスが良かったよ」
「じゃあほら!やっぱりボクと一緒のがいいじゃん!」
「えー?トド松はクラスの女の子侍らせて構ってくれなさそう」
「ちょ、そんなことないから!」
「あははっ、でも来年は一緒になれると良いね?」
「そうだね、なりたいなぁ」

でも、僕は既に知っている。結局、僕は高校の三年間一度もなまえちゃんと同じクラスになることはなかった。

そう、確か三年目は

「チョロ松と同じクラスになったんだけど、」

昼休みの屋上。真昼の太陽を頭上に感じて、僕は目を眇めた。
突然変わった場面に面食らいつつも、僕は横に座るなまえちゃんを見る。少し不機嫌な表情でお弁当をつつきながら、話題は続いているようだった。

「なんかさぁ、私嫌われてるのかな。なにかした憶え無いんだけど」

思い出した。これは高三になって少し経った頃の出来事だ。
告白後、僕らは親友と言って差支えない関係を築き、昼休みは一緒に居ることも少なくなかった。そこで、なまえちゃんからチョロ松兄さんについての相談を受けたのだ。
なにを考えていたのか知らないが、チョロ松兄さんはなまえちゃんにだけ冷たかった。高三になり、なまえちゃんとチョロ松兄さんが同じクラスになって、なまえちゃんはチョロ松兄さんと友達になろうとしていたが、チョロ松兄さんはそれをあまり好く受け止めなかったようだ。
なまえちゃんは可哀想にも、そんなクズのことで悩んでいた。

告白をしなくても、僕らの関係はなにも変わらないらしい。ただ、この世界の僕はなまえちゃんに気持ちを打ち明けなかったはずだ。そして、僕はこの時チョロ松兄さんを擁護してなまえちゃんを励ましたような憶えがある。
チョロ松兄さんはアレで複雑な人間だから、気長に付き合ってみるといいよ。そんなことを言ったような気がする。

「トド松?聞いてる?」
「…ん、あ、ごめん。なんの話だっけ?」
「もう!だから、チョロ松のこと!」
「チョロ松兄さん?なに、仲良くなったの?」
「その逆だって話をしてたの!」
「へぇ?でもなまえちゃんが仲良くない人を呼び捨てにしてるの珍しいよね」
「向こうが先に私のこと下の名前で呼び捨てにしてきたから、なんかよく分かんないけどカチンときてさ!私も反抗して呼び捨てにしてやってんの」
「可愛い反抗だねー」
「そうじゃなくて!もう、ちゃんと話し聞いてってば」
「はいはい、で、チョロ松兄さんが冷たいって話?」
「…ちゃんと聞いてるじゃん。なんでトド松もそうやって私のことからかうかなぁ」
「だってなまえちゃん反応良いから、ついね」
「おそ松も同じこと言ってた…」

どうやらおそ松兄さんにも、チョロ松兄さんのことについて相談をしていたらしい。なまえちゃんは、軽く唇を突き出してムッとした表情を浮かべた。可愛いが服着て僕の隣に座ってる。

「そんで、おそ松兄さんはなんて言ってたの?」
「チョロ松は頭が固いからほっとけって」
「んじゃあ、そうすれば?」
「クラスメイトだよ?それに、他の五人とは仲良くなれたのに、チョロ松だけ仲間外れにするみたいでそれは嫌なの」

そう言ってお昼ご飯を頬張るなまえちゃんに、僕はどうしたものかと考える。実際の時間軸だと、このあとなまえちゃんとチョロ松兄さんは約五年の月日を掛けてゆっくりと和解していく。なんならその頃には恋人同士なのだから、時の流れというのは分からないものだ。

「…いいよ、チョロ松兄さんのことは考えなくて」
「え?」
「なまえちゃんがどうこうって話じゃないんだよ、チョロ松兄さんが勝手にライジングしてるだけだから」
「ライ、ジング…?」
「そう。だから、気にするだけ無駄だってこと」
「そう、なの?…よく、分かんないんだけど…」
「そうなの。ほら、こんな話してたらお昼が不味くなるし、やめよ!」

なまえちゃんは腑に落ちない表情を浮かべたあと、渋々ながら箸を進める作業に戻った。僕は大して味のしないお弁当に手をつけながら、そっと彼女を盗み見る。

どうして、チョロ松兄さんなんだ。

ずっと思っていた。
どうしてなまえちゃんはチョロ松兄さんを、チョロ松兄さんはなまえちゃんを、他とは違う相手だと認識しているのか。それが例え喧嘩に発展するような間柄であっても、お互いにとって異例で、特別であることには違いなかった。そしてそれは、いつの間にか特別な愛情に変わっているのだ。

「…なんで、だろ」
「ん?どうしたの?」
「…いや、なんでなまえちゃんはチョロ松兄さんのこと嫌いなのかなぁって考えてた」
「えっ!?べつに嫌いなわけじゃないよ?!向こうが勝手に突っ掛かってくるっていうか…ただ、なんか、」
「なんか?」
「……なんか、顔合わすたびモヤモヤして、イライラする、んだよね…。あっ、チョロ松には言わないでね?!これ以上キツく当たられるの嫌だし」
「…うん、分かった」

それってどんな感情なのかな。
僕はそんなふうに思う相手と仲良くなりたいなんて考えもしないけど、きっとそうじゃないんだろうな。なまえちゃんにとって、チョロ松兄さんはきっとそうじゃなかったんだ。

それから場面が切り替わることはなく、僕は高校の授業まで追体験させられる羽目になった。数学も英語も忘れてることのほうが多くて、いったい今の僕にこの時の授業のなにが役に立っているのだろうと、不覚にも悩まされる。

「ただいまー」

委員会の無い放課後を過ごして、なまえちゃんとは別々の帰路に就いた。
この世界の僕は、なまえちゃんを中心に回っているがために、彼女以外の存在を感じる慣れ親しんだ自宅に妙な違和感を感じていた。

「…変な感じ」
「変なのはお前だよ」
「わァ!?」

独り言の呟きに背後から返答があって、僕は飛び上がって驚いた。

「ちょ、そんなにびっくりする?」
「チョロ松兄さん…っ!もう、急に声掛けないでよ!?」
「お前が玄関先に突っ立って邪魔してたんだろ」
「考え事してたの!」
「はいはい、いいからそこ退けて。玄関開けられないんだけど」
「あのさ、チョロ松兄さん」

僕を押し退けたチョロ松兄さんの腕を咄嗟に掴む。チョロ松兄さんは怪訝な顔で僕を見ていた。

「…なまえちゃんのこと、どう思ってる?」
「は?」
「なまえちゃん!分かるよね?!」
「いや、分かるけど…、どうってなに」
「どうって言葉通りだよ!どう思ってるの?好き?嫌い?」
「はあ?!いやいや意味分かんないから、どうしたんだよ急に」
「いいから答えてって!」
「…なんなのいったい」

呆れ顔のチョロ松兄さんは、けれどゆっくり溜め息らしきものをついて僕に向き直った。

「どうってこともないだろ。みょうじなまえだろ?ぼくのクラスメイトで、お前らの友達。はい、終わり」
「…っえ、それだけ!?」
「もういいだろ、腕離してよ。観たい番組あるから早く帰ってきたのに」
「いやいやいや!もっと他に無いの?!」

だってなまえちゃんはあんなに悩むほどチョロ松兄さんのこと考えてたんだよ?それなのにこのクズからは、そんな立場的な認識だけ?そんなはずない!

「あるでしょもっと!」
「なにお前どうしたの?変だよ今日」
「変なのはチョロ松兄さんでしょ!なまえちゃん以外の女の子にはそんなふうにならないじゃん!」
「ッ、べつにッ!」

強い力で腕を振り払われる。

「…苦手なだけ。一年の頃からずっと知ってるけど、その頃からずっと、…見るとイライラするんだよ」
「………………」
「もういいでしょ、なんなの本当に」

チョロ松兄さんが玄関の戸を開けて家の中へと消えて行く。僕は半分呆然としながら、その背中を見送っていた。
意識が一瞬のうちに濁流の如く戻ってくる。

なんだよそれ

居間に入るチョロ松兄さんを追いかけて、襟首を引いて胸倉を掴む。目を丸くしたチョロ松兄さんの顔が目の前に見えた。

「どうせ、お前はボクを拒むくせに…ッ」
「は、はあ?んだよ、ちょ、離せ…っ、」
「イライラ?なにそれ!?そんな言葉で感情隠して、ボクに理解させないつもり!?なんなんだよ二人してさぁ!?」
「おま、ちょっと落ち着けって…」
「お前は結局なにもかも独り占めするんだよ!!ボクがただ単になまえちゃんを避けてたと思う!?違うんだよ、ボクは兄弟にも嫌われたくない!ボクはアンタのことも大事に思ってるんだよ!!」
「と、トド松?お前意味分かんないんだけど…?」
「ボクだって分かんないよ…ッ!!ボクは、なまえちゃんのこと大事で大好きだけど、二人が幸せならって本当に思ってるし、でもどんどん気持ちだけ変になっていって普通に出来なくなるし…!!」
「えっ!?お前、あいつのこと好きだったの?!」
「そうだよ!!今もずっと大好きだよ!!でも、それだけなの!!ボクはなまえちゃんが大好きで離れたくないけど、でもアンタとのことは認めてやってんだよォ!!」
「いや、意味分かんないって、とりあえず落ち着けよトド松…」
「ボクを仲間外れにすんなよォ…っ!!」

なにも知らない高校生のチョロ松兄さんの前で、僕は泣き崩れた。
困り果てるチョロ松兄さんが、訳も分からず背中を撫でてくれる。僕はこの兄のことを嫌ってるわけじゃないんだ。

瞬きの内に場面が変わる。
眼下に並ぶ白と黒の小石を見つめて、僕はゆっくりとした瞬きを繰り返した。

「囲碁って難しいね」
「…そう、かな」
「うん、陣取りゲームっていうのは分かるんだけど、やっぱりまだどこを取ったら良いのか分かんない」
「そのうち、慣れるよ。それまで教えてあげるし」

二階の自室。なまえちゃんと僕との間には折りたたみ式の碁盤が置かれていて、まだゲームは始まって間もないようだった。
なまえちゃんと囲碁をしたのは、あの日の一度しかない。これは、チョロ松兄さんとなまえちゃんがプリクラを撮ったあとの出来事だ。あれから結局、僕はなまえちゃんと囲碁を打つことは無かった。

「ありがと、トド松ってさ優しいよね」
「今更気づいたの?」
「うん今更気づいた」
「えー、ひどいなぁ」

クスクスと楽しそうに笑うなまえちゃんは、碁盤から目を離さないままだ。
僕は、瞬きと深呼吸をゆっくりと一回ずつ。そして、碁盤の上に伸ばされたなまえちゃんの手をなるだけ優しく掴んだ。
顔を上げたなまえちゃんと、目が合う。

この日、僕はチョロ松兄さんの変化に気がついて、そして一週間と少しあと、チョロ松兄さんとなまえちゃんは恋人同士になる。
僕がなまえちゃんと二人だけで居られたのは、次のデートが殆んど最後だと言って良いだろう。この頃はまだ、単純になまえちゃんを離したくなかった。そばに居られるのならどんな形でも良いと思っていた。

それがひどくつらくなって、ひどく寂しくなったのはいつからだっただろう。
そばに居たいのに居られない、好きでいること自体に罪悪感さえ湧いた。
ただ好きなんだ、なまえちゃんが好きで、自分でもどうしたらいいのか分からなくなった。だからここへ来たし、過去を変えてやりたいと思った。
今までのことで、なにかは変わったのだろうか。結局、僕は彼女を失うのではないだろうか。何度やっても、僕は

「トド松…?」
「なまえちゃん」
「どう、したの?」
「ねぇ、突飛なことを言ってると思うだろうけど、聞いて」
「……うん」
「ボクは、君が好きだ」

何度やっても、僕は君に選ばれないんだろうなぁ。

「…………」
「なまえちゃんが、好きだよ。ずっと、高校の頃から今までずっと好きなままなんだ」

思えば長すぎる片思いだ。諦めようと何度も思った、他の女の子とデートだっていっぱいした、それでも僕にとってなまえちゃんはいつも特別だった。

「大好き」

この一言を、会うたびに言いたかった。僕の気持ちを知ってもらいたかった。選ばれない僕であっても、君が好きだということを知って、その上で一緒にいてほしかった。
君との未来を想像したことだってあるよ、でもどうだろう?僕の想像の中の君は、今チョロ松兄さんと一緒に居る君より幸せそうだっただろうか。

この行き場のない気持ち、これは正しく恋慕だ。そしてそれは同時に罪悪感で、僕はそれを一人じゃ処理しきれなかった。
けれど、僕は気づいたのだ。

「…トド松、」
「だから、」

僕一人で抱えるには大きくなりすぎたこの気持ちを、もう僕は一人で抱え込まないことにしたよ。

「幸せになってください。ボクは大好きな君に幸せになってほしい。でも、ボクのことを忘れないで。これからもずっと、君を好きでいたい。ボクはなまえちゃんにとってずっと、大切な存在でいたいよ」

幼子が持つような独占欲と愛情。僕がなまえちゃんに抱き続けるこの想いを、どうか受け取ってください。

「君と…離れたくないよ…」

俯くように頭を垂れた僕に、なまえちゃんは手を伸ばしてくれたらしかった。くしゃりと撫でられた頭に感じる温かさに、涙腺が痛いほどに緩む。

「トド松…、ねぇ、トド松…」
「……っなまえちゃん」

抱き締めたくて伸ばした手が空を切った。


やっと自分の本心を知る
迷子の子供に光が差したみたいだ。
(2017.12.19)


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