――― #2


残念ながら私が松野おそ松という男になってしまったのは、性質の悪い悪戯でも悪夢でもなかった。
おそ松となった一日をなんとか過ごしてみたけれど、次の朝も私は変わらず松野おそ松だったのだ。頭が痛い。

六つ子の両親にもおそ松は記憶喪失ということで通したのだが、彼らはどうにも順応性が高い。両親共に「そうか」の一言で終わらせてしまった。六人も息子が居ると、精神が強くなるものなのかもしれない。
それから、松野おそ松として一日を過ごしてみて、いくつかおそ松と彼らの弟について分かったことがある。一つに、彼らは成人した働き盛りの健康な男性であるというのに、揃いも揃ってニートだということ。加えて、おそ松はギャンブル狂いの喫煙者、家の手伝いもせず日がな一日だらだらと過ごしていたらしい。そんな生活、私なら心臓張り裂ける。ただでさえ、六人も息子を抱えて大変だというのに、その六人は働かず親からの小遣いで生活しているのだという。端的に言って、クズだ。(蛇足的に教えられたのは、六人揃って童貞だという情報だ。本当にどうでもいい)

「おはよー、おそ松にーさん」

二日目の朝、洗面所で顔を洗っていると後ろから弟の誰かに声を掛けられた。パジャマ姿じゃさすがに区別がつかない。

「あ、おはよう…えっと」
「トド松だよー、まだ記憶戻ってないんだね」
「うん、ごめんね…」
「おそ松兄さんがそんな風に謝ってるのウケるから!やめてー!」

腕を擦りながらケラケラ笑うトド松に洗面台を譲って、横に並んで歯磨きを始める。他人の歯ブラシで歯を磨くのはかなり抵抗感があるけれど、今の私にとってはこれが私の歯ブラシなのだから仕方ない。
歯磨きを終えて居間に行くと、居間はガランとしていて誰も居なかった。それもそうだ。弟たちはさっき起きていたトド松を除いて全員がまだ寝ていたし(もう朝の八時なのだけど)、両親の姿が見えないのは既に出掛けた後なのだろう。普通の会社員なら出勤済みだろうし、お母さんはまだ寝ているか、もしかしたらパートなどに出掛けたのかもしれない。
平和な家庭だなぁ。なんて、自分も充分平和な生活を送っていたのに、ついそんなことを思ってしまった。

「お腹空いたな…」

台所を振り返って、お腹をさする。悪いなとは思ったけれど、勝手に冷蔵庫の中を漁らせて頂いた。どうせなら兄弟分の朝食を作ろうか。
白米は炊けているようだから、そのおかずになるものと味噌汁でも作ろう。冷凍庫を見ると、大量の肉や魚が小分けに保存されている。涙ぐましい母の努力を垣間見て、子供が居るっていうのは大変なことなんだなとしみじみ思わされた。
六人分の鮭を焼いて、その間に味噌汁やほうれん草の御浸しなんかを作っていく。品数が多いほうが好きだという個人的好みで、小鉢になるようなおかずを何品か作らせて頂いた。

「おそ松兄さんが…料理してる…」

振り返ると、愕然と青褪めた表情の弟が私の背中を見ていた。

「ええと、トド松?で合ってる?」
「そ、それは、合ってる…けど…」
「ん、朝食食べるでしょ?六人分あるから、みんなを起こしてきてよ」
「……えっ!?」
「?朝ご飯、食べない派だった?」
「い、いや…!食べるけど、ちょ、え?ごめん、全然整理がつかないんだけど…!?まず、なんで料理出来んの!?」
「あ…」

そうか、記憶喪失ってことはこういうことも出来るわけないのか。いや、それ以前にギャンブル狂いの童貞クズニートが料理なんか出来るわけないよね。完璧に私の偏見だけど。

「いや、なんかさ、お腹空いたなって思ったら…出来た」
「マジで!?」
「と、とにかくみんな起こしておいでよ。温かい内に食べたほうが美味しいからさ」
「う、うん…」

誤魔化しきれない部分は笑顔で押し通して、トド松を二階へと追いやる。六人分の皿やお椀を出して盛り付け、次々に居間の卓袱台へと運んでいると、ぞろぞろドタドタと弟たちが二階から下りてきたようだ。

「めっちゃ良い匂いするー!!」
「マジで?え?おそ松兄さんマジなの?」
「料理したって本当なのかおそ松!?食べられるものなのか!?」
「ま、マジだ…しかもかなり豪勢な朝飯…だと…?この世の終わりだ、これがぼくらの最後の晩餐なんだ…」
「料理してるおそ松兄さん見たとき、ボク心臓止まるかと思ったよ!!ほんとなんなの!?怖いんだけど!?」
「あは、あはは…」

彼らの発言全てに曖昧な笑みで返事をして、空腹の赴くままに手を合わせる。五人とも納得はしていないようだったけれど、私が作った小鉢の一つに手をつけるとみんながみんな箸を止めた。…口に合わなかっただろうか。

「…う、美味い」
「美味しい…」
「…嘘だろ?」
「ブラザーにこんな才能があったなんて…!」
「うんまい!うんまいよォーーー!!」

ぽっと華やいだ表情を見せる五人に、ほっと胸を撫で下ろす。それから物凄い勢いで食事を始める五人に、自然と笑みが零れてしまった。その一連の流れがとても可愛く思えたのだ。
童貞クズニートの集まりではあるけれど、それぞれに憎めない愛嬌があるのだから、なんとも不思議な人たちだ。きっと、おそ松自身もそんな不思議な魅力のある人だったのだろう。

「え、おそ松兄さんのことを知りたい?」
「うん、どんな人だったのか教えてほしいんだ」

朝食後、各々好きなように過ごす中で、私は居間でスマホをいじるトド松に声を掛けた。パーカーに着替えてくれれば、あとは見分けがつくので、この色分け方式は本当に助かっている。

「どんなって言われてもなぁ…昨日結構説明したと思うけど」
「ギャンブル狂いの童貞クズニートって話以外で、なにかない?」
「いやむしろそれを抜いたらもうおそ松兄さんなんか残んないよ?」
「…せ、せめて、トド松の主観的な印象とかさ…」

こんなことは考えたくもないが、もしも今後の人生をこのまま松野おそ松として歩んでいかなきゃいけないのだとすれば、少しくらいおそ松という人間の良いところを知っておきたい。少しは彼の性格に寄せておかないと、記憶喪失という設定すら危うくなってしまう。…本当は、元の自分に戻れるのが一番なのだけど。

「んー…、おそ松兄さんのことねぇ…、ボクらみんなクズだけど、その先頭を行くクズって感じかなぁ?」
「……それ以外で…」
「ふふ、ボクはおそ松兄さんのクズなところ好きだよ?あ、もちろん良い意味のクズなとこね。マジで死んでくれって思うとこもいっぱいあるから」
「…良いクズってなんだろうか」
「おそ松兄さんはさ、良くも悪くも長男だよ。バカやるにも真面目だし、迷いが無いよね。ボクらもおそ松兄さんがクズニートだから安心してクズニートしてられるってとこあるし」
「それって、ぼ、…おれが、トド松たちを引き摺り落としてるみたいな感じなの?」
「え?違うよ、結局ボクらはクズなの、クソ闇地獄カーストの最底辺なの!」
「…そんなの、自分で決めつけちゃ駄目だと思うんだけど…」

私がそう言うと、トド松は少しの間黙り込んで、それからスマホの画面を閉じて頬杖をついた。

「なんか、今のおそ松兄さんは全然おそ松兄さんじゃないよね」
「えっ…」
「いつものおそ松兄さんなら「だよねー分かってんじゃーん」って片付けそうな話なのに、そんな真面目に答えちゃってさ。おそ松兄さんは潜在的におそ松兄さんでしかないって思ってけど、違ったのかな…」
「……ごめん」
「そういうところ!なんですぐ謝るかなぁ?正直、ボクに被害が無いならどうでもいいかなって思ってたけど、なーんか調子狂うんだよねぇ…」

複雑そうに表情を歪めて口元に笑みを貼りつけるトド松に、心が痛む。立ち上がった私をトド松の視線だけが追い掛けてきた。そのトド松に曖昧な笑みを向けると、眉間に皺を寄せたトド松が口を開く。

「調子は狂うけど、否定してるわけじゃないんだから、好きにやりなよ。でも、そういう顔すんのやめて、ボクがおそ松兄さんいじめたみたいで…なんか、やだ」

唇を尖らせて視線を横に流すトド松は、多分あまり素直な人じゃないのだろう。座り直した私をトド松はちらりと見て、また視線を逸らす。男同士だとこんなことしたら気持ち悪いのかなと思いながら、トド松の手を取る。予想外にもあまり驚かれなかった。

「ごめんな、トド松。お兄ちゃん、全部忘れて。でも、トド松やみんなが大事な家族だってことは分かるから、…そんなに拗ねないでよ」
「べつに、拗ねてないよ!」
「えー、ほんとにー?」

少しからかって笑うと、怒った顔をしていたトド松が突然ふにゃりと眉を下げて笑顔を見せた。

「そういうとこは、おそ松兄さんのまんまだ」

トド松には笑みを返したけれど、やっぱり私の心は痛みを訴えた。


前項 戻る 次項

ALICE+