――― #5


「お前、いつ戻るんだよ」

そんなの、私のほうが聞きたいよ。
つきそうになった悪態を喉奥に押し込めて、なんとか笑顔を顔に貼り付けた。

バイトのシフトが入っていない日の昼下がり、お母さんと分担していた家事も終わって、たまにはいいかと居間でごろごろしていたら、帰って来たチョロ松に冒頭の台詞を言われたのだった。
アイドルのライブ帰りらしいチョロ松は、紙袋やリュックを横に置いて、私の前に正座する。その顔はとても真剣で、私もつい体を起こして同じように正座をしてしまうほどだ。

「どうしたの、チョロ松」
「どうしたのはこっちの台詞だよ」
「うーん…そう言われても、ごめんな?おれ、まだなにも思い出せそうになくて…」
「べつに記憶なんてどうだっていいよ、おそ松兄さんが思い出して幸せな記憶なんて殆んど無いと思うから」
「マジかよ…」

だから、おそ松ってどういう人間なの?人望あるようで無いし、弟たちには頼られるけどボロクソ言われるし、いったいなんなの?

「おそ松兄さんさ、最近バイト始めたでしょ」
「ああ、うん。駅前の居酒屋でね」
「なんで?」
「なんでって…まぁ、バイトくらいしないと、生活感無いっていうか、毎日つまんなくて」
「最近パチンコも競馬も行ってないよね?」
「うん、ああいうの訳分かんないし。それよりは堅実に稼いだほうが手っ取り早いかなと思うし」
「ねぇ、最後にオナニーしたのいつ?」
「オナっ!?い、いやしてない!してないよ!!」
「AVは?グラビア雑誌は?せめてテレビに出てる女優とかで妄想してるとかさぁ!?」
「ちょ、あの、チョロ松?どうしたの?」

ヒートアップしていくチョロ松に、私はどうしたらいいのか分からなくてオロオロするけれど、そんな私の様子にも気づいていないチョロ松は、ぐっと両手に拳を作った。

「お前は誰なんだよ…ッ!!!」

ダン!と床に叩きつけられたチョロ松の両拳。
私は、ひゅっと空気を呑んだ。冷や汗が出て、胃の辺りが一気に冷えていく感覚をじわりと味わう。

「………ごめん…、ごめんな、チョロ松…」
「ごめんじゃ、ねぇよ…」

床に項垂れるチョロ松の頭をそっと撫でると、手を払われた。どうしていいかも分からず押し黙る。

「今日…、おそ松兄さんのバイト先の人に会った…。アンタ、俺らのこと話してるんだ?おそ松くんの弟さんですかって話しかけられたよ」

確かに、私はバイト先で自分が六つ子で、弟が五人居ることを話している。凄い話題性があるし、おかげで同年代の人たちとはすぐ打ち解けられたけれど、チョロ松にとってそういうのは嫌なことだったんだろうか。あまり家族のことをネタにされるのは嫌なのかな、…そりゃ他人の私がその話題を利用したことは悪いと思っているけど、悪いことは言ってないつもりだし…

「なんて言われたと思う?」
「えっ」
「お前の!バイト仲間に!!」

見当がつかなくて、首を振る。本当に、弟たちや両親を辱めるようなことは一切話していないし、なんなら可愛い弟たちだって紹介してる。調子乗って弟の見分け方を教えたのが不味かった?いやでもそんなのべつに困ることじゃないだろうし、なにがいけなかったのか、その理由が一つも浮かんでこないのだ。

「…っいい、って…ッ」
「ご、ごめん、よく聞こえな」
「可愛いって…!!なんかすっごい可愛い女の子に!!本当に可愛い弟さんですねって…!!お前、ほんと…神かよ…ッ!!!」
「は?」
「なに、ぼくのことなんて話してるわけ!?全然知らない子にチョロ松くんって名前まで言い当てられたんですけど!?つーかあんな可愛い子と一緒に働いてんの!?マジふざけんなよ!!ぼくも居酒屋で働きたくなったわ!!あんな可愛い子が近くに居たら毎日オカズに困んねぇよ!!それなのになんでシコのシの字も無いわけ!?記憶と一緒に性欲も失くしちゃったの!?意味分かんないんだけど!?」
「ちょっと黙れ」
「だッッ」

拳骨で頭を殴ってしまった。
深刻になって落ち込んだ私のあの時間を今すぐ返せ。

「チョロ松くん、少し落ち着いてもらえるかな」
「あ、はい…」

冷え切った目をしていたと思う。実際、私の心はとても冷え切っていた。バイト先の女の子をここまで不純な目で見られる男心というやつにも辟易したし、なに深刻そうな顔してアホみたいなこと吐かすんだコイツとも思って、怒りの波が凪ぐのを待つ時間が私には必要だった。
少しの時間、二人見合いながら沈黙を守り、私はやっとひとつ息をつくことが出来た。

「あのさ、チョロ松」
「な、なに…?」
「おれが、今のおれになって、迷惑してる?」
「えっ?…あ、いや、それは…」
「正直に言っていいよ」
「…むしろ、良いことばっかな気がするよ。前がクソ過ぎたっていうのもあるけど、それだけじゃなくて…、今のおそ松兄さんは…普通になった。仕事もして、家のことして、ギャンブルも煙草もやめてさ、凄いよ」

褒められているはずなのに、チョロ松の曇っていく表情を見ていると、素直には喜べなかった。

「今日も、あんな可愛い子に話しかけられたのなんて初めてのことだったし、それは全部今のおそ松兄さんのおかげだ。…でも、」
「うん」
「……寂しいって思っちゃうんだ」
「…うん」
「今のおそ松兄さんのほうが、断然人として褒められるべきだよ。でもさ、ぼくらのおそ松兄さんは、クズでクソでバカが服着て歩いてるような人で、それでも、これまでずっとぼくらの兄さんだったから…」

チョロ松を抱き寄せて、その背中を優しく叩く。顔を見ないのが、兄としての優しさなんじゃないかと思った。肩口がじんわりと温かくなっていくのを、私は瞼を落として気づかないふりをした。


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